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第12話

 緑がかった蛍光灯の光に照らされた古びた旅館の一室で、木田くんと私は並んで座り、開かれたラップトップの画面をじっと見つめて待っていた。


 通知していたミーティング開始時間をゆうに10分ほど過ぎた頃、アプリが通話相手の入室を告げる。画面が急に暗く青ざめ、深い闇に沈むように映し出されたのは、天井近くまで乱雑に積まれた本や衣服が散乱した床、そして角が崩れかけた段ボールの山。その隙間からは、レジ袋や古びたペットボトルが顔を覗かせている。


 一呼吸ののち、画面の右側に掃き溜まったひときわ暗い闇から染み出すように、女がゆっくりと姿を現した。パソコンからの冷たい光ブルーライトが、背後の壁や段ボールに女の姿を不明瞭に投影する。不気味なほど静かな気配が、画面を通してこちらにまで広がってくるようだった。


 女はパソコンの前に腰を下ろした。


 メディアに登場するときには愛らしい顔立ちなのに、今は顔全体がむくんで異様に膨れている。目の下にはくまが浮かび、無造作にまとめた髪はあちこち乱れて、ぼさぼさの髪が顔にかかっていた。手に握られているのは、まるで棍棒のような一本丸ごとのバウムクーヘン。


「木田よ……」


 その風貌とは裏腹に、女は厳かに口を開いた。


「貴様のような下っ端の編集者風情が、この多忙を極める『筆の魔導師』リンリン先生様を呼び出すとは……身の程知らずなその無謀さ、まずは褒めてやろうではないか!」


 女の目が、画面を通してぎらりと光った。


「おや、そこに三恵もいるのか……? ま、まさか貴様ら、二人でアツアツ温泉旅行などと……そんな禁断の領域へ共に足を踏み入れたのではあるまいな!?」


「取材だよ」私はおざなりに言った。「分かってんでしょ」


 相変わらず、プライベートでは中二病をこじらせているらしい。特に木田くんと話すときには、その濃度が増している気がする。


 リンリンは「クックックッ」と含み笑いをしながら、手に持っていた丸ごとのバウムクーヘンにかぶりついた。恵方巻きかよと思って見ていたが、すぐに隣の木田くんの顔が真っ青になっていることに気づく。まるで亡骸なきがらを喰らう地獄からの使者でも見ているかのように、木田くんは目を見開き、震える声で言った。


「リ、リリリ、リンリン先生……それはまさか、行列のできるドイツ菓子店『ヴィルムベルク』で月1回限定30本しか売り出されない謹製バウムクーヘン『シュヴァルツヴァルトの輪舞ロンド』じゃないですか! 黒い森シュヴァルツヴァルトごと繰り広げられる妖しい舞踏会をテーマに、竹炭パウダーを混ぜた漆黒の生地を、熟練した職人たちが踊るように焼き上げたという、あの幻の……!」


「ククク……木田よ、よくぞ気づいたな!」


 リンリンは愉快そうに笑い、木田くんに見せつけるように、ゆっくりともう一口かぶりついた。


「や、や、止めてくださいリンリン先生! シュヴァルツヴァルトの輪舞は、そんな食べ方をしていいバウムクーヘンではありません! 職人たちも泣いています!」


「木田くん、いいからちょっと黙ってて」


 魚井さんの話をしたときよりもショックを受けている木田くんを押しのけ、私はリンリンと向き合った。


「あーら三恵、久しぶりね。私の新刊、受け取ってくれたかしら?」


 リンリンは普段の口調に戻り、優越感たっぷりに私に笑いかける。


「いただきましたとも。ありがとうございます、リンリン先生」


 できるだけ感謝を込めないように礼を言う。


「今日、リンリンに聞きたかったのは、その本に書いてあった事例のこと。失踪の章にあった一家4人失踪事件について――」


「一家4人神隠し事件」リンリンは被せるように訂正した。「地元では、失踪じゃなくて神隠しって呼ばれていたわ」


 神隠し……。ふと、さっきサトシくんが話していた「イケニエ」という言葉が思い出され、一瞬、背筋がゾクリと冷えた。


「本では地名はぼかしてあったけど、それって、鳴神谷で起こった事件?」


 バウムクーヘンをむさぼり食う手がピタリと止まった。彼女はパソコン前に積まれた雑誌の山から1冊を無造作に取り出し、「これいらないや」と呟いて、その上に食べかけのバウムクーヘンを載せた。その雑誌は、私たちが今まさに記事を取材している『週刊レビスタ』だった。


「三恵、木田。あんたたち、一体何を嗅ぎ回ってるの? まさか私のシマを荒らそうっていうんじゃないでしょうね」


「そんなんじゃないわよ」私は呆れて、ギャングかよと思いながら答える。


「たまたま取材に来た場所が鳴神谷だったってだけ」


 リンリンが画面の両端を掴み、カメラに顔を寄せた。彼女の顔が画面いっぱいにアップになる。


「あんたたち……もしかして今、X市にいるの?」


 私は頷いた。「それで聞きたいんだけど、神隠し事件が起きたのは、深凪商店街のアーチ看板から少し下ったところにある、赤い屋根の家で間違いない?」


 薄暗い画面越しに、リンリンの目が鋭く光った気がした。


「まさか、リンリン先生からタダで情報をもらおうなんて考えてないわよね?」


「わかりました。僕たちが知っていることを話しますよ」


 バウムクーヘンのショックから立ち直った木田くんが、横から口を挟んできた。


「その家から、女性が一人、失踪したんです。YouTuberの『ホラーチャレンジャー★アッキー』という人です。1年ほど前にあの物件を購入して……でも次第に様子がおかしくなり、半年前に忽然と姿を消しました。僕たちはその人を取材しているんです」


「ふぅん」と、リンリンが小さく言った。つまらなさそうな声のトーンだが、彼女の瞳には、隠しきれない好奇心が浮かんでいた。長い付き合いの私にはわかる。リンリンが今、たまらなく興味をそそられていることが。


「ハズレの家を買っちゃったんだ」


 私は息を飲んだ。木田くんも同じように驚きの目を向けている。


 ――ハズレの家。とみたけ食堂で、大将が言っていた言葉だ。あの場では町外れという意味で受け取ったが、リンリンが言うと……なんだか違うニュアンスを持って聞こえる。


「……町外れの家ってこと?」


 リンリンは乾いた笑いを漏らした。


「まあ、そうとも言えるわね、目の前の道も行き止まりだし」


 リンリンはバウムクーヘンを望遠鏡のように持ち、その穴からこちらを覗き込みながら言った。画面には、リンリンの片目と、それをぐるりと取り囲む漆黒のバウムクーヘンの壁だけが映し出される。


「でも、ハズレの家っていうのはね、いわゆる当たりハズレの『ハズレ』。日本中に数え切れないほどある空き家から、よりによってハズレを引き当てるなんて、そのYouTuberもよほど運が悪かった……いや、再生数を稼げたなら、運が良かったってことか、クックックッ」

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