「はいよ、お待たせ」
年季の入ったメラミン化粧板のテーブルに、カツ丼と半ラーメン、餃子が音を立てて置かれた。料理の香りを吸い込みながら、木田くんは昭和の風情漂うオレンジ色の箸立てから割り箸を取り出して、ウキウキとした様子で言った。
「いやぁ、今日は頑張っちゃったから、腹がペコペコですね! 僕、熱々が好きなんで、お先にいただきます」
彼は手を合わせて「いただきます」と呟き、カツ丼を勢いよく頬張る。そのヒョロヒョロとした体のどこに、このカロリーが吸い込まれるのか、わたしはいつも不思議でならない。
ここは商店街の中央にある「とみたけ食堂」。ついさっき、わたしたちは亜紀の家の近くで異様な空気を感じ、違和感に背を向けるようにして商店街へ逃げ戻ってきた。それでも、アーチ看板をくぐった瞬間、木田くんは「いやぁ、さすがに気味が悪かったですね」と、爽やかに笑って汗を拭った。まるで、追いかけっこに勝ったみたいな口ぶりだ。本当に楽天的というか、脳天気な男だ。
さらに彼は、「三恵さん、
あの薄気味悪い空気を肌で感じた後で、よく食欲がわくなと思いながら、「カツ丼って、厄払いというより受験とかに効果があるんじゃないの?」と聞いてみる。木田くんは即座に「いやいや、カツ丼は何にでも勝ちますよ。だってカツ丼ですからね」と、もはや理屈を超えたような返事をしながら、商店街で唯一営業している食堂の暖簾をくぐった。
夕食には少し早い時間だったせいか、店内には50代くらいの大将と女将さん、そして彼らの娘らしき中学生くらいの女の子がいるだけだった。女の子は店の隅で宿題に向かっていたが、わたしたちが入ると一瞬だけちらりとこちらを見て、すぐに教科書に戻っていった。
注文した五目チャーハンがわたしの前に置かれる。食欲はなかったが、木田くんが「宿は素泊まりですから」と言っていたので、とりあえず何かお腹に入れておこうと思ったのだ。
「この餃子、最高ですよ。三恵さんもどうぞ」
彼はわたしの前に餃子を置き、すぐに「大将、餃子もう一皿お願いします!」と、厨房に向かって声を張り上げた。底なし沼のような彼の胃袋に、私はただ呆れるばかりだ。
「あんたたち、どっから来たんだい?」
焼きたての餃子をテーブルに置きながら、大将が不意に尋ねてきた。
「東京からです。電車とバスを乗り継いで来ました」
熱々の餃子を頬張っている木田くんの代わりに、わたしが答える。
「それは大変だったねえ。あまりに田舎だから、びっくりしたんじゃない?」
エプロン姿の女将さんが、空になったコップに冷たい水を注ぎながら言った。私は笑顔で曖昧に返事をして、その水を受け取った。
「こんな辺鄙な場所、何の用があって来たんだい?」
再び大将が尋ねた。今度は餃子を飲み込み終わった木田くんが答える。
「取材なんです。そうだ大将、商店街を少し下ったところに住んでいた野口亜紀さんって、ご存知ですか?」
木田くんが亜紀の名前を出した瞬間、大将と女将さんの動きが止まり、彼らの表情が硬直した気がした。さっきまでの和やかな雰囲気は消え去って、代わりに沈黙が広がる。
ガタン、と音を立てて娘が急に立ち上がった。教科書とノートをかき集めると、無言で「従業員専用」と書かれたドアの向こうに消えていく。
「あのぅ、亜紀さん、知ってますか?」
どんな時でも空気を読まない木田くんが、さらに尋ねる。
「……ああ、ハズレの家にいた子」
木田くんはラーメンを啜りながら頷いた。
「そうです。町
大将は踵を返し、つぶやくように言った。
「……何回かここに食べに来たけど、最近は見ないね。東京に戻ったんじゃないのかい?」
木田くんはへへへと笑い、その質問には答えなかった。そして、わたしたちは無言で視線を交わした。なんだろう、様子がおかしい。
