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第10話

 その呑み比べは何の前触れもなく始まりました。


 黒龍さんが咆哮を轟かせると、それに呼応するように、積乱雲がゴロゴロと唸りを上げます。そしてポツリと私の頬を濡らしたのです。


 すわ、雷雨による攻撃か。そう思っておへそを隠したのも束の間、鼻腔を刺激する、嗅いだことのある匂いに気が付いたのです。


 芳醇で濃密で濃厚な、度し難いほどに芳しいアルコールの匂い。

 先ほど「竜宮城」で肺一杯に吸い込んだ、高濃度の酒精を凌駕する勢いの、酒精の雨が降ってきたのです。


 天の恵みとはまさにこのことでしょう。私は大きくお口を開けてその恵みを甘受しようとして、しかしそれが叶うことはありませんでした。


 雄叫びを上げた黒龍さんが、今度は吸引機のように轟々と酒精の雨を吸い込みだしたのです。


 あともう少しで私のお口に収まるはずだった雨粒も、龍の逆息吹にはかないません。みるみるうちに黒龍さんの大きなお口に呑まれていきます。


 酒精の雨が吞めなかったのは残念ですが、ここでほっぺを膨らませてくよくよしていても仕方がありません。


 私も負けじと茶ヶ龍さんからお借りした盃で、酒樽からお酒をなみなみ掬い取って、こくりと一口頂きます。


 瞬間、喉が焼けるような感覚とともに、お腹の奥底から暖かな幸せがこみあげてくるのを感じました。舌触りはなめらかで、まるで深緑にある沢の小さな滝から掬い取る清流のようで、ひんやりとしたのど越しを伴って、するすると食道を流れていきます。


 美味かな、美味かな。

 私は感嘆のため息を漏らして、一口、また一口と杯を傾けるのでした。


「いい呑みっぷりだね。キミもそうは思わないか」

「ふん、たかが酒を呑む姿がなんだというのだ。所詮、美味い酒も不味い酒も、腹の中に納まってしまえば同じ。如何に酒を腹に収めるか。それこそがそのものの器を測るのだ」


 茶ヶ龍さんの言に、黒龍さんはいかようにしてか、もごもごとするわけでもなく、平常通りに応えました。


 なんだかお二人がお話しされているのには気付いていましたが、ごくりごくりと酒精を鯨飲する私には、お二人の会話など耳に入っておりませんでした。


 この時の私は、杯を酒樽と口元へひたすら往復させる呑み下しマシーンと化していたのです。動力源は酒精と活力、そしてわずかばかりの大気のみ。この身が尽きるまで吞み下す所存です。


 半永久機関と化した私は、ただただこの焼酎を味わい尽くすことに必死でした。


 ぽやぽやとした半ば朦朧とした意識の中、酒精でひたひたに満たされた脳内で、金色の麦畑を想起しておりました。そこでは、己の精神年齢を反映するように幼い時分の私が、麦わら帽子を被って純白のワンピースに身に纏い、無邪気にはしゃぎまわっているのでした。


 何がおもしろいのか。訳も分からず満面の笑みを浮かべた幼き私はむしり取った麦を振り回していると、ぐるるとお腹の中の小さな龍が唸りました。空腹なのです。お腹ペコペコの私はつい最近味を占めた雲を食べようと空へ手を伸ばします。しかし、その手はむなしく空を切るのでした。


 黒い、太い、ぬらぬらと爬虫類特有の光沢を放つ物体が、ふよふよと頭上に浮かんでいたからです。これでは雲をむことが出来ません。なんだか私は無性に腹が立ちました。幼さゆえの猛々しさが、アクセルをベタ踏みしたのを感じました。


