「うあああああん」
声を上げながら机に突っ伏す一人の令嬢。その令嬢の名前はエリス。エルベラー伯爵家の令嬢で、つい先ほど婚約破棄されたばかりだ。そのエリスの横には、やや癖のある黒髪に端整な顔立ちをした男が、頬杖をついてエリスを眺めている。少したれ目で人懐っこい顔をしたその男は、アメジスト色の目を細めてエリスに言った。
「まーた婚約破棄ですか」
「だって!一途じゃないんだもの!結婚してもお互い恋人がいて構わないだろって平気で言うのよ…、それが嫌だって言ったらじゃあ婚約破棄だって……この国の男はそんな男性ばかりだわ」
顔を上げたエリスは薄い茶色の艶やかな髪を振り乱し、悲し気な顔で翡翠色の瞳を横の男に向けた。成人しているがまだあどけなさの残る可愛らしい顔をしており、男性にとっては庇護欲を駆り立てそうだ。
「たった一人に愛されたい、愛したいって思うのはダメなことなの?どうしてみんなあちこちに目を向けることができるのかしら。そんなにいろんな人と愛し合いたいなら結婚なんてしなければいいのに」
「まぁ、ごもっともな意見ですけど、この国ではそれなりの年齢になったら結婚するのが当たり前ですからね。男性はそれによって地位も待遇も変わってきますし、女性は女性で他者からの見る目が変わりますし」
男の言葉にエリスは少しムッとする。結婚によって人間性が決まるかのようなこの国の制度に納得がいかない。しかも、この国はそんな制度にも関わらず結婚後も恋愛を自由にしていいと認めているのだ。つまり、結婚は愛のためではなく地位や待遇、世間体のためだけにするものなのだ。
「生活を共にしてずっと一緒に過ごしていく相手なのに、愛がないなんて信じられない」
「皆、割り切ってるんでしょうよ。エリス様や旦那様たちのようなご家族はむしろ珍しいですからね」
エリスが愛のある結婚にあこがれるのには理由がある。エリスの両親はこの国には珍しく、恋愛結婚で結婚後もずっとラブラブなのだ。そんな二人を見て育ってきたエリスにとって、両親のように愛のある結婚をしたいと思うのは自然なことだろう。
「あなたはどう思うの、ディル。あなただってもういい年齢でしょう。結婚しててもおかしくない歳なのにまだ結婚していないし、浮いた話も聞かないし」
「俺はこの家にずっと仕えていますからね、死ぬまでそのつもりですよ。別に結婚する気はありませんし、万が一結婚することになったとしても、エリス様の結婚を見届けるまではひとり身でいると決めていますから」
ディルはわけあって幼いころにエリスの父親に拾われたのだが、それ以来、ずっとエルベラ―家に仕えており、エリス専属の従者となっていた。
「私の結婚を見届けるまでって……それまであなたが一人でいるだなんて、プレッシャーだわ」
わなわなと両手を震わせて顔を青くするエリスを、ディルは優しく微笑んで見つめている。
(そんな顔で見ないで……ディルが早く誰かと結婚してくれれば、この気持ちをあきらめることができるのに)
エリスは、ディルに恋をしていた。小さいころからずっと一緒にいて世話をしてくれるディル。従者とはいっても小さいころのエリスにとってはディルは世話好きな兄のような存在で、家族同然だった。
だが、成長するにつれていつの間にかエリスはディルに対して淡い恋心を持つようになっていた。
(ディルが私に対して優しいのも大切に扱ってくれるのも、従者としてだからってことはわかっている。わかっているけど……)
チラ、とディルを横目で見ながら、エリスは心の中でため息をついていた。
人懐っこい性格と端整な見た目のおかげでディルはメイドたちから異常にモテる。モテるディルにエリスはもやもやとした気持ちを抱えていたが、メイドたちにどんなに言い寄られても誘惑されても、ディルは全く興味を示さず、この家のためにならないからと徹底的に排除していった。
(私も早く結婚してしまえばディルへの気持ちが無くなるかと思っていたけれど、うまくいかないものね)
愛のある結婚を望むエリスを、地位や世間体のためだけに結婚すると当たり前のように思っている貴族のご令息たちは疎んじ、すぐに婚約破棄をしてしまう。今回の婚約破棄で実に五回目だった。
エリスの両親は、いつか本当に愛し合える相手が見つかるまで慌てなくてもいいのだと言ってはくれる。だが、エリスはディルへの気持ちをあきらめるためにも早く結婚したかったのだ。
(そのために結婚したいだなんて思うからきっと失敗するんだわ。自業自得ね)
また静かにため息をついてディルを見ると、目が合う。ドキリとして思わず目をそらすと、ディルはくくく、と声を殺して笑っている。そうして、そっとエリスの髪の毛に触れた。
「もしも俺が貴族のご令息でエリス様の婚約者だったら、すぐにでも結婚してエリス様だけを一途に思い続けるんですけどね」
ディルはエリスの髪の毛をひとふさ取って指でいじりながら、艶のある声で優しく囁く。
「な、ななな、なに言ってるの!ディルはそうやってすぐからかうんだから!」
「くっくっくっ、エリス様はちょろすぎますって。気を付けたほうがいいですよ、変な男にひっかかってだまされてしまわないか心配になる」
(もうずっと前から、目の前の男にだまされてる……!)
顔を真っ赤にして抗議の視線を送ると、ディルは嬉しそうに笑った。