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第7話

 その日、吞んだくれ横丁で龍が出た。


 そのような噂が各地でひそひそと噂されていたとか、いないとか。うつつの世にことわりを置く人々は、そんなはずがないと一笑に付し、毎日をおもしろおかしく生きることに人生を懸ける吞んだくれたちは、おもしろそうだと街路を練り歩きます。


 そうして見つけるのです。表通りを我が物顔で闊歩する長蛇の列を。


 なんだ、この列を龍のようだと形容していたのか。そんな考えが思い浮かんだ矢先、ふと視界に影が差しこみます。


 疑問に思い顔を上げると、そこには紛れもない龍が街路樹に絡みつくようにして飛んでいるではありませんか。呆気にとられた吞んだくれたちは、次の瞬間にはその顔に弾けるような笑みを浮かべて、足早に列に加わっていくのでした。


「ひとつ歩けば酔っ払い」

「ふたつ歩けば飲み友達」

「みっつ歩けば大宴会」

「とおにつくこりゃ酒乱豪傑酩三昧しゅらんごうけつめいていざんまい

「まだ見ぬ蟒蛇うわばみ求めて歩く。偉大なる龍のお通りじゃ」


 いつの間にやら列に身を寄せていた音楽隊を主導に、ちゃかぽこちゃかぽこ大合唱。吞んだくれの濁流は、おもしろおかしいリズムを奏でて吞んだくれ横丁を嵐のごとく席巻していきます。


 不意にその歩みが止まりました。

 それはすなわち、萎び鯉さんが立ち止まったことを意味し、そして来るべき決戦の地に到着したことを指すのです。


 しかし、眼前に現れた建物を目にして、私は「おや」と言葉を漏らしました。


「萎び鯉さん、ここはもしや...」

「そう、我が心を虜にする乙女は、ここ竜宮城にて私を待ち構えているのだ!」


 呑んだくれ横丁のど真ん中に屹立する雑居ビル。その一階層に居を構えるは、ご存じキャバレー「竜宮城」。


 煌々としたネオンを背にお店の扉を守衛する男性たちも、突如現れた龍と長蛇の列になんだなんだと困惑しております。萎び鯉さんが指し示す場所は、奇しくも私が数時間ほど前に乙姫さんとの酒浴びデスマッチを繰り広げたお店だったのです。


 その事実に気付いて、私は驚きのあまり「おやおや」と漏らしました。


 因果が廻りまわって帰結するのは承知の上ですが、まさかこうも早くに巡り合うとは思わなんだ。


 そんなことを考えていると、ふと、閃いたのです。もしかすると、先ほど来店した際に萎び鯉さんが恋焦がれる女性と顔を合わせたやも。なれば萎び鯉さんに事前に情報を聞いていれば、それとなくお助けに入れるやもしれません。


 そう考えた私は早速、くだんの女性についての聞き込みを開始しました。


「ふむ、こうして店に訪れるのは久しぶりだな。いささか緊張するが、ここで退いては男が廃る。ここは正々堂々正面から...」

「萎び鯉さん、萎び鯉さん、ひとつお伺いしてもいいですか」

「なんだ。私は今、来るべき時に備えて心の準備に忙しいのだが」

「それは失礼いたしました。しかし、もしかすると萎び鯉さんの助けになるかもしれないのです。というのも、件の女性のことをお伺いしたいのですが」


 萎び鯉さんの目に期待するような光が灯ります。そして、いいだろうと大仰に頷きました。


 ごっほん、と。ひとつ咳払いをすると、彼は件の女性の魅力を語り始めたのです。


「まず目を惹かれるのはその優れた容姿だろう。美しく魅惑的な肢体が繰り出す一挙一動は世の男どもを色めき立たせ、その怜悧な瞳で流し見されれば女ですら吐息を漏らす。色とりどり華美なドレスを身に纏い、しかしそのどれもが彼女の魅力を引き立てるための衣装でしかない。笑顔はまさに天使の如く、しかして時折見せる小悪魔のような微笑みは蠱惑的な魅力にあふれており、いまだ脳裏から離れることはない。だが彼女の魅力は外見だけでは推し測れるものではない。彼女の真髄は内面にこそあるのだ。あの理知的な瞳を覗けば君にも一目でわかるだろう。道理にそぐわぬことには真っ向から毅然とした態度で...」