「やい!そこの大きくて黒いの、あなたは何でそんなところにいるんですか!これでは雲を食べられないじゃないですか!」

「なんだ、貴様。あれだけ大口を叩いておきながらもう酩酊したのか」黒龍さんが鼻で笑います。「呆れたものだな」

「なにを言いますか。私は酩酊などしていません!私はただ、なぜだか異様に体が火照って、頭がふわふわしているだけなのです!」

「それを酩酊しているというのだ、たわけめ」


 もはや自分でも何を言っているのかわからなくなっている私を見下ろして、黒龍さんは短く吐き捨てました。


 当の私はすでに、空想と現実の境目へと降り立ち、幻想の住人と相違ない出で立ちです。にまにまと無垢な――だと自分で思っている――笑みを浮かべ、ここが現実なのか、あるいは夢の世界なのか。わずかに残っていた冷静な思案は、続く杯から注がれた酒精によって途端に洗い流されました。そんなことはどうでもよい。今が楽しければそれでよいのだ。結局はその思考に辿り着くのです。


 黒龍さんはそんな私を無視して言葉を続けます。


「それに、私が生み出したこの積乱雲は本来、貴様ごとき人間が間近で見上げてよい存在ではない。ましてや食べるなど、考えることすらおこがましい。これこそが、我ら龍が自然を司ると謡われる所以である」


 黒龍さんは機嫌よく言いました。「およそこの世界に存在する水分を創り出すことが出来るのだ」

「むむ、それならばなおさら引くことは出来ません。俄然、その雲を摘まんでみたくなりました」


 私は杯の往復運動をいったん止めて、黒龍さんへ向き直ります。そして持っていた杯を突き出すと、おもむろに宣言しました。


「私が吞み比べに勝った暁には、その黒龍さんが創り出した雲を食べさせてください。無論、否だとは、言いませんよね?」

「なにを言うかと思えば。いいだろう。そもそも我が人間ごときに吞み比べで負けるはずがないのだ。いくらでも食うがいい」


 もっとも、それは夢物語で終わるがな。黒龍さんはそう言って、興味を失ったように酒精の雨に集中しました。


 その勢いは吞み比べの開始から今まで留まるところを知りません。ごうごうと吹きすさぶ龍の逆息吹は、天をひっくり返したかのような勢いの酒精の雨を一滴残らず呑みこんでいきます。


 もはや言葉は不要でしょう。

 改めて覚悟を決めた私は一度だけ頬に喝を入れると、漆喰の杯を酒樽の脇に置き、何の躊躇もなく、酒樽になみなみ注がれた絶品の焼酎に頭を突っ込んで、鯨のように大量の焼酎をその胃に収めるのでした。







 呑み比べが始まってから幾分か経ちました。大気を染める闇が一層濃くなったように感じます。


 開始早々ふらふらぽわぽわの酩酊状態に陥っていた私は、しかしそこから驚異の粘りを見せて、なんとか黒龍さんの呑みっぷりに食らいついているのでした。


 対して黒龍さんはというと、最初の威勢はどこへやら、その巨大でいかめしいお顔をにわかに朱で染めて、千鳥足ならぬ千鳥龍の様相で、ふらふらと浮かんでいるのでした。


 しかし、そこは腐っても誇り高き龍でありましょう。些か酔いが回っているのは事実ではありましょうが、その呑みっぷりにはわずかな翳りもなく、いまだ底が知れません。


 果たして、私はこの御方に呑み比べで勝てるのでしょうか。私の心にそのようなか弱い考えがチラついたさなか、私に興味を失っていたと思われていた黒龍さんがチラリとこちらを一瞥しました。


「......正直、驚いたぞ」


 黒龍さんが唸るように言います。


「まさか矮小な人間如きがこの我と吞み比べでここまでしのぎを削ることができるとはな」

「むむ、それは聞き捨てならぬ物言いですね。私はまだまだ成長期なのです。これからどんどん背も伸びていき、いずれはあなたを見下ろすほどになることでしょう」


 なにを隠そう、私はひそかに、だいだらぼっちに憧れを抱いているのです。かの巨人は各地の伝承に語られて曰く、日の本を練り歩いて各地を踏みならし、その巨大な足跡を刻み付け湖や盆地を作り、さらには霊峰富士を作り出した張本人でもあるとか。


