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第5話

 鳴神谷の宿はすべて廃業してしまっていたため、木田くんが予約したのは、亜紀の家から最寄りとなる隣町にある宿だった。人手不足のため食事は提供されないが、温泉の大浴場があるという話だ。


 わたしたちを迎えに来たのは、ところどころ錆びつき塗装が剥がれかけている、古びたマイクロバスだった。窓ガラスには薄い埃がこびりつき、車体のあちこちには傷やへこみが目立つ。ボディの横に書かれた宿名は半分消えかけていたが、かろうじて『風泣原ふうきゅうはら温泉』という文字が読み取れた。


 最初に座った入口近くの席は、シートベルトがちぎれていた。警察の目も届かなさそうな場所だし、なくても大丈夫だろうと思ったが、木田くんが「旅行サイトのレビューで、昼間でも薄暗い山道で運転手が飛ばすから、シートベルトを締めたほうがいいって書いてありましたよ」と小声で言った。わたしは反対側の席に移り、シートベルトをしっかり締めた。


 運転手は、暗い雰囲気を纏った男性だった。バックミラー越しにわたしたちの方をちらりと見やり、無言でバスを発進させる。レビューとは違う運転手なのか、それほど飛ばしはしなかった。


 19時を過ぎてあたりは日が翳り、杉の木々が生い茂る細い山道は、さらに陰鬱な雰囲気を醸し出していた。街灯はなく、光源は車のヘッドライトだけ。車内は居心地が悪いほどの静寂に包まれている。


 木田くんだけが、さっきお腹いっぱい食べたせいか、車内の重苦しい雰囲気に気づく様子もなく、うつらうつらと無防備に、眠りに落ちかけていた。


「……お客さんたち、どうしてまた、鳴神谷なんかに?」


 不意に、運転手が話しかけてきた。その声で、木田くんが眠りの淵から引き戻され、目をこすりながら「え? え?」と呟いた。


「実は、ローカル情報誌のリサーチで来たんです」と、わたしは答えた。「週刊誌」よりも「ローカル情報誌」のほうが情報を引き出しやすいことは、今までの経験から検証済みだ。それに、まったくの嘘ではない。週刊誌も、広義でいえばローカル誌の仲間だ、多分。


 自分から聞いておきながら、運転手は興味なさそうに「ふぅん」とだけ言った。


「でも、正直言っちゃいますと、思った以上に寂れていましたね」


 わたしは、笑いを含ませながら付け加えた。さっき運転手が「鳴神谷『なんか』」と言ったのを聞き逃さなかったからだ。隣町同士の仲が悪いのはよくある話で、ここも例外ではなく、何かしらの軋轢があるのかもしれない。思った通り、運転手の口が少し軽くなった。


「まぁ、わざわざ来るようなところじゃないな。あの商店街も、30年くらい前までは賑わってたんだが、今は見る影もなくなっちまってねぇ」


「30年くらいって、凪淵寺があったころですか?」


 まだ少し眠そうな木田くんが、会話に加わってきた。


「そうだよ。お寺さんがあったころは、ちょっとした門前町みたいなもんだった。鳴神谷にも宿がいくつかあったけど、温泉目当ての客がこっちにも流れてきて、しょっちゅう送迎バス出してたもんだよ」


「お寺が廃寺になって、商店街も寂れちゃったんですかね?」


 木田くんは、前の座席にもたれかかるように身を乗り出した。


「……ま、そんなところだな」


「ところで、運転手さん。凪淵寺が廃寺になった理由って、何だったんですか?」


 運転手は再び、バックミラー越しにわたしたちを見た。さっきとは違う――まるでこちらの意図を探るような視線だった。


「記者さんだったよな? 何ていう雑誌だ?」


 この質問をされたら、わたしたちは嘘を付くことができない。木田くんはしぶしぶ「週刊レビスタです」と答えた。


「……週刊誌の人か」


 その言葉には軽蔑の色が滲んでいた。


「まぁ、そうですね、毎週出てますから」


 木田くんは当たり前すぎることを言う。


 寺がなくなった理由を口にしたがらないということは、そこには何か――亜紀のいうところの「いわく」のようなもの――があるのだろうか。わたしは一の望みをかけて、もう一度尋ねてみた。