 滔々とした語り口が、次第に熱を帯びて熱狂へと遷移していきます。萎び鯉さんの情報と、己の記憶を照合しながらふむふむと聞き入っていました。しかし、突如現れた闖入者によって、その演説にも似た語りは遮られたのでした。


 バタン、という大きな音と共に「竜宮城」の扉が開け放たれました。


 そうして出てきたのは、お顔どころか全身を真っ赤に染め上げた先生方でした。

 どうにも見覚えがあります。顔ぶれから察するに、恐らく乙姫さんに呑み比べを挑んだ方々でしょう。皆さん口々に唸り声や弱弱しい威勢を上げて、しかし千鳥足すらままならぬ歩行でふらふらと出てきて店先に斃れ伏しました。まるでゾンビ映画のような異様な光景です。


 そのような異常事態でしたから、私も萎び鯉さんも目を丸くして、ことの顛末を見守っていたのです。


 そうするうちに、最後の先生がふらふらと扉を潜り、バタリと私の前で倒れました。「もう呑めん」と譫言うわごとのように呟き、彼は鼾とともに夢の世界へ旅立ったのです。


「ふー吞んだ吞んだ。これだからこの仕事はやめらんないわね」


 地に伏せた先生方の安否を確認していると、聞き覚えのある声がしました。そちらに振り向いてみると、頬を赤く染めた乙姫さんが、相変わらずの優雅な足取りでお店から出てくるのが見えました。


「乙姫さん!先ほどぶりですね!」

「あら、今日はよく会うわね。体調の方は大丈夫かしら」

「はい。乙姫さんの膝枕のおかげで、後腐れなく歩みを進めております!」


 乙姫さんはうふふと可憐に笑いました。


「それにしても、もしや乙姫さんは、つい先ほどまで先生方と吞み比べをしていたのですか」

「そうなのよ。あなたがいなくなったあと、あそこにいたお客さん全員と呑む羽目になってね。まあ、結局面倒臭くなって、全員でかかってこいって言って蹴散らしたんだけどね」


 こともなげにそう言い切って、乙姫さんは無邪気に笑いました。


 私と吞み比べをしたときも相応に呑んでいたような気もしますが、乙姫さんの許容量はもはや留まることを知りません。そもそも、出会った当初ですらお腹が膨らむほど呑みものの滝で鯨飲げいいんされていたようですので、もはや異次元の領域です。


「そういえば、配達はもう終わったのかしら」


 お店の前の花壇に座り込んで夜風に当たっていた乙姫さんが、膝に肘をついて気怠げに視線だけをこちらに寄越しました。赤い頬と酔いで濡れた瞳が相まって、なんとも妖艶な雰囲気です。同性であるにもかかわらず、乙姫さんの流し目にドキリとしてしまいました。


「はい。無事配達も終わり、ここへはのちの偉大なる龍と成るお方の恋路の行方を見守りに来た次第です」

「偉大なる龍?」


 聞きなれない単語に、乙姫さんは怪訝そうに首を傾げました。


 ここで乙姫さんに話を通しておけば、萎び鯉さんが意中の女性を口説き落とすのも円滑に進むでしょう。その考えのもと、私は萎び鯉さんを紹介しようとして、ふと、異変に気が付きました。


 私の背後で気配を消していた萎び鯉さんが、顔を俯かせてぷるぷると震えていたのです。もしやお腹の調子が悪いのでは。


 私がおろおろとして近付いた矢先、彼はおもむろに顔を上げて、毅然とした態度で宣言したのです。


「ここであったが百年目。竜宮城が一の姫。この吞んだくれ横丁において並ぶ者がいないとされる蟒蛇よ。のちの偉大なる龍であるこの萎び鯉が、あなたに挑戦状を叩きつける!そして、この萎び鯉が勝った暁には、君の心をもらい受ける!」