 まだまだ人類が栄える前の大地を練り歩くのはさぞかし楽しかったことでしょう。自然に満ち満ちていて、いたるところに神秘や摩訶不思議が転がっているのです。私に彼のような偉大なる功績を打ち立てるような力はありませんが、いつか彼のように大きくなって、いまだ誰も知らぬ大地を駆け巡ってみたいものです。もしそのように大きくなる機会があれば、一足飛びに他の惑星に跳んで、そこで新たなる大地を築きあげるのもいいやもしれませんね。


「貴様という人間は口が減らんな」

「恐縮です」

「褒めておらん。それより、貴様、手が止まっているぞ」黒龍さんがニヤリと笑いました。「どれ、この我が至高の酒というものを貴様に呑ませてやろう」


 直後、頭の中で木星を踏みならすのに必死で、恍惚と開けられていた口に、洪水のような液体が流れ込んできました。


 それは如何なる力か、黒龍さんの逆息吹から枝分かれした酒精の雨が、綺麗な曲線を描いて飛んでくる、酒精の鉄砲水と呼ぶべき現象でした。


 即座に理解した私はそのまま何の抵抗もなく呑み下します。そしてその何とも言えない奥深い味わいに目をしばたたかせると、しばし舌と喉の奥で吟味するのでした。


 形容しがたいそれをあえて言葉にするならば、それは無色透明なのでした。しかし、ただの水と比べるのも烏滸がましいこのお酒は、これまで呑んできたどの酒精よりも鮮烈に、それでいて穏やかな表情で舌を撫でていくのです。


 香り高く鼻に抜けていくようで、しかし跡を濁さないすっきりとした味わい。喉から食道へ、食道から胃へ、胃から丹田へ。道筋を明確に示しながら進むそれは、心の奥底から体を温めて、全身に活力をみなぎらせます。


 至高の酒。その言葉は嘘ではないのでしょう。

 それほどまでに、このお酒は私に衝撃をもたらしました。


「美味しい、とんでもなく美味しいですよこれは!」

「ぬはは、そうであろう、そうであろう。どれ、貴様の酒も寄越せ。この我が味見してやろう」


 まるでそれが当たり前のように、焼酎が水の螺旋となって黒龍さんの大きなお口へと吸い込まれていきます。この時の私はそのようなことを疑問に思う事すらなくなっていました。


「む、所詮人間如きが呑む酒だからと侮っていたが、存外に美味いではないか。高天原の麦から造られたというのも嘘ではないようだな」

「そりゃあね。私の秘蔵の酒だもの。そんじょそこらの安酒と一緒にしてもらってはたまらないね」


 茶ヶ龍さんは別に用意した大きな酒樽から焼酎をちろちろと舐めて、私たちの吞み比べを肴に独り宴と洒落込んでいました。


 その脇に置かれた四畳半ほどの大皿には、フグの切り身のように透明な白身魚のお刺身が綺麗な真円をかたどっていました。唯一違うところと言えば、一抱えほどもあるその大きさでしょうか。彼は刺身を爪で器用につまむと、しょうゆ皿に浸けてパクリと一口。ご満悦な表情です。


 肴に飢えていた私は即座に茶ヶ龍さんのもとへ向かいました。


「茶ヶ龍さん、茶ヶ龍さん、そのお刺身はなんのお魚ですか?」

「これは空魚そらざかなの刺身だよ。キミたちが吞み比べに没頭している間、私も暇でね。そこらを飛んでいたこいつを捕まえて捌いていたというワケだ。どうだい、君も食べてみるかい?」

