「ありがとうございました」
魚井さんの話が終わると、木田くんがICレコーダーを止め、お礼を言った。
「大したことをお話できなくてすみません。何も問題のない家族が突然消えてしまったということで、警察もあらゆる方面を探してくれたのですが、結局手がかりは見つからなくて……」
「そういうのが一番……怖いですよね。探すべきところがわからないんですから」
私はそう答えたが、「怖い」という言葉が適切だったかどうか、自信がなかった。行方不明者家族に対して使うには、少し失礼な気もした。
麻生さんが車のキーを手に持ち、「それでは、亜紀さんの家に向かいましょうか」と促した。「今、車を回してきますから」
社名が入った白い軽自動車に、私たちと魚井さんが乗り込む。運転席の麻生さんは、バックミラーをしきりにチラチラと確認していた。木田くんも気になったのか、後ろを振り返って確認する。
「麻生さん、どうかしましたか?」
木田くんが尋ねると、麻生さんは小さな声で「いえ、何でもありません」と答えた。
距離にして1.5キロほど。車では3分程度で、亜紀の家に到着した。風はなかったが、相変わらず空気は淀んでおり、陰鬱な雰囲気が一層増しているように感じた。
「魚井さん、30年前、この家をどのように使っていたのか教えていただけますか?」
木田くんが尋ねる。彼は亜紀の動画をすべて見ているはずなので、魚井さんの話に照らし合わせながら、亜紀がどのように生活していたのかを探るつもりのようだった。
「もちろんです」
麻生さんが玄関の鍵を開けた。ドアを開くと同時に、さっきまで吹いていなかったはずの風が、家の中へと流れ込んだ。魚井さんは吸い寄せられるかのように家の中に入る。その姿に、私は微かな違和感を抱いた。
「……魚井さん。先ほどのお話では、ご家族がいなくなって3年後にこの家を売却したとのことでしたが、それ以降、この家に来たことはあるのですか?」
魚井さんは振り返った。
「いえ。売却時も私は立ち会っておりませんので、今回が30年ぶりです」
麻生さんが補足する。
「亜紀さんが失踪した時、魚井さんのことをご家族にお伝えしようと思ったのですが、不要な心配を増やすだけだと警察に止められまして……」
「なるほど」
木田くんが答えて、家を見上げた。彼の顔には、わずかに不安の色が浮かんでいた。
「……なんだかこの家、僕たちを待っていたみたいですね」
木田くんがそう呟いた瞬間、風が再び吹き抜けた。その風は、先ほどよりも強く、生温かく……まるで何か邪悪なものの息遣いが、背後から覆いかぶさってきたかのようだった。
開いたドアが軋む音を立てている。まるで家そのものが、私たちを誘い込むかのように。
亜紀の家は、想像していたよりも生活感がなかった。一通りの生活家電や日用品は揃ってはいるが、それを使っていた人の気配が薄いのだ。引っ越した直後の新居のようなよそよそしさが、家の中に満ちていた。
それでも、キッチンの水切りかごに入ったままの茶碗と湯呑みは、亜紀が好きだと言っていた粉引きのものだったし、テーブルの上の深皿には、甘党の亜紀らしく、個包装のクッキーが入っていた。その横に伏せて置かれているのは、動画のヒントにしようと思ったのだろうか、家にまつわる都市伝説アンソロジーのムック本だ。
亜紀がここにいた痕跡は、確かに残されていた。
「三恵さん、あれ見てください」
木田くんがクッキーを指差す。
「あれ、『ママエレナ・クッキー』の季節限定商品ですよ。ミントコーラ味だから、1年くらい前に売られていたやつです。斬新なフレーバーですが、ソフトクッキー好きの間ではヒットして、今年はスペアミントコーラ味として復活しました」
「……まさか、食べたいの?」
木田くんが、季節限定商品とその流通時期まで把握していることに少々引きながら、私は尋ねた。もし「一つもらっていいですかね?」とか言い出したら、彼をこの家に置いて帰ろうと本気で思った。
「やだなぁ、三恵さん。違いますよ。亜紀さん、配信では『甘党で、
私は驚いて木田くんを見た。同時に、彼を疑った自分を少し恥じた。彼は時折、鋭い洞察を見せることがあるのだ。
確かに、亜紀はかなりの甘党だった。飲みに行った帰り道、「三恵さん、ちょっと寄りましょうよ」とコンビニに入り、お菓子の新商品をチェックしていたのを思い出す。
「その頃から、食欲がなかったのかな……」
私がそう言うと、木田くんは首をかしげた。
「それか……この家に来て、味覚が変わったとか?」
その言葉を聞いた瞬間、背中に寒気が走った。
味覚が変わることはあるかもしれない。だが、この家に来てから変わったということなら、どうしても勘ぐってしまう。果たして、変わったのは味覚だけだったのか。それとも……彼女の別の部分も、変わってしまったのだろうか?
