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第35話 魔女に与える鉄槌(1)


     4.


 ダンウィッチの手元にあるのは、一冊の古ぼけた書物だった。

 彼女はこちらの世界で生きていないので、魔法を使うという技術を学んでいない。それでも――魔法学校の図書館に一ヶ月以上通い続けて、魔法使いたちと交流し、図書館で自習をしてきたダンウィッチは魔法についての基本的なところを理解していた。

 魔法――超自然的な現象を引き起こすためには魔力が必要である。

 しかし、ダンウィッチは自分の内側から魔力を出力することはできない。

 その部分だけを切り取れば、鳩原はとはらと同じように『魔法が使えない』ということだが、ダンウィッチの場合はそもそも魔力を生成できない。

 なので、鳩原がさっき『栄光の手アルベール』でしたような真似はできない。

『遺物』にしても霞ヶ丘かすみがおかの『児童文学型模倣術式ロングロングアゴーズ』にしても、あらかじめ回路が組み上げられていて、そこに魔力を送り込んで巡らせることで魔法という超自然的な現象を引き起こしている。

 魔力を生成できないダンウィッチが『遺物』を手にしたところで、何もできない。

 そのことを彼女も正確に理解している。

 だが、同時に――魔力というものはエネルギー体であることを理解していた。魔力そのものが持つエネルギーとしての性質は生命力や活力などと質量を持つ力学的な側面をあわせ持っている。

 魔力はともかく、瘴気しょうきはわかりやすい。

 瘴気は魔法を使った際に発生したり、魔力が荒廃することで発生したりする。それが空気中に滞留たいりゅうして、『遺物管理区域』に充満していることからして、物質としての性質があることがわかる。

 細かいことはどうでもいい。

 本来は物質としては扱いづらい魔力が、瘴気になると物質としての性質を持つこと。それでいて、荒廃していても魔力は魔力であること。

 この二点がダンウィッチにとって、重要だった。

 ダンウィッチは大気中にある瘴気を、その極彩色の泡で包み込んで、手元にある『遺物』に与えた。

 魔力を送り込んだ。

 不純物の多い粗悪なエネルギーは燃焼効率が悪い。それでも燃えるには燃える。

 ダンウィッチの手元にある書物は――『遺物』は作動した。

「…………!」

 オリオン・サイダーは近づいてくるダンウィッチの存在に気づいていなかった。

 だけど、感じた。

 足音を消しても、気配を消しても、動作を消しても――魔力ばかりは消せない。

 ましてや魔法なんてものに欠片も馴染みのないダンウィッチの使った魔法だ。

 その魔力の動きによる異変を、いち早く感知したオリオンは――杖をその感じたほうに差し向けた。

 オリオンとダンウィッチの目が合う。

 杖の先端に魔力が込められて、放たれるまでにかかる時間はほんの一瞬である。


 使


「ぐっ……」

 オリオンが呻き声をあげた。

 このとき、ダンウィッチが手にしていたのは、『鉄槌てっつい』という『遺物』だった。

 魔力に感知して、その魔力の対象者の首を絞めるという作用を引き起こす。これは魔女を処刑する際にあらがおうと魔法を行使した者を問答無用で

 十五世紀から十八世紀に『魔女狩りの時代』に大きな影響を与えた『遺物』である。これには魔女に関する知識と、魔女裁判を都合よくただしく行うための方法が記されている。

『魔女狩りの時代』の最盛期であった十六世紀頃にこの『遺物』に記された魔女裁判が実行された。その方法通りに行ったとき、もし――本当に魔法使いが紛れ込んでいたとき、魔法を使って抵抗する可能性がある。