「ぜひとも!」


 私は一抱えほどもある敷布団のような切り身に醤油を垂らし、大きく口を開けて豪快にかぶりつきました。


 身は意外にも柔らかく、私のか弱い顎でもやすやすと嚙み切れるくらいのものでした。不思議な味わいです。見た目はまさしくフグといった出で立ちにもかかわらず、その食感は白身魚と鶏肉の中間のような具合です。もしゃもしゃと噛めば奥から旨味が溢れ出し、口の中を幸せで満たしてくれます。


 これはフライも合うかもしれません。そんなことを考えながら一切れをぺろりと平らげた私は、二枚目にかぶりつこうとした。しかし、横から何者かにお刺身を攫われて、ガチンと虚しくくうむこととなりました。


 不承不承、お刺身の軌跡を目で追えば、そこには黒龍さんがお刺身をつまんでイジワルな笑みを浮かべていました。


「黒龍さん、何をなさるのですか。それは私のお刺身です。即刻お返しください」

「たわけめ。貴様ばかりがいい目を見れると思うなよ。これは我がもらう」


 黒龍さんはお刺身をパクリと食べました。


「あー!私のお刺身が!」

「やかましい。まだあるだろうに、そう喚くな。それに、我は黒龍などというちんけな名ではない」


 黒龍さんは大皿のお刺身を贅沢にも数枚を一気に掬い取って口に放り込むと、ひどく尊大な口調で名乗りを上げたのです。


「我は大瀑布にてその威容を構える、龍専門学校『登竜門』所属、教育主任補佐兼理事会庶務、名を雨龍黒うりぐろという。貴様がこの世界で最後に耳にする者の名だ。冥途の土産には贅沢すぎるだろう」







 吞み比べも佳境に差し掛かって参りました。


 幕開けの殺伐とした空気はどこへやら。この頃には私と黒龍さんあらため雨龍黒うりぐろさんは互いに打ち解け合い、呑んではワハハ、食べてはワハハと大変に愉快な宴が出来上がっておりました。


 気が付けば雨龍黒さんも、いつの間にやら雲の上に降り立って巨大なとぐろをまいてくつろいでおります。


 私はそんな山のような彼の巨躯に背を預け、ルンルンらんらんご機嫌な鼻歌を垂れ流しながら盃を傾けています。両者ともに頬をリンゴのように真っ赤に染めているのは言うまでもありません。


 依然として頭上に積乱雲は滞空しておりますが、まがまがしい雰囲気は消え去り、穏やかな酒精の雨をパラパラと降らしています。


 茶ヶ龍さんも、そんな私たちを好々爺然とした面持ちで眺めてニコニコと微笑んでらっしゃいばかり。そこに種族や立場、年齢など何も関係ございません。なんとも平和的で牧歌的、呑んだくれ的な光景です。


「ときに人間、貴様、普段はどのように過ごしているのだ」


 そんな、わけもわからずおもしろおかしく楽しく過ごしているさなか、雨龍黒さんがそんなことを聞いてきました。


「私ですか?私は普段、大学に通っているのですが、現在は春期休暇中なので、こうやってお仕事がある日は勤労に励んで各地を巡り、休日は自宅にてりんごジュースを嗜みながら読書に励んでおります」

「ふん、生意気にも優雅な生活をしおって。少しは勉学に励んでだらどうだ」

「ご忠告痛み入ります。そう言う雨龍黒さんは普段いかがお過ごしなのですか?」


 途端、楽し気な雰囲気を纏っていた雨龍黒さんは、どんよりとした溜息を吐いて力なく唸りました。


「よくぞ訊いた。我は誇り高き龍ゆえに、貴様ら人間如きでは推し計れぬような苦労が多いのだ」


 そう言って、雨龍黒さんは日頃の鬱憤を晴らすがごとく、先の酒精の雨のような勢いを伴って話を始めたのでした。


「先で言った通り、我は果てにある瀑布の滝壺にて居を構える龍専門学校『登竜門』の教育主任補佐を任されているのだが、生徒たちのやる気のなさ、覇気のなさと言ったら嘆かわしい!栄光ある龍をなんと心得るか。訊けば、世間では龍とは安定志向な者が目指す最果てであるという。不変たる自然の触手ゆえに、たしかにその認識でも間違いではないかもしれないが、それでも、龍というのは大地に根付くあまねく生き物の平定者であり、誇り高き存在なのだ。それを奴らときたら、己の存在の担保としてしか考えていない!考えられん!そのようなことのために我ら龍は存在しているのではない!」