亜紀を最後に見かけたのはいつか聞こうとしたとき、店の入口が勢いよく開いて、作業服姿の男性3人が、賑やかに話しながら入ってきた。
「まいど!」
大将が声を張り上げる。
「おう、大将! いつもので」
どうやら常連のようだ。木田くんが小声で「この人たちにも聞いてみますか?」と言ったが、こちらが話しかける前に、常連客の一人が楽しげに声をかけてきた。
「おや、見かけない顔だね。旅の人かい?」
わたしは挨拶をしようと口を開きかけたが、先に大将が厨房から声を張り上げた。
「この人たちは、ハズレの家の子を取材しに来たんだ」
その瞬間、再び店内の空気が張り詰めた気がした。さっきまでの彼らの楽しそうな雰囲気は消え去り、どこか探るような目でわたしたちを見つめる。しばらくして、最初に声をかけた男が「へぇ……そうなんかい」と呟いたのを合図に、3人はわたしたちに背を向けるように、隅のテーブルに座った。彼らの背中からは、話しかけるなと言わんばかりの冷たさが漂っていた。
結局、店内の誰とも、それ以上言葉を交わすことはできなかった。
「なんか、急に変な雰囲気になりましたね」
お会計を済ませて店を出ると、木田くんが呟いた。
「そうね。亜紀のこと、あまり話したくないみたいだった」
亜紀は、移住後の最初の動画で「地元の人たちと交流したい」と話していた子だ。一緒に飲みに行ったときも、初対面の店主とお酒の話題で盛り上がり、一品料理をサービスしてもらったこともあった。そんな亜紀の話題に、町の人が口を閉ざすなんて……あり得るのだろうか。
わたしたちは歩きながら、アーチ看板のところまで戻ってきた。太陽はまだ出ているのに、人通りは相変わらずない。木田くんがスマホを取り出しながら言った。
「まぁ、明日また戻ってきて聞き込みしましょう。宿は送迎付きなんで、今、電話して呼びますね」
その時、あたりを見回しながらこちらへ近づいてくる人影に気がついた。さっき、食堂の隅で宿題をしていたあの中学生だ。まだ幼さが残る顔が不安のあまり歪んで、今にも泣き出しそうに見える。
「あの……」
その娘はわたしたちの前まで来ると、眉間にしわを寄せ、眉尻を下げて、一段と怯えたような表情を浮かべた。瞳だけが強い意思を持って、何かを伝えようとしているようだった。
「どうしたの?」
彼女が話しやすいように、わたしは笑顔で問いかけた。娘は唇を開いたが、言葉は出てこない。
「あの、わたし……」
ようやく声を発した瞬間、後ろから「あれ、あゆみちゃんじゃないか」という声が響いた。あゆみと呼ばれた彼女は、驚いたように振り返る。
「あ、中村のおじちゃんとおばちゃん」
驚いたことに、さっきまでの怯えた様子を抑え込んで、彼女は夫婦に手を振って応えた。
「なんでもない。店のお客さんが忘れ物したから、追っかけて来ただけ」
――彼女が嘘をついた。それに気づいたわたしは、とっさに自分の名刺を二つ折りにして手の中に隠し持った。
あゆみちゃんがこちらに向き直った。中村と呼ばれた夫婦は、今もわたしたちの方を見ている。
「ありがとう。ボールペン、これ一本しか持ってなかったの」
わたしはボールペンを受け取るふりをして、名刺をそっと彼女の手に滑り込ませた。メモを書く余裕はなかったが、彼女ならきっとわかるだろう。
「いやー、ありがとう、きみは、いい子だなぁ」
木田くんが棒読みで言った。こういうときは黙っているように、あとで言っておかないと。
あゆみちゃんはお辞儀をすると、夫婦のほうへ駆け寄っていった。「今から、とみたけさんに食べに行こうと思ってたんだよ。混んでる?」という声が聞こえてきた。
「……連絡、来るといいですね」
木田くんの声に、わたしは深く頷いた。