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第8話

魚井うおい真司しんじと申します」


 麻生さんの隣に座った男が、静かに、低い声でそう言った。血色が悪く、表情は見えにくい。礼儀正しそうな人物ではあるが、その佇まいには暗い影がつきまとっていた。


「昨日は……盗み聞きなどしてしまい、失礼しました」


 私たちは魚井さんに名刺を渡し、行方不明になった亜紀との関係を説明した。魚井さんは、私たちが説明している間、名刺を指先でなぞるように弄び続けていた。


「お名前、山田さんじゃないんですね。どうして偽名を?」


 私がその問いを投げかけた瞬間、魚井さんの口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。それは笑顔というよりも、皮肉に近いような気がした。


「ほら、そうやってすぐに名前が広がるでしょう。ここには個人情報保護法なんてない。魚井なんて珍しい苗字だと、行方不明者の家族だってすぐに知れ渡ってしまうんですよ」


 想像通りの答えだった。これは、それほど意味のある質問ではなく、まずは取材対象者の口を開かせるためのアイスブレイクみたいなものだ。


「こちらの麻生さんとは……?」


 この質問には、麻生さんが答える。


「弊社はS市の市街地に本社があります。このあたりの物件を担当しているのですが、魚井さんのご親戚が、あの物件をお売りになった際も、弊社が仲介したと聞いております」


 当時、まだ麻生さんは入社していなかったということだろう。


「それ以来、あの物件は何人かの人手に渡ったということですが、それも御社が仲介を?」


 私が問いかけると、麻生さんは頷いた。


「そうです。とはいえ、本社で取り扱っておりましたので、私が担当というわけではなかったのですが。地方移住がブームになり、4年前にこの支社ができました。そのときから、私が支店長としてこの周辺の物件を担当しております」


 魚井さんが、再びその言葉を引き取った。


「この支社ができたときに伺って、事情を説明して。それで、麻生さんもいろいろご協力くださるように……」


 背景が見え始めててきた。他の営業中の店と違い、この不動産会社は、もともとこの商店街にあったわけではないのだ。


 商店街について、もっと掘り下げて聞きたいと思ったが、魚井さんは今日東京へ戻るという。まずは彼の知っていることを聞いておくべきだろう。


 隣で木田くんが口を開いた。


「魚井さん、年に何回かいらっしゃっているそうですが、どうしてですか?」


 普段は首を傾げる言動の多い木田くんだが、取材に関しては、適切な質問ができる有能な編集者だ。普段もそうであってくれればいいのにと、ペアを組むことが多い私はいつも思っている。


「……今からちょうど30年前にいなくなった家族を探していました。20代から30代にかけてはもっと頻繁に来ていましたが、最近は仕事が忙しいのと……」


 魚井さんが言葉を切る。わずかな沈黙の後、彼は重いため息をつきながら、首を振った。


「……そろそろ、諦め時なのかなと思うこともあり、最近は年に1、2回来られればいい方です」


 木田くんは「なるほど」とだけ言い、身を前に乗り出した。


「お辛いかも知れませんが、30年前に何があったのか、教えていただけますか?」


 魚井さんは「はい、もちろん」と、頷いた。


 木田くんは、バッグからICレコーダを取り出し、許可を取るように魚井さんに見せた。彼は頷き、麻生さんも了承した。


 魚井さんの前にICレコーダをセットし、木田くんが「お願いします」と言う。魚井さんは、まるで忘れていた記憶の破片を手繰り寄せるように、低い声で話し出した。


「あれは30年前、8月のことでした――」





【取材テープ:202X年6月3日_魚井真司】


 あれは30年前、8月のことでした。


 当時、私は10歳で、小学4年生でした。夏休み中は毎朝6時に、ラジオ体操に参加するために商店街へ行っていました。ラジオ体操に参加すると、スタンプがもらえるんです。それを集めるのが、夏休みの楽しみでした。私は張り切って、毎日欠かさず参加していたんです。


 妹の梨香子は、1学年下の3年生でした。梨香子も一緒にラジオ体操に参加していましたが、その日は夏風邪を引いてしまい、家にいました。とはいっても、ちょっと熱がある程度で、大したことはありませんでした。両親も、他の子に移したら悪いからという理由で、梨香子を休ませたんです。


 朝起きて、まずラジオ体操……ヒ……に行って、それから家族みんなで朝食を食べる。それが夏休み中のいつもの日課でした。その日も、ラジオ体操を終えて、私はいつものように家に戻りました。


 ……最初に異常を感じたのは、玄関の鍵に手をかけた瞬間でした。鍵は何の抵抗もなく、空回りしたんです。施錠されていないはずがない……のに。


 両親は都市の出身で、家に人がいても、いなくても、鍵をしないなんてありえないことでした。でも、そのときはただ「おかしいな」と思っただけで、深くは……ヒ……考えませんでした。ですが、居間とキッチンが繋がった部屋に足を踏み入れると、その違和感が一気に確信へと変わりました。


 いつもなら、母が台所でご飯をよそい、妹はテーブルに向かって図鑑を広げていて、父はソファで朝の……ヒ……ニュースを見ているはずでした。そんな光景が、当然のように目に入るはずだった。だけど、そこには人の気配が一切なかった。みんな……ヒヒヒ姿を消した後だった……ヒッ……ヒヒ。


 ……テーブルには4人分のおかずだけが並べられ、炊きあがったばかりのご飯も炊飯器にのこされていましたが、茶碗にはよそわれていませんでした……ヒヒッ。そして……ヒッ……ただ一つ、火にかけられたままの味噌汁だけが、ぐつぐつと異常な音を立てて煮え立っていた。白い煙が勢いよく立ち上って……ヒヒヒヒヒ。


 でもね……ヒ……ヒヒッ……あのときね、……私が部屋に入った瞬間、何かがヒヒヒ……ヒッ……いたんです……ヒヒヒッ……見えない、でも確かにそヒヒッヒヒヒ……ヒヒヒヒッヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ


**(テープはここで切れている)**

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