 一度決壊したダムは水を出し切るまでその勢いが止まることはありません。

 雨龍黒さんは酒精の雨を一等大きく吞み下し、燃料を補充すると、絶えず濁流を吐き出し続けます。


「そのような奴らに限ってへらへらと現世を渡り、しかも口が風車のようにカラカラと回るからたちが悪い。熱意を持った将来有望な龍候補も中にはいるが、今となってはほとんどが腐りきってしまった。あろうことか、中には生意気に反抗してくる奴もいるが、対抗してこちらが強く出れば理事会で問題になる。嗚呼、嘆かわしい、嘆かわしい」

「龍の世も人の世も、それほど変わりはないのですね。雨龍黒さん、そんなに勢いよく吞んではお体に障りますよ。呑み比べと言えども、己の身体が第一です」

「やかましい、御託はいいから貴様の酒も寄越せ」


 そう言って、雨龍黒さんは私の傍にある酒樽をひっつかむと、躊躇することなくその大きなお口に放り込みました。


 呑むべき酒精を失った私は最後の一杯となったお酒をちびちびと舐めながら、荒れる雨龍黒さんを肩をすくめながらやれやれ、と反抗期を迎えた子供を眺める心意気で見守っていました。


 吞んだくれ横丁にもこのように荒れる先生方はいらっしゃいましたが、私ごときがあれやこれやと手を尽くしても無駄なのです。触らぬ神に祟りなし。このようなときはお好きなようにさせてあげましょう。


「理事会も理事会である。そのような外部からの圧力に簡単に屈して、挙句の果てに責任を他者に押し付けるのに必死で通常の業務が滞る。龍として辣腕を振るっていたのはもはや過去の栄光だ。今となっては、屋敷の奥に引き籠って椅子にふんぞり返っている老龍に過ぎない。ましてや業務内ならいざ知らず、完全なる私情を持ち込んでこの我に押し付けるのだ」


 おもむろに、雨龍黒さんは茶ヶ龍さんがお皿に盛り付けている空魚そらざかなの活け造りを鷲掴むと、お口の中に放り込んでむっしゃむっしゃと食べました。


 茶ヶ龍さんはそんな雨龍黒さんの様子を見てやれやれとばかりに微笑んでいます。

 おそらく、茶ヶ龍さんも私と同じようなことを考えていたのでしょう。シンパシーです。


 そんなことなど露知らず、雨龍黒さんのお話は続きます。


「理事会の御老どもは庶務と便利屋を履き違えている。この間など、理事長がこの我にあろうことか子守を任せてきたのだ。しかもその娘が大層な悪ガキだった。尊大でわがままで悪知恵が働いて、そのくせ見目がいいからと他の理事の面々からも可愛がられて、益々増長する一方であった。通常の業務があるにもかかわらず、なぜこんな悪ガキの世話をせねばならないのだと、よく嘆いたものだ。ある時、年頃にもかかわらずロクな定職も着かず遊び歩いているから、せめて少しは働いたらどうだと尻を蹴飛ばしてやった。そうしたら、我に罵詈雑言を浴びせてあっかんべーと捨て台詞を残して、そのまま屋敷を飛び出していったのだ。その姿のあまりの情けなさにしばし呆然としていた我は、騒ぎを聞きつけた理事長には叱られ、その上理不尽な減給を下された。あやつらはわかっていない。甘やかすだけが教育ではないのだ。立派な大人として、ましてや偉大なる龍の御息女が、あんなちゃらんぽらんでは下々のものに示しがつかん。理事長に命じられ、幾度か出奔した娘の様子を見たが、どこぞの海の底にある下卑た店で楽しそうに人間の男を誑かして呑んだくれていた。あれでは屋敷にいた頃と変わりがない。我はすぐさま連れ戻すべきだと具申したが、理事長はこれも社会勉強だと言って放任を命じた。違う、理事長はただ、無理に連れ戻して娘に嫌われるのを恐れていただけである。なんたることか。偉大なる龍がここまで耄碌もうろくしたというのか。悲嘆に暮れた我はこの一件から手を引いた。もはやあの娘の行方もしれぬ。いまだどこぞの店で呑んだくれているのであろう。龍としても、教育者としても失格である。己に課せられた使命すらまともに果たせず、ましてや道を踏み外す若人わこうどを導けなかったのだ。我は無力である」


