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第6話

 本来ならのどかでゆったりとした空気が流れるはずであろう喫茶店「aqua」は、現在呑んだくれの巣窟と化しておりました。


 とは言っても、皆様呑んだくれである前に一人の紳士淑女でいらっしゃいますので、マナーを欠いた言動は慎んでおられるご様子。食事を楽しむ者、静かに珈琲を舐める者、和気藹々と談笑に耽ける者。皆それぞれの時間を楽しんでおります。


 そんな中、私と萎び鯉さんは隅のテーブルで膝を突き合わせて、ひたむきにオムライスを楽しんでおりました。


「決意した。私はもう一度、この思いの丈をぶつけてみようと思う」


 輝かしいほどの黄色と、それを覆い隠さんばかりに濃厚なデミグラスソースが掛かったオムライスに舌鼓を打っていると、萎び鯉さんがおもむろに口を開きました。


「もしや、なぜ萎び鯉さんがフラれてしまったのか分かったのですか」

「いや、それについては寡聞にしてわからん。だがしかし、こうしてただ悶々と悩みもだえるより、当人に真正面から聞いたほうがよかろう」

「一理あります」

「それに、私は将来、偉大なる龍となるのだ。そんな男がただ一度、女子おなごにフラれた程度でめそめそするなど情けなさすぎる。男なら当たって砕けるくらいの心持ちでないとだめだ」


 気炎を吐いて、萎び鯉さんは決意を新たにオムライスをむしゃむしゃと口に運びます。


 私はオムライスが美味しすぎるあまり早々に完食してしまったのですが、萎び鯉さんがオムライスを頬張る姿を見ていると、またお腹が空いてきました。


 私は下戸でも酒豪でもない代わりに、胃の許容量には些か自信があるのです。オムライスは美味しかったし、今度はカレーライスでもいただこうかしら。喫茶店のカレーライスは絶品だと相場が決まっているのです。


 臆することなく、私は図々しく追加注文をしました。


「しかし兄ちゃんよ。ただ無策に突っ込んでちゃ、また前の二の舞だぜ」


 そう言ったのは席を同じくしていた懐の暖かい大変気前のいい先生でした。萎び鯉さんの列に最初に加わったお方ですね。ちなみに、今宵のお勘定は私と萎び鯉さんのみならず、大名行列に加わった人々全員の分を負担なさっていただいているのです。なんでも賭場で稀に見る大勝ちをしたとか。


 もはや気前がいいなんてものではございません。これからは大先生とお呼びしましょう。私は三つ指を突いて深々とお礼申し上げたのです。


「確かに。それも一理あるが......。しかし、いったいどうすればいいのだ」

「ここをどこだと思ってるんだ。天下の吞んだくれ横丁だぜ。そんなもん、呑み比べをすりゃいい話だ」


 大先生は珈琲を一息で飲み干し、ニヤリと笑みを深めました。


「自分が勝ったら付き合ってください、くらい吠える気概を持たなきゃな。どうせそのねぇちゃんも呑んだくれなんだろう」

「確かに、呑めるものなら何でも好きだと言っていたな」

「ならそれで決まりだな!」


 先生は心底面白そうにワハハと笑って萎び鯉さんの肩を叩くと、別の席へと移動しました。どうやら今宵の終着点は定まったご様子。あとはそこまでひたすら歩んでいくのみです。


 皆が食後の珈琲で落ち着いた頃、私はおかわりをしたカレーライスをゆっくりと味わっていました。


 黒々としたルウが特徴的なそのカレーは、大変に濃厚な味わいとコクを私の味覚にぶつけたのです。おそらくは珈琲を隠し味に入れているのでしょう。思っていた通り大変に美味です。ですが、そんな時にふと、疑問が鎌首をもたげたのです。そういえば、萎び鯉さんが度々おっしゃる龍とは何であろうか、と。


 それ以前も疑問に思わないでもなかったのですが、如何せん萎び鯉さんとの大行進が楽しくて仕方がなかったので、細かなところまで気が利かなかったのです。


 そして皆さんがご周知のとおり、私はご機嫌な淑女を自称しておりますので、知識欲や好奇心は人一倍なのです。一度気になれば途端、インテリジェンス・エンジンが稼働して、真理へ急行するのもやむなしでしょう。


