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第10話

 亜紀の家の玄関を出たコンクリート階段に、私は力なく座り込んでいた。麻生さんは隣に腰掛け、私を心配そうに見つめている。


 前の道路では、魚井さんが無表情のまま立ち尽くし、やがて行き止まりとなる道をじっと見据えていた。その目はまるでガラス玉をはめ込んだようかのように不自然に輝き、無機質な闇を反射している。まるで……この世のものではない何かに呼ばれるのを待っているかのようだ。


 あれほど荒々しくガラス戸を揺さぶっていた風は、今は完全に止んでいる。まるで私たちが外に出た途端、その役割を終えたかのようだった。


「三恵さーん、水を買ってきました。大丈夫ですか?」


 商店街の方から木田くんが駆け寄ってきた。手にはペットボトルの水が握られている。私はありがたく受け取ったが、その水は冷えてはいなかった。


「非常用の常温水しかなかったんですよ。でも、ステキ女子は夏でも白湯さゆを飲むらしいですから、三恵さんなら常温くらいがちょうどいいと思います」


 何か失礼なことを言われたような気もしたが、助けてもらったことは間違いない。


「ありがとう。これで借りができちゃったね」


「いやいや、これくらいで焼き肉を奢ってもらうわけには……でも、三恵さんがどうしてもって言うのなら、叙々苑あたりで――」


 私は一旦彼を無視し、麻生さんの方を向いた。


「すみません、急に気分が悪くなってしまって……」


 そう言いながら、横目で魚井さんの方を見る。黒目だけが浮かぶ気味の悪い目で、彼はまだ、道路のずっと先にある得体の知れない場所を凝視していた。


 彼は……そこから何かが現れるのを待ち望んでいるのだろうか。そう思うと、背筋に冷たいものが走った。


 ――……ヒ、ヒヒッ、ヒヒヒ……ヒヒヒヒッ――


 壊れた人形から漏れ出すような不気味な笑い声を聞いたのは、私だけだった。


 あのとき、私は何とか木田くんに返事をした。しかし、笑い声は地底から噴出する黒い泥のように私の足元まで這い迫り、その不気味さに飲み込まれて、私は身動きが取れなくなっていた。


 やがて木田くんが部屋から出てきて、過呼吸のように息を荒げている私に気づき、急いで外へ連れ出してくれたのだ。


「さっき宿に電話して、送迎の車を頼みました。すぐに来てくれるそうです。ついでに軽くごねてみたら、素うどんくらいなら夕食に出してくれると言っていました。三恵さん、これで夕食の心配はありませんよ!」


 麻生さんは亜紀の家の鍵を閉め、「送迎場所のアーチ看板までお送りします」と言って、私が車に乗るのを手伝ってくれた。


「魚井さん、乗ってください。車を出しますよ」


 彼はまだ、どこへも続いていない道の先を見つめながら、恍惚とした笑みを浮かべた。そして、黒目だけが光を放ち、口元が異様なまでに広がる歪んだ笑顔で、まるで歌うように言った。


「いいえいいえ、私はもう少しここでのんびりしますよ。ほうら、今日は天気もいいし、風も止んでいる」


 その異様な姿に、麻生さんと木田くんは無言になる。


「魚井さん……どうしちゃったんだろう」


 薄気味悪そうな目で魚井さんを見ながら、木田くんが小さく呟く。魚井さんが車に乗ってこないことに、私は心の底から安堵した。




 麻生さんは商店街の入口に車を停め、後部座席の私たちを振り返った。


「早瀬さん、大丈夫ですか? 辛ければ、送迎の車が来るまでこのまま車内で休んでいても大丈夫です」


「いやぁ、大丈夫ですよ」と言いかけた木田くんを手で制し、私は麻生さんの方へ身を乗り出した。


「麻生さん。聞きたいことがあります。4年前、鳴神谷支店ができた時に魚井さんが現れたとおっしゃいましたよね」


 麻生さんは一瞬戸惑ったような顔を見せた。


「ええ。そうですが」


「その時、魚井さんの身元確認はされましたか?」


 麻生さんは驚きで目を見開き、言葉を失った。


「……身元を調べるという意味でしたら、しておりません」


 彼女は眉間にしわを寄せ、不安げに視線を彷徨わせながら言葉を続けた。


「ですが、最初にあの物件を扱った際には、失踪についてのヒアリングは行いました。確かに、あの家を建てたのは魚井という名字の方です。4年前に初めてお会いした時、魚井さんの免許証も確認させていただきましたが、お名前は魚井真司さんで間違いありませんでした」


 話しているうちに、麻生さんの声には少しずつ確信が戻りつつあったが、その目はまだ不安で揺れていた。


「ちょっと、ちょっとまってください」


 木田くんが我慢しきれずに口を挟む。


「一体どういうことなんですか、三恵さん?」


「さっき、亜紀の部屋を出て南側の部屋に行ったとき、魚井さんも来て……。その時の様子が、明らかにおかしかったの。気味の悪い笑い声を上げながら、まるで自分の家族や亜紀が行方不明になったことを――」


 口に出すことさえはばかれたが、私は深呼吸をし、言葉を続けた。


「楽しんでいる、みたいだったの」


 車内に不気味な沈黙が広がった。


 4年間も関わってきた人物を信じたいのか、麻生さんは、何とか魚井さんを擁護するかのように、ぎこちなく口を開いた。


「魚井さんは、あの家の間取り図も正確に把握していました。実際に住んでいたことに間違いないはずです」


「でも、あの家は人が長く住みつかず、何度か取引されていますよね? そのたびに、間取り図も公表されているのでは?」


「それは……」


 麻生さんは再び沈黙し、視線を落とした。その時、木田くんが外を見て「あ、送迎の車が来ましたよ」と言った。私も目をやると、古びたマイクロバスが砂埃を巻き上げながら近づいてくるのが見えた。


 麻生さんからの話の続きを待ったが、今日はもう何も話してはくれないかもしれない。そう思って諦めかけたその瞬間、麻生さんが急に顔を上げた。


「……あの家には、間取り図に載っていない部屋があります。魚井さんは、それについて知っていました」


 私たちは驚いて麻生さんを見つめた。彼女は不安げに両手の指を組んで握りしめながらも、しっかりとした口調で言った。


「先ほどはご案内しませんでしたが、あの家には――登記されていない地下室があるんです」

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