1.
「――――あ、気がついた」
そんな声がした。鳩原のほうはまだぼんやりとしていた。曖昧な意識のまま、辺りを見回すとここが保健室だと分かった。
ベッドの上に寝かされていて、その傍らにいるのはマスクをつけた人物だった。
「私だよ、わかる?」
「ええっと……」
腰の辺りまである墨汁のような黒髪と、長い
「……
「正解。そうだよ、何があったか憶えてる?」
「ええっと……、ええっと……、あのあと…………」
記憶を振り返る。
確か、オリオンの箒に乗っていたような……。
そのあと、図書館を飛び出した辺りで……その辺りから記憶が曖昧だ。
何があったか思い出せない。
身体をベッドから身体を起こそうとしたら、全身が痛かった。寝かされているけど、服装は『遺物管理区域』に這入ったときと同じだ。制服のあっちこっちが切れていてボロボロになっている。灰まみれの埃まみれだった。
そこまで気づいて、
「うっ……何、この臭いっ」
異臭に気づいて、咄嗟に両手で鼻と口を覆った。
腐った肉のような臭いだった。
だから霞ヶ丘はマスクをしているのか。
「窓の外を見てみて」
霞ヶ丘に言われて、外を見る。
眼前から見えるはずのアラディア魔法学校の敷地内を見て、鳩原はこう言った。
「
「わからない」
霞ヶ丘は即答した。
眼前に広がるのは火災と破壊。
さっきまでいた図書館は影も形も見当たらず、そこを始発として破壊と黒煙の軌跡が続いている。
その先にいる――『何か』が、何なのかわからないものだった。
そこにいるのは、ざっと百メートルを越える肉塊だった。それには四肢とも思えるものが生えていて、それでようやく人型をしているのだとわかる。
悪臭を振りまいているのはあの塊だ。その塊は四つん這いで移動している。
「…………!
霞ヶ丘は首を横に振った。
「オリオンはあのとき助けられたのは鳩原くんだけだって言っていた」
「…………」
鳩原は
彼は見た。
ダンウィッチが『鍵』を手にした瞬間。その周囲三メートルの範囲にあった、ありとあらゆる物質と共に彼女の身体は消滅した。
(なんて呆気ないんだ)
なんて容赦ないんだ。
あの『円』が出現する瞬間の熱みたいなもので、一瞬にして蒸発した。
人類文明は感情の上に成り立っているものだが、あくまで世界を支配しているのは基本法則である。どんな状況にあろうと、基本となる法則は常に平等に生命に降り注ぐ。
科学では奇跡は起こせない。魔法でも奇跡は起こせない。
言葉を詰まらせて、外を見る。
その四つん這いの肉の塊は、全身を引き摺りながら、校舎を破壊して進んでいく。通った跡には真っ黒な粘液に塗れた肉片や骨細工に臓器が散らばっている。
加えて、粘り気のある黒い油状の液体が溢れ出している。まるで
(これは、何が起きている?)
わからない。
わからないけど、これがあの『鍵』に関することで起きているのだということはわかる。
あのときに出現した『円』。
あれがダンウィッチの言う『門』だったのだろうか?
(ダンウィッチが成功したのか失敗したのか)
『円』の出現時に起きた『消滅』は、あくまでこちらから見れば『消滅』だが、もしかしたらあの三メートルほどの範囲内にいることが『門』に潜るための条件だったかもしれない。
ダンウィッチは今――『門』の奥に突き進んでいるかもしれない。
だけど。
『鍵』は、宙に留まったままだった。
ダンウィッチは、ただ『門』を潜るのではなく、あの『鍵』を持ち帰らなければならないはずだ。
とても成功したとは思えない。
(だから、恐らく……)
ダンウィッチは助かっていなくて、あのときに消滅している。
なんというか。残念だな。
ダンウィッチの夢、それに届くための第一歩。
それが、こんなことになるなんて……。
「大丈夫? やっぱり寝てたほうがいいよ」
よほど暗い顔をしていたんだろう。
「いえ」
ぱちん――と両手で顔を叩く。
「……よし。大丈夫です」
ひとまずは切り替える。
どこからでも目視で確認できるほどの、その肉の塊を見上げる。
(……沼みたいな塊が這っている)
これの見た目はあまりにも
これから、ダンウィッチの『泡』に似たものを感じる。
「霞ヶ丘さん、僕はどれくらい気を失っていたんですか?」
「一時間くらいね」
窓の外には
避難誘導をしている。
「私たちは今、あれは『
建造物を薙ぎ倒しながら進んでいる肉塊を指して言った。
「……『
霞ヶ丘の言葉を繰り返した。
「この一時間のあいだに何が起きたんですか?」
そこから聞いたのは、鳩原が一時間ほど意識を失っているあいだの出来事だった。
図書館全体を巨大な泡が包み込んだ。
その後、その泡は破裂し、内側からどす黒い粘液の塊が出現した。
それは軟体動物のように動き始めて、次第にその体躯は肥大化して、今に至る。
「そろそろ僕も話に混ぜてもらってもいいかな?」
と、ひと通りの話を聞き終わったとき、別の声がした。
保健室の外側からそんな声が聞こえた。
生徒会長・ウッドロイ・フォーチュンだった。