「凪淵寺が廃寺になった理由、教えてもらえませんか?」


 その時、前方にぼんやりとした明かりが見えてきた。かつて多くの客で賑わっていたであろう、3階建ての中規模な鉄筋コンクリート造りの宿だ。


 近づくにつれ、外壁のところどころが黒ずみ、ひび割れているのがわかった。玄関のランプも薄暗く、頼りない光がかすかに辺りを照らしているだけだ。


 運転手は無言のままスピードを落とし、門で囲まれた敷地にバスを滑り込ませた。薄暗い玄関の正面、車寄せの屋根の下に駐車する。もちろん、出迎える者は誰もいなかった。


「あの……」


 わたしは食い下がろうとしたが、その声を遮るように運転手は言った。






「あの運転手の態度、なんなんでしょうねぇ。僕たちの週刊レビスタをばかにして」


 コーヒー牛乳のびんの紙蓋を人差し指でこすりながら、木田くんは言った。勢いあまって指を突っ込むのではないかと期待して見ていたが、彼は蓋の端をうまくつかみ、無事に開けていた。


 マイクロバスを降り、チェックインを済ませた後、とりあえず温泉で汗を流すことにした。大浴場は旅館にしては狭めで、壁は変色し、古びたタイルはところどころ剥がれ、まるで廃墟の風呂のようだった。それでも湯は柔らかく、温度もちょうどいい。


 わたしは温泉が大好きだ。1時間以上かけてゆっくり浸かり、部屋に備え付けられていた館内用の浴衣を着て大浴場を出た。


 ロビーは薄暗く、空気は淀んでいた。蛍光灯の人工的な光に照らされ、聞こえてくる音といえば自販機からの機械的なノイズだけ。部屋の中央にはレトロなソファとローテーブルが置かれており……すでに湯冷めした木田くんが、少し不機嫌そうに腰掛けていた。


「もう三恵さん、お風呂出てから明日の打ち合わせしようって言ったじゃないですか」


 温泉の気持ちよさで、すっかり約束を忘れていた。わたしは「ごめんごめん」と彼に謝り、コーヒー牛乳を奢ってあげた。


「さっきの運転手、凪淵寺が廃寺になった理由を、どうしても言いたくなかったみたいね」


 ペットボトルのキャップをひねり、冷たいお茶を喉に流し込む。温泉で火照ほてった体の細胞の隅々まで、冷たさが行き渡るような感覚がした。


「そう、そこがまた、変なんですよ」


 木田くんは、眉間にしわを寄せながら、東京から持ってきたポッキーを3本まとめて口に突っ込んだ。


「事前にいろいろ調べたんですが、凪淵寺が廃寺になった理由は、結局わからなかったんです。ネットでも情報が拾えなかったし、S市役所にも問い合わせましたが、こちらは何も知らないって、電話を途中で切られちゃいましたよ」


 木田くんはスナック菓子の袋を空けて、年季の入ったローテーブルに置いた。少しお腹が空いてきたので、わたしも遠慮なくつまませてもらう。


「ここに来た理由のひとつは、そのことも現地なら調べられるかなと思ったからなんですよね。亜紀さんの失踪と因果関係があるのかは、まだわかりませんが」


 木田くんは、両手の平をゆっくりとすり合わせた。彼が考え込むときのクセだ。


「ひとつだけ言えるのは、集落の中心的存在だったお寺が廃寺になったというのに、その理由に口を閉ざすのは、やっぱり不自然じゃないかってこと……です」


「だけど今日、とみたけ食堂で、お寺について聞かなかったのはなんで?」


「あれだけ廃寺の理由を秘密にされてるんです。信頼関係を築いてから聞こうと思ったんですが、亜紀さんの件で失敗しちゃいましたね。寺だけじゃなく、亜紀さんのことにも触れられたくなかったみたいだ」


「確かに」と、わたしは頷いた。


「とりあえず、明日は不動産会社で鍵を借りて、亜紀の家に入れてもらいましょう。何かヒントが見つかるかもしれない」


 わたしは背伸びをしながら、ふと口にした。


「今日の宿泊客は、どうやらわたしたちだけみたいね。静かだし、ゆっくり眠れそう」


 木田くんは少し驚いたような表情で、首をかしげた。


「え、さっきチェックインした時、ラウンジの隅ににもう一人いましたよ」


 木田くんがそう言った瞬間、ロビーの隅で観葉植物の影が不気味に揺れた。わたしたちが驚いてそちらの方を見ると、その背後の暗がりに置かれた椅子から、男がゆっくりと立ち上がった。男はこちらに視線を向けることなく、一言も発さないまま、薄暗い階段の方へと消えていった。


「……あの人です。やばい、いたんだ。話を聞かれてたかも」


 冷たい汗が背中を伝うのを感じた。わたしと木田くんは、しばらくの間、誰もいなくなったはずの階段の先を見つめていた。

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