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第47話 円と鍵。渺茫たる暗黒


     5.


 鳩原はとはら那覇なはは『円』の前に到着していた。

『円』に恐る恐る近づくと、周囲に変化があった――ような気がした。

 周辺はすごく無機質で、空気に温度は感じられない。乳白色の壁と天井に囲われた空間にいるような、温かくて、だけど何もない空虚。

 空にかかる虹を追いかけていつまでも歩き続けているような、途方もなさ。

 近づいているはずなのに、遠ざかっていくような、そんな感覚だった。

 それでも、気づくと『円』は目の前にあった。

 その深淵からはじっとこちらを見つめているような視線を感じる。

(――これは僕でなくともできることだ)

 と思う。

 僕にできることが、ほかの誰かにできないことはない。

 だけど、今、この瞬間にこれをできるのはきっと自分だけなのだろうと思った。

『鍵』に手を伸ばす。触れるべきかどうか迷ったけど、触れることにした。

『鍵』には温度は感じられず、ただの鉄だ。

 目の前には、『円』が広がっている。

 ここから少しでも手を伸ばせば、その奥に届いてしまうくらいの距離感。

 眼前にあるのはどこまでも続く深淵。どこまでも続く暗黒。

 それが目の前にある。

 そこから視線を感じるが、何かをしてくるというわけではないようだ。

「……よし」

 一度、『円』の向こう側を睨むようにしてから、呟いた。

 目を閉じて、『鍵』の解読を始める。

 できるだけほかの情報を入れたくないからだ。

 そうかからないうちに少しずつ構造は見えてきた。

 この『鍵』は難しいものではない。これは極めてシンプルだ。

 これを手にした人物の理解している具合によって魔法が発動するようになっている。誰にでも使えるようになっているが、使うためには条件を満たさなければならない。

 この魔法の構造は、かなり古いものだ。

 古くて、シンプル。

 必要なものを然るべき場所に配置して行う『儀式』と呼ばれているものに近いと思う。それくらいにはシンプルな構造をしている。


 ――この『鍵』は、西暦後にある価値観が根底にある限りは使い物にならない。もっとも世界そのものの構造に近い理解を深めている必要がある。

 魔法という分野を極めれば、いずれ辿り着くのが『科学』という地平線である。

 魔法は超自然的な現象を人間の手によって『起こす』というものである。いにしえの時代ではそれこそ『儀式』という手段が用いられていた。

 現代でこそ、魔力から魔法を起こす方法がわかりやすいものになっているが、その一方で、その超自然的な現象を突き詰めて考えていくと、遅かれ早かれそれは『科学』という分野に到達することになる。

 その地平線は砂漠のようで、あまりにも茫漠ぼうばくたるものだ。

 砂漠の砂の粒をひとつずつ摘まんで拾い上げていくような、そんな思考が求められる。

 これらが二十万年前の時点では、それほど難しくなかったというのがある。それが感覚的に捉えることができていたからである。時が進むに連れて、あらゆるものに既に価値が与えられるようになってくる。

 万物を理路整然りろせいぜんと並べられても、そこには既にある程度の主観が入っている。

 故に、いにしえの時代のように思考する機会が減っていった。

 ヒュペルボレイオスの文明を生きていた人間たちがそういう考えごとをするのが得意だったというのもある。だからこそ、ヒュペルボレイオス文明を生きた人間は、超自然的な魔法の先にあるというものを理解していた。そして、

 それを理解したヒュペルボレイオス文明の賢人は、空を見た。

 渺茫びょうぼうたる暗黒の中で銀色の輝くものの正体を理解し、そして世界の広さに気づいた。

 その賢者は嘆いた。

 今の自分たちの文明ではあの渺茫たる暗黒に手が届かないことを。


 ――当然だが、こんなことは『鍵』を解読しただけではわからない。

『鍵』を手に取って解読したからといって、こんな背景の一粒としてわかるわけがない。

 それに、鳩原那覇は歴史に対して勉強以上の関心を抱かない少年である。

 鳩原が理解したことは――二十万年前の『鍵』に触れて、これが確かに鉄でできているということくらいである。

 その頃、まだ人類は鉄さえ発掘していない。

 だけど、これが鉄でできている以上はヒュペルボレイオスの文明に存在していた文明人は、鉄を発掘、あるいは作り出していたのだと考えることができる。

 ヒュペルボレイオスの地での文明の営みを感じられる瞬間ではあるが、鳩原那覇は何とも思わなかった。

 だからこそ、『鍵』の解読が手早かったというのはある。

 古過ぎるせいで解読し辛くなっている部分もあるが、およその構造は理解できた。あとはこの『鍵』を『遺物』として成立させている『結び目』を特定するだけだ。

 このとき、鳩原那覇は集中していた。

 目の前にある『円』から圧倒的されるような視線を感じていた。

 だからこそ、彼は気づけなかった。

 すぐ後ろに迫っている魔女の存在に。




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