 突如として繰り出された萎び鯉さんの王者挑戦と大胆無比な告白に、店先は騒然としました。


 事の成り行きを見守っていた先生方は、口々に萎び鯉さんを囃し立て、あるいは無謀だと止めに入ります。


 対して私は、萎び鯉さんの語りと乙姫さんの特徴が合致していることにようやく気が付き、ポンと手を叩いて一人納得するのでした。


「ちょ、ちょっと待ってよ。いきなりすぎてなんにも理解してないんだけれど」

「なにもへちまもない。あなたに頬を引っ叩かれたこの一か月。私は悩みに悩み抜いたのだ。まさかこの萎び鯉の端正な顔立ち、忘れたとは言わせんぞ!」


 萎び鯉さんはズイッとお顔を乙姫さんに寄せました。なんだか餌をねだる鯉のようで些か滑稽です。


 乙姫さんは思案するように視線を泳がせ、曖昧に笑みを浮かべました。


「あー、ごめんなさい。ちょっと覚えてないわ」


 ピシり、と。萎び鯉さんが固まる音が聞こえました。これほどまでに無体な言葉があるでしょうか。


 恋焦がれた女性からの悲惨なる刃を受けて、萎び鯉さんは一瞬呆然と表情を消して、次の瞬間にはそのお顔を真っ赤に染め上げていました。


「なればよかろう!あなたが私のことを覚えていないというならば、今一度、私に惚れさせればよいだけのこと!!さあ、あなたも吞んだくれだというならば、この挑戦を受けないわけがなかろう!」


 もはやここまで来て引き下がることは出来ません。萎び鯉さんの双肩には、ここまで付き従った先生方の期待を背負っているのです。


 萎び鯉さんは叩きつけるようにして遮二無二そう吠えたのでした。


「......はぁ。もう、わかったわよ。吞めばいいんでしょ、呑めば。けどどうするの。今日の吞み比べで、ウチの店の在庫は素寒貧よ」


 頭が痛そうにこめかみに手を当てて、乙姫さんは言いました。


「もう夜も更けてきたし、明日に仕切り直さない?」

「――それには及びませんぞ」


 萎び鯉さんと乙姫さんに割り込む形で、初老の男性が列から姿を現しました。


 黒縁の眼鏡をかけた柔和な雰囲気の男性は、目尻に深い皺を刻んで、お二人を見つめています。私はそのお顔に見覚えがありました。


「あなたはもしや......」

「お久しぶりです。呑みものの滝の件ではお世話になりました」


 ほほほと柔らかく笑みを浮かべたのは、私が以前、不慮の事故に巻き込んだ結果、ただでは転ばぬと起き上がり小法師、あるいは大法師のように妙案を思いついて吞みものの滝を考案した町長さんでした。


 どうやら町長さんは、いつの間にやら萎び鯉さんの大名行列に参列していたようです。その手にはティーカップとソーサーをつまんで赤ら顔のご機嫌なご様子。


 私に一礼をする町長さんに、乙姫さんは疲れた様子で声を掛けました。


「で、及ばないっていうのはどういう事かしら」

「そのままの意味ですよ。竜宮城の在庫がないということですが、それでしたら私に考えがあります。吞みものの滝をご利用ください」


 青天の霹靂のごとき提案に、萎び鯉さんは顔を輝かせました。


「おぉ、吞みものの滝とな!それは妙案である。しかし、今から待機の列に並んでは時間がかかってしまうのではないか」

「それはご安心ください。町長の権限で何とかいたしましょう」


 町長さんは冗談めかしてそう言うと、言葉を続けます。


「それに、この街にいる吞んだくれで、あなたのことを知らない人はいません。今宵の鮮烈な歩みは、既にこの街にとどろいているのです。ワケを話せば、皆心底面白がって譲ってくださるでしょう」

「それは本当か!それならばよし。早速向かうとしよう!吞みものの滝はずっと気になっていたが、どうにも手が出せなかったのでな。いや、楽しみだな...」


 吞みものの滝という言葉で怒りが引っ込んだ萎び鯉さんは、そのお顔に気色を浮かべて意気揚々と踵を返しました。


「えー。ほんとに今から呑むの?まあ、まだ呑めるからいいんだけれど...」


 どこか釈然としない顔で、乙姫さんは萎び鯉さんの背を見つめました。頬に差した朱色に交じって、さすがに隠し切れない疲労が見え隠れしています。体調がよろしくないのでしたら、私の方から萎び鯉さんに具申いたしましょうか。そう聞くと乙姫さんは、ひとりの吞んだくれとして、挑まれた呑み比べは断れない、と矜持を露わにしました。


