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第3話

 男性――茶ヶさがりさんと言うらしいです――から抹茶を頂き話し込んでいるうちに半刻ほど時間が経ち、にわかにお天道てんとさまが身を潜め始めるのを見て、私は慌てて吞んだくれの街に繰り出しました。


 茶ヶ龍さんに大見得を切ったにも関わらず、私は呆気なく彼の押しと抹茶の魅力に負けてしまいました。しかし、それも致し方なきことでありましょう。茶ヶ龍さんはのらりくらりと口八丁で私を引き留め、その間も手の動きは絶えることなく優雅に抹茶を点てていました。


 私があわあわとしているうちに、あれよあれよという間に茣蓙に座らされ、感謝の一礼ののち完飲。抹茶の優しい苦みが非常に美味でした。


 その後も、呑んだくれについて語り、恋について語り、非常に楽しいひと時を過ごしました。そして、光陰矢の如しとは言ったもので、気付けば宵の気配が漂う刻限。


 いやはや、珍しく格好つけて大見得を切ったにも関わらず、なんともお恥ずかしい限りです。武士に二言はないと言いますが、だからと言って女子供が無闇に二言を弄してよいわけではございません。


 しかし、過ぎたことを恥じても仕方がありません。私はこの二つの健脚で今を歩いているのです。


 お天道さまもお隠れになられて、吞んだくれ横丁はその賑わいを更に加速させます。


 夜の闇が溶け込んだ街は、対岸の店とを架け渡す行燈に照らされてお祭りのような喧騒で溢れています。


 右を見れば喫茶店のテラスで紳士淑女による珈琲の飲み比べ。左を見ればビールの大ジョッキ片手に肩を組んだ益荒男たちの陽気な歌声。皆さん楽しそうで何よりです。


 ふと、視界の端で何やら黒山の人だかりが見えました。


 人々の間を縫うようにして覗くと、それはウワサに聞く「吞みものの滝」を見物する方々でした。更に目を凝らして立てかけられた看板を見ると、それはどうやらりんごジュースの滝のようです。


 りんごジュース。


 その文字列を見つけたとき、私は思わず口角がにゅッと上がるのを抑えることができませんでした。


 実は、幼き頃、学校のプールの水がすべてりんごジュースであればいいのにと思っていたほど、私はりんごジュースが大好物なのです。


 現在もりんごを特産とする各地からりんごジュースを取り寄せ、ワインセラーならぬりんごジュースセラーを自宅に設置するほどです。


 無論、淑女として今はそのような幼き願望は胸に秘めておりますが、同時に、私は心の中に幼稚園児と小学生を住まわせる、極めてご機嫌な淑女なのです。念願成就を目の前にするや否や、いつものつらの皮をひっぺはがして二十歳児が誕生することは想像に難くありません。


 私は思わずポケットに仕舞われた「呑みものの滝」優先券に手を伸ばしますが、寸でのところでその腕を抑え込みます。


 茶ヶ龍さんのもとで道草を食ったにもかかわらず、こんなところでも誘惑に負けそうになるとは、恥を知りなさい!


 今この時も萎び鯉さんは魔法の煙管を今か今かと心待ちにしているのです。


 だというのに私ときたら、己の稚拙な欲望に心奪われ、萎び鯉さんを待たせてしまうなど、全くもって考えられません!いくらその時々を大切にしているとはいえ限度がありましょう!


