商店街を端から端まで歩くのは、これが初めてだった。
アーチ看板をくぐり、反対側の端までは1キロほどだろうか。その間、道の両側には小さな店が軒を連ねている。商店街の入口でも感じたが、奥へ進んでも、シャッターが閉まった店が多いのは変わらない。中には営業している店もあるが、こんな状態で店主がどうやって生活しているのか、私は不思議でしょうがなかった。
もう一つ、得体の知れない不安が胸に広がっている。通りには誰もいないのに、さっきから背中に視線を感じるのだ。まるで何かに監視されているような感覚が、肌にじわりと浸透してくる。
――あの、とみたけ食堂で感じたのと同じ視線だ。あの目がどこからか私たちを見ている。今すぐにでも東京に帰りたかったが、もちろんそんなことは口に出せない。
「ここです……あ、え?」
驚いたような声を上げて木田くんが指差したのは、明らかに今までの店舗とは一線を画した建物だった。どう見ても、コンビニの空き店舗をそのまま使った不動産会社だ。
「へぇ、昔はコンビニもあったんだ。この外観は、地方でフランチャイズ展開していた「フィフティストア」ですね。確か、本部も結構前に潰れたはずです。いやぁ、懐かしいな」
見るからに後づけされた看板には「◯◯不動産 鳴神谷支店」と書かれている。地方の小規模な不動産会社のようだ。
立ち止まった途端、さっきから感じている視線の濃度が増したような気がする。早く中に入りたい。
木田くんはドアを勢いよく開け、大声で『すみませーん、フィフティ弁当ひとつ!』と叫んだ。私をはじめ、店内にいた2人の男女がキョトンとする。
「ちょ、ちょっと木田くん、何言ってるの?」
スタッフから何一つ反応がないのを見て、木田くんはちょっと残念そうに言う。
「フィフティ弁当って、このコンビニの名物商品だったんですよ。ちぇー、ここのスタッフさんなら、僕の渾身のジョーク、分かってくれると思ったんだけどな」
私は木田くんの頭を押さえつけながら平謝りして、改めて名刺を差し出した。
「『週刊レビスタ』のライターの早瀬と申します」
「同じく、編集部の木田と申します。お電話を差し上げた者です」
「
奥の商談スペースに案内され、私たちはパイプ椅子に腰掛けた。川口さんがお茶を運んできてくれる。
「野口亜紀さんのことですが、調査してくださるそうで、本当にありがとうございます」
おもむろに麻生さんが切り出した。
「私どもと致しましても、まさか亜紀さんが、こんな……」
麻生さんの声は震えていた。目を伏せ、唇を噛みしめたその表情には、ただの担当者として以上の深い悲しみが宿っているように見えた。
「あの、麻生さん。亜紀さんとは……?」
「ああ、失礼しました」
彼女は顔を上げて、無理に笑顔を作ってみせた。
「亜紀さんは人懐っこくてお話し好きで、しょっちゅうここに遊びにきてくれたんです。私とはひと回りも年が違いますが、なんだか妹みたいに思っていましたので……」
失礼と言って、麻生さんは横のカラーボックスからティッシュを取り、目元に当てた。
「お気持ち、よく分かります。私も同じような感じでしたから。最初は取材で出会い、それから何年か、飲み友達のような関係でした」
亜紀の、無邪気な笑顔が思い出された。あの動画で、亜紀が「町の人と交流するのが好き」と言っていたのは本当のことだった。ここでも、現地の人と心地よい関係を築こうと、亜紀は頑張っていたに違いないのだ。
少しの間、無言で机の上を見つめた後、麻生さんはためうように口を開いた。
「あの……お電話では、お話しできなかったのですが」
麻生さんは声をひそめた。そして、さっきから手にしていたファイルをめくり、あるページで手を止める。私たちは身を乗り出した。
麻生さんは、ファイルのページに手を挟んだまま、私たちの方を見た。その目にはまだ、自分が知っていることを伝えるべきかどうか、迷いが浮かんでいる。
「……先に申し上げておきますが、これは本来、社外の方にお見せできるものではありません。記者さんとなれば、なおさらです」
そこで言葉を区切り、麻生さんは不安そうにわたしたちを見る。
「……写真やメモなどは一切ご遠慮ください。お約束、いただけますか?」
私と木田くんはうなずいた。可能な限り話を引き出すためには、ここで警戒されるわけにはいかない。私たちは麻生さんが見ている前でスマホとカメラをバッグに入れ、床に置いた。
「ありがとうございます。……今からするお話を元に、取材などをして頂いてかまいませんが、弊社、または私個人の名前は、絶対に外へ出さないでください」
「もちろんです。情報提供者の秘密は必ず守ります」
木田くんが言った。週刊レビスタには毎日何件ものタレコミ電話があるので、情報提供者への対応は慣れている。こんな木田くんでも、その点に関しては安心して大丈夫だ。
麻生さんは、まだ迷うような仕草を見せた後、何かを振り切るようにファイルを開き、前に差し出した。私たちはそれを覗き込む。
そこには、古い家族写真が挟まれていた。その後ろには、報告書のようなコピー用紙の束が見える。写真には、やさしそうに笑う両親と、小学生くらいだろうか、子どもがふたり――男の子と女の子――が写っている。どこかの川をバックにバーベキューをしている写真で、そこにいる全員は、とても楽しそうに笑っていた。
「これは……?」
私は麻生さんに聞いてみた。
麻生さんはテーブルの上に置いた手を握りしめて、声を絞り出すように言った。
「――30年前、あの家で最初にいなくなった家族です」
私と木田くんは顔を上げて麻生さんを見た。
「何ひとつ問題のない家庭だったのに、ある朝、朝食の準備を終えたあと、3人が忽然と消えてしまったんです。食卓には、まだ温かい料理がそのまま残されていたそうです……」
写真の中で幸せそうに笑う家族が消えてしまった。その事実を前に、私は息を呑んで木田くんと顔を見合わせる。
少しの沈黙のあと、木田くんがふと尋ねた。
「あの、家族3人が消えてしまったとおっしゃいましたが、この写真に写っているのは4人ですよね。誰が、残ったんですか?」
その時、背後から低い声が響いた。
「私です」
突然の声に、一瞬、体が凍りついたように動かなくなる。木田くんは「ヒィッ」と叫んだ。
私が恐る恐る振り返ると、スタッフルームの扉の隙間から、ゆっくりと男が姿を現した。
「あ、あなた……」
驚きのあまり、声がかすれた。その顔には見覚えがあった――昨日、大浴場のラウンジで、私たちの会話を聞いていた男だ。
私たちは凍りついたように男を見つめた。彼の暗く光る瞳もまた、底のない闇を宿すかのように、私たちの方を見つめていた。