 鯉のぼりに包まって龍を自称する青年など、何か面白いお話が聞けるに違いがありません。


 私の第六感が告げているのです。今聞くべきであると。

 思い立ったが吉日を座右の銘とする私は、口いっぱいに頬張っていたカレーライスをごくんと飲み込んで、萎び鯉さんに訊ねました。


「ところで、萎び鯉さんが度々おっしゃる龍とはなんなのですか」

「なんだ、そんなことも知らなかったのか」


 萎び鯉さんが驚いた様子で眉を上げました。


「もちろん、龍それ単体が何を表すのかは承知しております。いにしえより由来を持つ、天翔る伝説上の生き物。しかし萎び鯉さんの語り口では、どうにも身近なもののように感じられるのです」

「うむ。まあ只人の認識はそれであっているが、実は龍それ自体はそんな大層なものではない」


 萎び鯉さんは香り沸き立つ食後の珈琲を啜り「アツい!」と叫びました。「これだから熱いものは好きになれん」顰め面でそう言って、お冷を口に含んで話を続けます。


「ではこの登竜門に主席入学を果たした萎び鯉が説明して進ぜよう。古来より、龍は自然と共にあり、あまねく大地を睥睨する調停者であった。人々が無為に自然を浪費すれば、水害を起こして未然に防ぎ、澄み渡る河川を不当に汚そうものならば、その怒りが一つの村を滅ぼした。まさに神の御業。自然の代弁者である。そう思っていた。私もそう思っていたのだ。だが現実は違った。龍とは自然の代弁者である。それは間違いではない。しかし、それは同時に、大地に根付く自然の触覚器官であり、そして自然という大脳から延びる神経細胞の末端でしかないということなのだ。龍とは威厳があろう。かっこよかろう。彼奴等きゃつらはさも己が世界の支配者であるようなツラをして人間をこき使うのだ。だが違う。こき使われているのは龍の方である。彼奴等は大脳からの命令に従って動いているだけの指先でしかない。そこに龍自身の意志は介在していないのだ。驚くのも無理からぬ話であろう。私も龍の実情を知った時、それこそ理解が追いつかなかった。というのも、私がそれを知ったのは登竜門に入学した後であった。登竜門とは世界の果てにある、大瀑布の滝壺にて居を構える由緒正しき龍専門学校である。幼少の頃より龍に鮮烈な憧れを抱いた私は、人の身でありながら、見事主席入学を果たした。だが内情は聞いての通りだ。壇上で老齢な龍がその役目を説いたとき時の私の心情は計り知れないだろう。怒りと失望と困惑で脳みそが機能を放棄した私は、その日のカリキュラムの一切を放っぽり出して何も言わず専門学校を後にした。あとは簡単である。ふらふらと宛てもなくさまよい歩き、辿り着いたこの吞んだくれ横丁で古い友人と再会を果たし、こうして今に至るのだ。......む、前置きが長くなってしまったが、要するに、龍とはひどくつまらん生き物だということだ」


 当時のことを思い出されて苦い顔をした萎び鯉さんが矢継ぎ早に語ったお話は、驚嘆に値する内容でした。


 まさか、龍というものがそのような役目を担っているとは。それに、聞くところによると萎び鯉さんもそうとう波乱万丈な歩みを成されているようです。人の身でありながら龍を志し、しかしその実情はなんとも味気ないものであったと。


 悲嘆に暮れた萎び鯉さんはそのままの足でこの地に辿り着き、しかしその時点ではまだ歩き方を見失ってはいないご様子。そんな彼でも意中の乙女に無碍にされれば歩み方を忘れてしまう。げに恐ろしきは身を焦がすほどの恋愛こいあいか。