 私は自分の弱い心に憤懣ふんまんやるせなく、心持ち乱暴な足取りで、「吞みものの滝」とは反対方向にドスドスと踵を返しました。




 ◇




 ごくごく、ごくごく。


 ごくごく、ごくごく。


 絶えず降り注ぐ林檎の滝。もはや暴力と呼べるほどの濃厚で芳醇な香り。


 そして味蕾みらいに叩きつけられる無限林檎。


 嗚呼、極楽浄土はここにあったのです。


「お嬢ちゃん、なかなかの呑みっぷりだな!こりゃ、ジュースがなくなるのも時間の問題か?」


 この時、私は係りの人の声が耳に入らなくなるほどこの林檎の滝を堪能しておりました。


 幼き頃の夢。りんごジュースを浴びるほど吞むという幼稚な夢が、まさに文字通り最高の形で叶ったのです。


 無論、上半身はりんごジュースでびちゃびちゃですが、そこはご安心を。事前に着替えて魔法の煙管もロッカーに仕舞ってあります。


 それに茶ヶ龍さん曰く、萎び鯉さんは己に試練を課しているという事なので、もしかするとこの「呑みものの滝」でお会いすることがあるやもしれません。


 絶えず迫りくる水流をひたすらに呑み下し続けるという、常人からすればある種苦行染みた行為ですから、十二分に可能性はあるでしょう。


 ごくりごくり、ごくりごくり。


 嗚呼、これこそが生、これこそが生きるという意味。


 りんごジュースを通して、私は人生というものの真理を垣間見た気がしました。


「あなた、なかなかイケる口ね」


 呑み放題に一区切りつけて、ビーチボールもかくやというほど膨れたお腹を擦りながらベンチで休憩していると、ふいに声を掛けられました。


 声のした方に目を向けると、そこには紫色の派手なドレスに身を包む、美しい女性がベンチに座ってこちらをジッと見つめていました。


 齢のほどは二十と幾ばくかと言ったところでしょうか。小ぶりなお顔と切れ目な大きな瞳が相まって、なんとも涼し気な雰囲気を醸し出しております。それと同時に口元にそっと添えられた妖しい笑みも合わさり、どこか色香も漂わせます。


 少女と女性の狭間に住まう、微妙な均衡の上に成り立つ蠱惑的な魅力と言いましょうか。


 これでバランスボールもかくやというほどお腹が膨れていなければ、さぞ絵になったことでしょう。


「そのお腹。さぞ高名な呑んだくれとお見受けします。貴女も呑みものの滝を?」

「ええ、もちろん。けれど、そういうあなたこそ。絶えず降り注ぐ黄金の滝をその小さな口で精いっぱい吞み込んで、けれどその顔はまさに幸せの絶頂にいるようで、まるでりんごジュースを呑むために生まれてきたかのよう。見ているだけでこっちまで楽しくなっちゃったわ」


 彼女はにっこりと微笑んで、そのようなことを仰いました。


 何という事でしょう。

 彼女の形の良い口から発せられる言葉はどれも私を称賛する美辞麗句ばかり。自惚れにまみれた私は根拠なき自信の塊ではありますが、こうも真正面から褒められてしまうとさすがに照れてしまいます。照れ照れです。


 私は嬉しさのあまりニマニマと口を歪めて手で頭を掻きながら、くねくねと身を捩らせます。私は真正面からの好意に弱いのです。

 私は一瞬でこの女性が好きになってしまいました。


「いえいえ、私などまだまだ若輩者です。この街に来たのもつい先日のこと。現在私は雑貨屋ねこのいえでアルバイトをする一介の学生に過ぎません」


 そう言うと、彼女は不思議そうに目を細め小首を傾げます。


「あなたほどの逸材が若輩者なんて、謙遜が過ぎるわ。それに、雑貨屋ねこのいえって何かしら?」

「おや、ご存知ありませんか」


 その言葉に私は少しばかり驚きます。

 どうやら彼女は「ねこのいえ」を知らないご様子。


 私が「ねこのいえ」のアルバイトとして勤め始めてから、ほぼ毎日のように方々へ配達に出向いています。そのような忙しい日々を送っていましたから、既に広報の必要がないくらいに認知が進んでいると思っておりましたが、それでもやはり知らない人は知らないものです。


 私は肩に下げた配達鞄から、あの日、私に運命的な出会いを運んできてくれた愛しの君が描かれたチラシを引っ張り出し彼女に手渡します。


 それはいくらかよれてしまったものの、あの時と同じ綺麗に畳んだままの状態です。素晴らしきご縁を運んでくれたチラシを、私はお守り代わりとして肌身離さず持ち歩いているのです。


「どうぞご覧ください、そちらに描かれるは雑貨屋ねこのいえの詳細とその愛らしいマスコットキャラクターです。職人気質な店主が手掛けるオーダーメイドの雑貨が売りの素敵なお店ですよ。お台所の便利グッズから、摩訶不思議ななぞの置物までなんでもござれ、一度買えば病みつきになること間違いなし!一般の方から不思議なお方、門戸を広くお迎えしております!ご入用の際は記載されたお電話番号にて!」


 そう言って、私は満面の笑みでお店の謳い文句をつらつらと並べ立てます。

 それを聞いてか否か、目の前の彼女はふむと柳眉を上げてチラシを読み込みます。


「ちなみに、おすすめの商品は魔法の靴下ですね。私は仕事柄、方々へ訪ね歩くのですが、不甲斐ないことに一日に数件も回ると足が疲れてしまうのです。しかしこの魔法の靴下を履いていれば、疲労を検知した靴下が足裏を丁度良い塩梅で指圧してくれて、疲れを緩和してくれるのです。これにはとても助けられました」