 さすが、吞んだくれ横丁一の蟒蛇。絶対王者です。


 私は一層の尊敬の念を込めて、ひたむきに歩くその影を追うのでした。







 「竜宮城」から呑んだくれ横丁をほどなく歩き、蓮見川に沿う広場にて、呑みものの滝はその威容を露わにしています。


 頭上に張り巡らされた行燈に赤く照らされたそれは、どこか作り物めいたい岩山を連想させ、天辺に空いた亀裂が次なる吞んだくれを求めてぽっかりとこちらを覗き込んでいるような気がします。


 吞みものの滝をのぞく時、吞みものの滝もまたこちらをのぞいているのだ。亀裂を覗き込んでいた私は、吞みものの滝の熱烈な視線を感じてふらふらと滝壺に誘われますが、寸でのところで正気を取り戻します。


 今宵の主役は萎び鯉さんです。それは厳然たるゆるぎない事実。私は鋼の意志でその視線を振り切り、泣く泣くその場を離れました。


 そんな吞みものの滝が二基。それぞれの上流に今、焼酎と甘酒がなみなみに流し込まれ堰き止められています。野外にもかかわらず、辺りには川風に混じって酒気が満ち満ちていきます。ちなみに、焼酎が乙姫さんで、甘酒が萎び鯉さんの吞みものとなっております。


 乙姫さんはこの期に及んでまだアルコールを摂取なさるおつもりかと度肝を抜かれたのですが、当の本人は吞みものの滝を前にして気分が高揚してしまったようで、先ほどまでの疲れを感じさせない笑みを浮かべて、もう既に滝壺にてスタンバイをなさっています。爛々と光るその瞳は、まるで二十歳児を発症させた私のようでどこかシンパシーを感じます。


 対して、萎び鯉さんは吞みものの滝を前にして、その威容にどうにも萎縮してしまったご様子。背中を丸めて及び腰です。


「な、なんだこの異様な物体は......。もしや、木星から飛来したエイリアンではあるまいな」

「いえ、これこそが呑んだくれ横丁の新名物、吞みものの滝です!この街に住まう吞んだくれなら一度は夢見る"浴びるほど呑む"を、まさに最高の形で実現した素晴らしき設備ですよ!」


 私の言を聞いているのかいないのか、萎び鯉さんはうむむと逡巡すると、滝壺にて仰向けに寝そべる乙姫さんに向かい合いました。


「どうやらあなたは疲れているご様子。しかし、私はこの胸に灯るアツき魂と矜持にかけて、この勝負、手を抜くことは......」

「あーはいはい。何でもいいからさっさと始めましょう。私ははやく焼酎が呑みたいの。口の中が甘くてしょうがない」


 萎び鯉さんの宣戦を切り捨てて、乙姫さんは気だるげにそう言いました。


 待ちきれないのはここまで付き従った先生方も一緒のご様子で、口々に萎び鯉さんを囃し立てる野次を飛ばして心底楽しそうにしています。


 萎び鯉さんは乙姫さんの態度に釈然としない顔を浮かべますが、頬をペチリと叩いて気持ちを切り替えたようです。衆人観衆に向けて拳を突き上げ勝利を宣告すると、粛々と滝壺に寝そべりました。


 果たして、吞んだくれ横丁一の蟒蛇乙姫さんと、彼女に焼け焦がれるほどの恋愛こいあいを胸に抱く萎び鯉さんの、王者陥落を懸けた一世一代の大勝負の幕が、今、開かれます。


「それでは、お集まりいただいた皆様を代表しまして、町長たるこの私が勝負の審判を務めさせて頂きます。お二方、準備はよろしいですな?」


 町長さんがお二人に確認をとります。乙姫さんは今か今かと待ちきれん表情でサムズアップ。萎び鯉さんは覚悟を決めた表情で重々しく頷きます。


「よろしい。それでは、よーい――はじめッ!」


 どうッ、と。


 町長さんの合図とともに、吞みものの滝の亀裂から二つの瀑布がお二人のお口へとなだれ込みました。


 轟々と飛沫を上げながら流れ込む暴力的なまでの水流を、二人は必死にその身へと呑み下していきます。


 といっても、乙姫さんは待ち焦がれた酒精に喉を焼かれてご満悦なご様子。苦も無く笑顔で呑み下しております。

 一方、萎び鯉さんは呑み下してはいるものの、両の目を見開いて苦心しているのが明らかです。どうやら埒外の瀑布に度肝を抜かれているご様子ですが、ここからいかに持ち直すかが勝負のカギとなってくるでしょう。