もしそうなら、彼女は……自分の意思で消えてしまったのかもしれない。
もし、あの時、亜紀からの電話に出ていれば。
涙で視界がぼやけそうになる。私はそれを素早く手で拭った。
「三恵さん、あのお菓子、一つもらったらダメですかね。ほら、もしかしたら、何かの手がかりになるかもしれないし……」
木田くんの申し出に、私はさっき彼を見直した自分を恥じた。そして何も言わず、魚井さんの後に続いた。
1階には、南向きのLDK、トイレ、風呂、そして一番広い和室があった。魚井さんの両親は、その和室を寝室として使っていたという。亜紀はこの部屋を使っていなかったようで、がらんとした畳の上に、配信の道具が不釣り合いに置かれていた。
魚井さんは1階を一通り見た後、無表情で言った。
「1階は、ほとんど変わっていませんね。テーブルやイス、食器棚などの家具も当時のままだと思います。叔父が家を売却した際、家具もそのまま譲渡したと聞きましたから」
その声には一切の感情がなく、私は背筋に冷たいものを感じた。自分以外の家族が全員失踪したこの家に、30年ぶりに入ったというのに、なぜこれほどまでに感情を抑えていられるのだろう。それとも……
木田くんを見ると、彼も何か言いたげな表情で私を見ている。私は「後で話そう」という意味で軽く頷いた。
「では、2階へ行きましょう」
魚井さんが率先して階段を上がっていく。
2階には3部屋あった。南向きの日当たりの良い部屋が2室と、北西に面した部屋が1室。魚井さんが最初に開けたのは、南東にある一番広く明るい部屋だった。
「ここは妹の部屋でした。梨香子は体が少し弱く、学校を休むことも多かったので、一番日当たりと風通しのいいこの部屋を使っていました」
亜紀はこの部屋を自分の部屋として使っていなかったようだ。引っ越しの段ボールが山積みになっている。これらの荷物は、亜紀の失踪時に手がかりを得るために家族によって一度開封されているはずだったが、元あった場所から動かされていないということは、事前に確認済みだった。
いつの間にか風が吹き始め、窓ガラスが不穏な音を立てる。晴れた明るい日なのに、私は不気味な胸騒ぎを感じて、この部屋から早く出たい衝動に駆られた。
「私が使っていた部屋をご案内します」
魚井さんはそう言って、妹の部屋を出た。さっきから、彼がいることで、この家の秩序が危ういながらも保たれているような気がしていた。だから、私たちも急いで後を追う。彼がいなくなった瞬間、この家に封印されていた何かが解放されてしまう――そんな恐怖を感じていたのだ。
西側には2室あった。私たちは当然、魚井さんが南西の部屋のドアを開けると思っていたが、彼は薄暗い北側のドアに手をかけた。
扉が開くと、予想以上に暗い空間が現れた。雨戸がきっちり閉められているようで、風がガタガタと戸を揺らす音が響く。それは、まるで誰かが外から無理やり侵入しようとしているかのように聞こえた。
部屋の入口にあるスイッチを押すと、ジッという音とともに蛍光灯が点灯した。緑がかった人工的な光に照らされた部屋を見て、私たちは息を呑んだ。
そこには――亜紀のすべてがあった。
冬物の布団が敷かれたままで、一人用のこたつの天板は化粧品や本、ノートが散乱している。壁際には配信機材が並び、埃よけの白い布がかけられていた。押し入れは開いたままで、衣類が乱雑に詰め込まれている。思わず息を吸い込むと、カビの匂いが漂っていることに気づいた。
「ああ、野口亜紀さんも、この部屋を使っていたのですね」
暗い――けれども弾んだ声で、魚井さんが言った。
こんなに広い家なのに、亜紀は――この重く湿った空気に満ちた、狭く暗い部屋に引きこもるように暮らしていたのだろうか。まるで、この場所に囚われることを自ら選んだかのように……。
「……最後の方の配信は、すべてこの部屋から行っていたみたいですね」
スマホで動画を確認しながら、木田くんが言った。その顔は少し青ざめていた。
私は思わず部屋を出て、隣の南側の部屋のドアを開けた。ほぼ同じ間取りだが、こちらは太陽の光が差し込み、湿気も少なく、空気は軽かった。しかし、荷物は一切置かれていない。さっきよりも強まった風が南側の窓を揺らし、激しく音を立てていた。
なんで亜紀は……こんなアンバランスな暮らし方をしていたのだろうか?
「本当はね、両親は、最初に僕に部屋を選ばせてくれたんですよ」
突然、背後から声が聞こえ、私は飛び上がりそうになった。振り返ると、いつの間にか魚井さんが立っていた。
「お兄ちゃんだから、好きな部屋を選んでいいよと言ってね。梨香子は南東の広い部屋を狙っていたので、当然『お兄ちゃんばかりずるい』と膨れていた。でも、僕は北の部屋を選んだんです。妹は喜んで、南東の部屋を自分のものにしましたよ」
魚井さんの顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。それは懐かしさに浸るようなものではなく、どこか恍惚とした……狂気さえ感じさせる笑みだった。
「……なぜ、こちらの日当たりの良い部屋ではなく、北側の部屋を?」
魚井さんは、まるで何かを楽しむかのように目を細めた。ほとんど黒目しか見えない瞳に異様な光が宿り、口元には不自然に歪んだ笑いが、ゆっくりと浮かぶ。
「なぜって? さあねぇ……その時の僕に聞いてみないとねぇ。ヒヒ……ヒヒヒッ」
彼の声は湿り気を帯び、私は思わず後退りした。全身に鳥肌が立ち、背中を氷のような冷たさが這う。
この男は……本当にさっきまで不動産会社にいた人と、同じ人物なのだろうか?
「でもねぇ……ヒ、ヒヒッ、僕は、北の部屋にして良かったと、ヒヒヒ……思ってるんですよ……ヒヒヒヒッ」
私は呼吸が浅くなり、心臓が激しく脈打つのを感じた。恐怖で全身が凍りつき、一歩も動くことができない。
その時、隣の部屋から木田くんの声が聞こえた。
「あれ、三恵さん、どこ行っちゃったんですか?」
私は魚井さんから目を逸らせないまま、「木田くん、すぐ行く」とかすれた声で答えた。