「ねえ、ひとついいかしら」


 そう言って、女性はチラシの隅に描かれた愛しの君を指さします。


 嗚呼、今日もねこは可愛いですね。可愛すぎて可愛いという言葉で表しきれないほどに可愛いです。


「このねこのいえのねこって、昔いたあの「ねこ」で間違いないかしら。だとしたらここの店長さん、なかなかにいいセンスしてるわね」

「もしや、ねこをご存知なのですか」

「ええ。あの毛並みに凛々とした眼。今でもその美しい姿をつい昨日の事のように思い出せるわ。私の友人にも一人いたけれど、そういえば最近は見かけないわね」


 何気なく放たれたその言葉は、まさしく私が探し求めていた情報そのものでした。


 驚天動地とはこのことでしょう!


 まさかまさか、こんなにも早くねこの所在を知りうるお方と巡り会うとは。つい先程、生涯をかけてねこを追い求めると宣言したばかりだと言うのに、わずか数刻と幾ばくかで、結実まであと一歩のところまで迫ってしまいました。


 嬉しさと興奮を抑えられなかった私は、淑女にあるまじき昂りを以て件の女性に詰め寄りました。


「ねこを知っているのですか?でしたら何卒、何卒教えていただきたいのです!私に出来ることならば何でもしますので、どうかねこのお話を。そしてその居場所を!決して迷惑は掛けませんので!何卒お願いいたします!あと、ついでにねこについて一緒に語り合いませんか?」


 私のただならぬ殺気に押された彼女は、少し怯えた顔をして仰け反りました。


 嗚呼、綺麗なお顔が引き攣ってしまって台無しです。


 今思えば、彼女には悪いことをしてしまいました。


 世間話に花を咲かせていた最中さなか、今まで大人しかった乙女が急に血相を変えて詰め寄ってきたのです。恐怖以外の何物でもないでしょう。


 しかし、この時の私はあまりの狂喜に我を忘れ、ある種の阿修羅と化しておりましたから、自分でもまるで制御が利かなかったのです。それくらいねこが好きということで、ここはひとつご一献を。


「まあまあ、落ち着いて。取り敢えず、ワケを話してくれなくちゃ、どうにもできないわ」


 確かに。寸分違わず一理しかありません。


 どうどうと窘める彼女の言葉にハッとさせられた私は、すぐさま非礼を詫び、ねこと私の素晴らしき馴れ初めを語り始めました。


 大学後期最終試験の帰り道云々。アンティークでお洒落な雑貨店云々。チラシのねこに一目惚れした云々。ねこが可愛すぎる云々。ねこを吸いたい云々。云々。云々。その全ての話に、女性は笑顔で耳を傾けてくださいました。


 彼女が聞き上手だったせいでしょうか。

 気が付けば馴れ初めを飛び越えて、ねことの理想の生活を語りだした頃、私はふと我に返って本題に戻りました。


 因みにねこがいる理想の朝は、顔にのしかかるねこの圧と鼻腔を満たすねこの香りによって目覚めることです。


「というワケでして。私は今すぐにでもねこさんにお会いして、この胸で迸るパトスをお伝えしたいのです。そしてあわよくば、そのお腹を吸わせていただきたいのです」

「そう。なんとなく事情は分かったわ。でもそうねぇ、あのねこに一目惚れかぁ。まあ、あいつら見てくれはすごくいいから、気持ちはわからなくはないわね」


 悩まし気にそう漏らすと、顎に手を当てて言葉を続けました。


「いいわ。ねこのこと教えてあげる」

「それは本当ですか」

「ただし、ひとつ条件があるわ」


 すらりと伸びる白魚のような指を立てて、彼女は不敵な笑みを浮かべます。


 今までの人のよさそうな柔らかな笑みは鳴りを潜め、本来の彼女の雰囲気にふさわしいイジワルな笑みです。これで角と翼があれば、彼女は立派な小悪魔を務めることができるでしょう。


 果たして、課せられる条件とは何でありましょうか。

 彼女の表情から察するに、尋常なことではないのでしょう。何でもすると申し上げた手前、最早もはや私は後には引けません。しかし、私はねことあいまみえるためならば、如何いかな艱難辛苦が待ち受けども踏破して見せる覚悟でございます。そのような覚悟をまなこの奥で揺らし、私は毅然とした態度で言い放ちました。


「いかなる難題を来ようとも、不肖このわたくしめは決して引きはしません!蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、仏の御石の鉢、龍の首の珠、燕の子安貝。そのどれもを数日以内に持ち替えるとお約束いたしましょう!さあ、我が愛しの君の所在を知る美しきお方。いったい貴女は何を所望するのですか!」


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