連泊の場合、温泉宿からの送迎は1日1往復までしてもらえるということだったので、翌日も深凪商店街までへの足は確保できていた。朝、わたしと木田くんは、指定された時間に宿の玄関前に集まった。
今日の木田くんは、何だか元気がない。もしかして、昨日、誰かに話を聞かれたことを気に病んでいるのだろうか。そう思って声をかけようとしたその時、彼はため息をつきながら、いつもよりか細い声で言った。
「……三恵さん、お腹が空きましたねぇ」
そうだ、木田くんがその程度のことで落ち込むはずがなかった。仕方なく、バッグからプロテインバーを1本取り出して「どうぞ」と彼に渡した。取材中、食事が取れないことはよくあるので、こういったエネルギー補給用の食品は常に携帯しているのだ。
「ありがとうございます。正直言うと、焼き鮭定食とか食べたい気分なんですけど、背に腹は代えられませんからね。ありがたくいただきます」
次に木田くんがお腹が空いたと言っても、もう何もあげないでおこうと心に決めた。
マイクロバスの運転手は、昨日の陰気そうな男性ではなく、20歳前後の若い男性だった。髪を金髪に染め、耳にはいくつものピアスが光り、ベルトループと財布をつなぐシルバーチェーンがジャラジャラと音を立てている。木田くんは小声で「きっとこの田舎ヤンキーくんが、レビューに書かれていたみたいな、スリル満点の送迎車ドライブを味わわせてくれるんですね」と囁いた。
わたしたちはマイクロバスに乗り込み、しっかりとシートベルトを締めた。ヤンキーくんは意外とフレンドリーで、人懐っこい笑顔を見せながら「お客さん、東京からっすか? いいなぁ、シブヤとかオカチマチとか、憧れっすよ!」と話しかけてくる。なぜ御徒町なのだろうとは思ったが、聞かないでおいた。
シティボーイのプライドをくすぐられたのか、木田くんは鼻を高くしながら「いやぁ、コンビニが多くて昼飯を何にするか悩むし、都会暮らしも楽じゃないんだよネェ」と自慢げに語り始める。
バスが出発した。予想通り、スピードを出しながらスリリングに山道を走り抜ける。道路の舗装はところどころ剥がれ、穴が空き、所々に枝が落ちているので、バスは常に小刻みに揺れ、時折大きく揺れた。
「ねぇ、昨日は、わたしたちのほかにお客さんいたわよね?」
わたしは手すりにつかまり、揺れる体を固定しながら聞いた。個人情報保護なんて概念が、ここでは通用しないことを期待して。
「ああ、山田さんね。はいはい、昨日も来てましたね」
「昨日
「年に何度か来るんです。そういや、あの人、いつも深凪商店街に通ってるらしいっすよ」
わたしは木田くんと顔を見合わせた。深凪商店街に?
わたしはあまり興味がないふうに装って、さらに聞いてみる。
「そんなに通うような場所があるとは思えないけど、商店街に何しに行くんだろうね?」
ヤンキーくんはうーんと小さく唸った。
「山田さん、あんまり話す人じゃないんで、詳しくは知らないですけど、そういや何年か前、じっちゃんに凪淵寺のこと聞いてたっけ」
「じっちゃんって、昨日の夜、迎えに来てくれた人?」
「そうそう。似てないっしょ?」
ヤンキーくんは振り返って、屈託のない笑顔を見せた。わたしと木田くんは慌てて「前を向いて!」と叫んだ。彼は本当にスリルを味わわせてくれる。
木田くんは、前の座席につかまりながらさらに尋ねた。
「ねぇ、田舎ヤンキーくん。凪淵寺ってどうして廃寺になったか、おじいちゃんから聞いたことあるかい?」
わたしは小声で「呼び方!」と木田くんを睨みつけたが、ヤンキーくんは特に気にする様子もなく、「いやー、知らないっすね。寺とか興味ないし」と返事をした。ついでに「あ、ちなみにオレ、サトシっていいます」と付け加える。
マイクロバスは、昨日と同じ商店街の看板アーチの下でわたしたちを下ろした。メインストリートは今日も異様に静かだ。人の気配がまるでない。遠くで風が木々を揺らす音だけが聞こえてきた。
「じゃ、また迎えに来ますんで、電話くださいね」と言い、サトシくんはバスの運転席に乗り込んだ。
「あ、お客さん」
わたしと木田くんが顔を上げると、サトシくんは口元に小さな笑いを浮かべながら言った。
「
彼はバスのドアを閉める。低く唸るエンジン音が耳障りに響き、マイクロバスはゆっくりと発進した。
木田くんは「お腹が空いたなぁ」とつぶやきながら、吸い寄せられるように薄暗い商店へと足を踏み入れた。数分後、大量の菓子パンを両手に抱えて出てくる。
「菓子パンとカップラーメンだけ売っていました。本当はおにぎりが食べたかったんだけど、まあ、いっか」
木田くんは、パンをわたしにも分けてくれた。商店の軒先に置かれた古びたベンチに座り、無言でそれを頬張る。わたしはあまり食欲がなく、残ったパンをバッグにしまった。
「……このパン、ロングライフのやつですね。賞味期限も近い。パンの配送車とか、来ないのかな」
パンのパッケージを見ながら、木田くんが
「まあいっか、美味しいから」
木田くんは食べ終わったパンの袋をひとまとめにして、商店に置かれたゴミ箱に捨てた。
「さて、今日は不動産会社からだっけ」
わたしはわざと明るい声を出したが、もうすぐ亜紀が暮らしていた家に入るということを考えると、胃が重くなる。思わずみぞおちに手をやった。
木田くんはそんなわたしの緊張と不安には気づかず、お腹に当てた手を見て、「まだお腹が空いてるなら、もっとパンを買ってきましょうか?」と呑気に言った。
「不動産会社は、商店街の一番向こう側です。腹ごしらえも済んだし、行きましょうか」
わたしたちは、寂れた商店街を歩き始めた。かつては賑わっていたと言われても、今の姿からそれを想像することは難しい。人の気配がまったくなく、わずかな風が吹き抜けるたびに、錆びたシャッターが軋む音が響く。それ以外の音がまったくしないのも歪だ。まるで、商店街全体が息を潜め、わたしたちを見ているかのようだった。
昨日入った食堂に差し掛かった。暖簾はまだ出ておらず、入口の引き戸が少しだけ開いていた。そういえば、昨日追いかけてきたあの子から電話はなかったなと思いながら、わたしは何気なく引き戸に目をやった。
次の瞬間、全身の毛穴が逆立つような恐怖を感じた。引き戸のわずかな隙間から、目だけがこちらをじっと見ていたのだ。
体が硬直して動かない。必死で息を吸い込みながら、わたしはようやく言葉を絞り出した。
「き、木田くん……」
わたしは木田くんのリュックを掴んだ。声がうまく出ない。
「どうしました?」
震える指で、とみたけ食堂の入口を指差す。
木田くんも戸の方に目を向けたが、その目はすでに消えていた。細く開いた引き戸の向こう側には、ただ暗闇が広がっているだけだった。
「何もないじゃないですか」
木田くんの言葉が空虚に響く。周囲はまるで何事もなかったかのように静まり返り、風が錆びたシャッターを鳴らす音だけが響いていた。