「む。すまない。些か喋りすぎであろうか」


 萎び鯉さんの人生に思いを馳せ、それと同時に己の行く末に待ち受ける色恋の試練に考えを巡らせていると、萎び鯉さんが悔いるように口を開きました。


「いえ、萎び鯉さんの大変興味深いお話に感服していたのです。しかし、萎び鯉さんは大変口が回るのですね。まるで風車のようです」

「ふふ、そうであろう。友人からも、私は口が減らないとよく褒められるのだ。彼女のハートを射止めることが出来たのも、この達者な口のおかげよ」


 自慢げに鼻を鳴らして、萎び鯉さんは言葉を続けます。


「どれ、私がどれだけ偉大なる龍にふさわしいか、その由縁を見せてやろう」


 そう言って萎び鯉さんは「ほれ」とこちらに手を差し出します。友好の握手を求められたと考えた私は、とびきりの笑顔で握り返しましたが「たわけ!」と振り払われてしまいました。


「誰が握手を求めた。自分の役目を思い出せ。キミは何をしに私のもとへ来たのだ」

「...おぉ!これはまさしく不徳の致すところ!私は萎び鯉さんに魔法の煙管を届けに来たのでした!」


 すっかり忘れていた私はぽんと手を叩いて鞄を漁ります。呆れたような視線をひしひしと感じましたが、結果良ければすべてよし。最終的に萎び鯉さんのもとに配達できれば良いのです。


 上等な布に包まれた煙管を取り出して、恭しく萎び鯉さんへ渡します。気分は王様に供物を献上するお貴族です。


「こちら、遅ればせながらご依頼の魔法の煙管に御座います。どうぞお納めください」

「うむ、くるしゅうない」


 ニヒルな笑みを浮かべて煙管を咥える萎び鯉さんの姿はとても様になっていました。


 世捨て人のような風体と知性に満ちた瞳、れた着流しも相まってまるで大正時代の文豪のような出で立ちです。その旨を萎び鯉さんに伝えると、「ふふん」と満更でもなさそうに鼻を鳴らして笑いました。


「これはな、魔法なんて大層な枕を付けられてはいるが、これ単体で摩訶不思議なことが起こる代物ではない」

「ではどのように使うのですか?」

「焦るな、焦るな。今その真髄を見せてやろう」


 そう言って、萎び鯉さんは懐から取り出した火種を火皿に乗せます。同じく懐から取り出したマッチで火を付けると、吸い込んだ紫煙をほうッと吐き出しました。


 ここは禁煙ではなかったかしら。そう思ってチラリとマスターさんに目を向けますが「この煙に健康被害をもたらすものは入っていないから安心したまえ」という言を受けて、私はホッと胸を撫でおろしました。


「そうれ見ろ。今に始まる」


 店内を漂う紫煙はうねりの中で、徐々にその姿を象っていきます。


 もくもくとした不定形は、次第に細長い体躯を店内中に描き、しかしその頭部から延びる角と髭は、限りない威厳を放っています。


 突如現れたその威容に、先生方は驚きを露わにして口々に騒ぎ立てました。


「見よ、これこそが我が妙技。煙龍えんりゅう顕現の術である!」


 声なき煙龍の咆哮が店内に響き渡ります。


 煙龍。おおよそ聞きなれない奇怪な龍ですが、これこそが魔法の煙管の真の力だったのです。


 煙龍は度肝を抜かれた私たちを意に介さず、悠々と天井付近を回遊するのでした。


 そんな龍の姿に、先生方はいつもの調子を取り戻して龍見酒と洒落込んでいます。しかし、私は目の前で起こった出来事を整理するのに精いっぱいで、そんな余裕はひとかけらもなかったのです。