 やるせない憤懣ふんまんに満ちていたその声は、次第に嘆きに変わり、徐々に弱弱しいうめき声となって、はかなく萎んでいきました。


 尊大すぎる龍としての威厳や、その他のすべてを軽視する態度は、雨龍黒さん自身が龍としての自信を失ったことに対する裏返しだったのでしょう。


 彼は過去の失敗から自らのアイデンティティを見失い、更には教育者としての誇りも失ったご様子。すべては立派にあろうとした彼の正しさと責任感から来た自傷。お孫さんに嫌われたくないおじいさま龍の気持ちもよくわかります。しかし、過ぎたる放任が健全な発達に悪影響を及ぼすことがあるのもまた事実。もどかしい二律背反。ワルモノがいない悲しいお話です。地ならしのようにぐるぐると唸るこの声を、私は彼の言葉なき救いを求める声と捉えました。


 しかしながら、萎び鯉さんの時とはわけが違い、私には悩める彼を救う手管がありません。


 彼は人生の歩み方を忘れたわけではなく、己の道を照らす心の標榜ひょうぼうを見失っているのです。


 私が人生の酸いも甘いも味わい尽くした仙人であるならば、その法術をもってして標榜のありかへと導くことも叶うやもしれませんが、二十とそこらしか生きていない小娘の人生語りなど、ぺらっぺらで聞いていられません。ましてやお相手は幾百幾千年生きておられるかわからない龍です。私が言えることなど皆無でしょう。


 困り果てた私は茶ヶ龍さんに助太刀を求めようとチラリと目を向けました。しかし、そこに宿っていたのはどこか私を試すような挑発的な光ではありませんか。


 瞬間、私のアツき魂に火が灯りました。

 上等です。私は負けず嫌いな淑女なのです。神を試してはならないとは言いますが、私は目の前に立ちふさがる試練は何が何でも突破せしめん覚悟を常に灯しているので、いつでも挑戦大歓迎なのです。


 この私が見事、雨龍黒さんに笑顔を取り戻させて見せましょう。しかし、上述の通り、私ごときの言葉が響くとは到底考えにくい。であるならば、私に今できることはただ一つ。ひたすら楽しくお酒を呑ませるのみなのです。


 酒は呑んでも呑まれるなと昔の人は言いました。しかし同時に、酒は百薬の長とも、憂いをはらう玉ぼうきとも呼ばれています。ここはひとつ、この天上の世界にて、誰もが羨む最高の宴を開こうではありませんか。


 思い立ったが吉日。私はおもむろに立ち上がり、どこまでも広がる雲の地平線に目を向けます。すると、ちらちらと我々を見下ろす可愛い星々に混じって、何やら細長い影が雲の中を飛び交っているのが見えました。


 私は淑女にあるまじき涎をじゅるりと啜って茶ヶ龍さんに言いました。


「茶ヶ龍さん、包丁をお貸しください。しかるのち、私が満漢全席を作って御覧に入れましょう」

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