 先生方はそんなお二人の姿を見て大喝采。そのボルテージは留まるところを知りません。その姿を肴に各々で楽しむ者、こりゃ負けてられんとばかりに空いている滝で己の限界に挑戦する者、挙句の果てにはどちらが勝つかを賭け出す始末。もはや吞んだくれの無法地帯でありましょう。

 私もそんな皆々様方を肴に、ドリンクバーで注いできたりんごジュースでのどを潤すのでした。


「おやおや、なかなか面白そうな催しをしているじゃないか」


 ふと、何やら聞き覚えのあるお声が聞こえてきたので振り返ってみると、そこには数時間前に萎び鯉さんについてお教えいただいた茶ヶ龍さん《さがり》がいらっしゃいました。彼は懐手ふところでにお二人の吞み比べを眺めて、のほほんと静かに笑いました。


「おや、あなたはいつぞやにお助けいただいた先生ではありませんか!どうしてここに?」

「どうしてもこうしても、抹茶を呑んでいたらなにやら遠くの方で楽しそうな祭囃子が聞こえてくるのでね。気になってついつい顔を出したのだけれど」


 茶ヶ龍さんは奮闘する萎び鯉さんを見て言いました。


「これはなんとも、楽しそうなことだね」


 どうやら萎び鯉さんの呑んだくれ大行進は、物陰でひっそりと抹茶を嗜む賢者すら呼び起こしてしまったようです。


 私は萎び鯉さんの立派な成長を感動するとともに、先ほどお助けいただいたことに関する感謝を述べました。


「先生のおかげで無事職務を全うすることができました。その節は誠にありがとうございました」


 私は深々と頭を下げました。


「感謝の至りです」

「いや、いや、気にすることはない。世の中一期一会だ。どこで出会って何が起こるかわからない。この親切は廻りまわっていずれ私のもとへやってくるのだ」

「情けは人の為ならずですね」

「そうともいうね」


 私たちはうふふと笑い合い、目の前で繰り広げられる熾烈な争いに目を向けました。


「しかし、君が萎び鯉をここまで焚きつけたのだろう?」


 茶ヶ龍さんはお髭を撫でて言いました。


「大したものだね」

「いえ、私はうちわの仰ぎ方を伝えただけに過ぎません。彼の心にはもとからアツく滾る火種が燻っていたのです。私はただ風を送り込むお手伝いをしただけなのです」


 視線の先では、萎び鯉さんが必死の形相で乙姫さんに食らい付いているのが見えました。そこに出会ったばかりの不甲斐ない萎れた雰囲気は欠片も感じ取れません。今の萎び鯉さんは一人の立派な吞んだくれとして、絶対王者乙姫さんに挑んでいるのです。子どもが独り立ちする親御さんの心境とはこういうものなのでしょうか。私は心に感動が染み渡るのを感じて、一人でしみじみとするのでした。


 勝負が始まって幾らか経ちました。いったい何tもの液体を呑み下したのでしょう。


 いつの間にやら両者、そのお腹ははち切れんばかりにパンパンです。いつどちらが斃れてもおかしくはない。ここから先は意地と意地のぶつかり合い。そのような局面の中、呑み比べは最終フェーズへ移行しようとしていました。


「さて、なかなか見応えのある勝負だが、如何せん私にはやらねばならないことがあるのでね。ここらで失礼するよ」


 これからが面白いにも関わらず、茶ヶ龍さんは踵を返してたので、私は思わず引き留めてしまったのです。


「おや、宴もたけなわではございますが、まだまだ本番はこれからですよ。なにかご用事でも?」

「ああ、私としても甚だ遺憾だが、私が行かねばここら一帯が吹き飛びかねんのでね」


 茶ヶ龍さんは頭上天高く、宵闇に染まる雲間のその向こう、遥か彼方を指さしました。


「龍が来ている。どうやら萎び鯉を連れ戻しに来たらしい」


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