 突如顕現した龍。人知では測りようもない埒外。軽い気持ちで龍のことを尋ねたのですが、これはトンデモナイものを引き当ててしまいました。


 ぽわりぽわりと顕れるでもなく、「ビビデバビデブー」とも唱えてはいませんが、これこそが魔法雑貨。こんなものを作れるなんて、店主さんたら実はすごいお人なのかしら。


 頭の片隅でそんな暢気なことを考えながら、私はお腹の底から湧き出る喜びに打ち震えるのでした。


「すごい、すごすぎます!すごすぎてもはや言葉が出てきません!」

「ふはは!そうだろう、そうであろう!私はすごいのだ!」

「しかし、このような立派な龍を作り出せるのなら、もうすぐにでも偉大なる龍と称されても良いのでは?」


 そう言うと、萎び鯉さんは途端に顔を歪めて悔しそうに呟きました。


「だめなのだ。この程度のことで満足していれば、偉大なる龍になることは到底叶わぬ。それに、私は龍を作り出すのではなく、私自身が偉大なる龍と成らねばならぬのだ」


 固く拳を握り締めた萎び鯉さんのお顔は、悔恨の念に溢れておりました。


 私は龍のことは詳しく存じませんが、やはり偉大なる龍へと至る道は相当厳しいようです。


 私も叶わぬ恋と知りながら、しかしていばらの道を邁進する身。そのお気持ちはよくわかります。


 萎び鯉さんは温くなった珈琲を一息で呑み干すと、おもむろに机を叩いて立ち上がりました。


「だがしかし!私は龍となることを諦めているわけでは決してない!たとえうつつの龍が無味乾燥でつまらないものだったとしても、私は己の内なる大空を駆けるその姿を見失ったことはただの一度もない!断言しよう。私は偉大なる龍となる。自然の下請けでもなく、ただの使われるだけの末端でもない。世界の覇者にして叡智の極致、未だ誰も見たことのない龍へと、私は変成を遂げて見せる!」


 今一度、高らかに吠えた龍を背に、萎び鯉さんは世界に宣誓を果たしました。


 この時、私は伝説の誕生に立ち会ったのだと強く確信したのです。高らかに宣言された言霊は店中に響き渡り、聞き入っていた先生方からも熱い声援が送られます。


「おう、なんのことだかわからんが応援してるぞ!」「まずは髪を切って髭を剃れ!」「いや、龍といえば立派な髭だ!」「たてがみも忘れるな!」「龍になっても俺らに恩返しを忘れるなよ!」「龍の恩返しだな!」「とりあえず酒を持ってこい!」「紅茶と珈琲も追加だ!」「エラそうな龍に目にもの見せてやれ!」――等々。


 先生方は赤ら顔でやんややんやと騒ぎ立て、にわかにお祭りの気配が戻ってまいりました。そろそろ小休止も終わりを告げて、再び街に繰り出す頃合いでしょう。


 その空気を敏感に感じ取った萎び鯉さんは、不意にこちらに向き直ると、深々と頭を下げたのでした。


「薄汚れた路地裏で腐っていた私がここまで歩いてこれたのも、すべてキミのおかげである。私が偉大なる龍になった暁には何でも願いをかなえてやろう。改めて礼を言う。感謝する」

「いえいえ、私は手を差し伸べただけに過ぎません。全ては萎び鯉さんのアツき想いが為した結果です。ですが、私は遠慮を知らぬ図々しい淑女ですので、その節においてはお世話になることをお約束いたします」


 満足そうに笑みを浮かべた萎び鯉さんは、再び先生方に向き直り、拳を高く掲げました。


「時は来た。これより私は愛しの君の居城に乗り込み、この胸の奥で燦然と輝く想いを告げ、我が人生の停滞に終止符を打つ。皆の者、ここまで付いてきてくれて感謝する。今宵の出来事は我が伝説の序章として語り継がれるであろう。だが心してほしい。私の歩みはまだ始まったばかりである!その第一歩目を、君たちには特等席で見る権利を授けよう!」

「わはは。いいぞ!玉砕しろ!」

「相手が誰だかわからんが、男なら当たって砕けろ!」

「またフラれたら女紹介してやるよ!」

「さっさとフラれて、また歩いて呑み明かそうぜ!」

「ありがとう、ありがとう。諸君らの声援、しかと心に刻み込んだ。これで私は無敵である。吞み比べで彼女を打ち負かし、華麗にその心を手に入れて見せよう!いざ行かん、彼女の居城へ!」


 そう高らかに宣言して、萎び鯉さんはお店を後にしたのです。


 ちなみに、今更ながらなぜ萎び鯉さんと出会ってすぐに態度が急変したのかと問うと、ただのとのことでした。


 曰く、偉大なる龍とはかっこいいものである。しからば、客人に不甲斐ない姿を見せるわけにはいかぬだろう、とのことです。


 ニヤリと浮かべた不敵な笑みが、ひどく印象に残ったのを覚えています。


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