 魔法が使えない審問官でも遂行できるようにこの『遺物』には魔法が組み込まれている。

 最低限の魔力を込めながら魔法使いを殺す。その最低限度の魔力で発動する魔法。

 そうして多くの無実の人間を処刑に追いやった。


鉄槌Malleus Maleficarum』――それが、魔力に感知して首を締め上げる魔法。


 最盛期には多くの人間を処刑した『遺物』ではあるが、こんな中央フロア付近に何冊も保管されているのは、ゆえである。

 オリオンは見えない縄で首を絞め上げられた。

 差し向けていた杖の照準は外れる。

 杖の先端から放たれた魔力はまったく別方向の床を撃った。

「――――」

 ダンウィッチは一気に間合いを詰める。

 ひと息でオリオンを制圧しようとした行動だった。

 だが、距離を詰めて――懐に飛び込んだときには、既に『鉄槌』は解除されていた。

「…………っ⁉」

 ダンウィッチの腕が掴まれた。

 そのまま軽やかに放り投げられて、ダンウィッチの身体は周辺にあった本棚に衝突した。そのまま諸共もろとも倒れていく。

 当然だが、ダンウィッチが『遺物』の魔法を解除したわけではない。

『鉄槌』は有名な『遺物』である。

 その対策は『魔力を発生させないこと』である。この『遺物』が用いられたのは『逃れられない状態』になってからである。

『鉄槌』が猛威を振るったのは、『――だ。

『鉄槌』は魔力の反応が途絶えると、魔法が停止するようになっている。

 持続時間の短さ――というよりも、首を締め上げて殺すという性質は、魔女狩りに関する指南書しなんしょであると同時に『魔女に仕立て上げた人物を確実に殺害する』ように用意されている魔法である。

 瞬殺が想定されている。

 それでいて、戦闘は想定されていない。

 出力しようとしていた魔力を感知されているのだから、それを一度、やめればいい。ただそれだけで『鉄槌』の対策になる。

 魔力を感知できていないのだから、現象を起こすことができない。

「…………」

 と、放り投げられたダンウィッチは立ち上がった。

 さっきまで持っていた『鉄槌』はもう手元にない。

 オリオンのほうを向き直すことはせず走った。中央フロアからほかの区画に伸びている廊下に向かって。

 泡にまみれた床の上を滑りながら移動する。

 たん! とオリオンは床を蹴った。

(逃げる? いえ、何か狙いがあるみたいね)

 たたん、と更に加速するオリオン。

 先ほどの消火で広がった泡と炎が行き届いていない区画である。中央フロアを外れると泡もほとんどない。前方をダンウィッチが走っていた。

 オリオンは魔力を放出しながらその勢いで追いかける。

 ダンウィッチには何か狙いがあることは既に察している。その目的が何であれ――止めればいい。

 オリオンはダンウィッチのすぐ傍らにまで距離を詰めて、そのまま腕を掴んだ。

 ぐいっ――と、踊るように引き寄せて、そのダンウィッチの顔面に手のひらが差し出されていた。

 ――――ゴッッ‼ と至近距離で魔力放出を受ける。

 ダンウィッチの身体は頭を軸に一回転してそのまま数メートル床の上を転がっていく。

 やり過ぎたと思わなくもなかった。

(……あり得ないわね)

 だけど、普通なら首から捩じ切れておかしくないはずなのに、ダンウィッチは床の上にあおけに倒れて、呼吸をしていた。

 落ち着いて考える。

 そんなあり得ないことが起きたからには、『何か』したはずだ。

(何かで防いだ……?)

 魔力を放出した瞬間に、少し違った手応えがあった。


「――――『■■■■』」


 ずたずたになって仰向けに倒れているダンウィッチは吐息混じりに呟いた。

 オリオンは、それを何と言っているのか聞き取ることができなかった。

 周囲に変化が起きる。

 ダンウィッチの指先には玉虫色の禍々まがまがしい泡があった。

 ぼこぼこぼこぼ――と周囲の空気が一変する。

 ダンウィッチの指先の『泡』がひとつからふたつに、ふたつが四つに、その泡から泡が出現していく。増殖していく。

 中央フロアを占拠せんきょしていた優しい色の泡ではない。

 禍々しい玉虫色。

 極彩色の泡の回折かいせつじまが、周囲を満たしていく。

「…………これは」

 オリオンは無意識に一歩だけ後退りしていた。

 指数関数的に増殖を繰り返していく極彩色の泡は、ダンウィッチに集まっていく。

 泡がいくつも集まると触腕を形成した。

 軟体なんたい動物のような動きをしていて、注連縄しめなわのように極太の触腕。表面はワニのような鱗で覆われていて、緑色やピンクなどの斑紋はんもんがあり、それが水の上に垂らした灯油のようにうごめいている。

(なんだこれは……魔力を感じない?)

 あれは……何?

 わからないものが、そこにある。

(……ハウスさんがやられたのを変だとは思っていた)

 先月、侵入者騒動があったとき、間違いなくハウス・スチュワードは現場に駆けつけている。それでいて、返り討ちにされている。

(ダンウィッチ・ダンバース――)

 オリオンは思考する。

(彼女から魔法使いの癖が感じられない)

 それはつまり、魔法使いではないということ。


 だったら何だ? あの存在は何者だ。


 結局のところ、そこに帰結きけつする。

 わからない。

 そんなとき、ダンウィッチをじっと見つめて、ふと考えたとき、

(あっ――)

 と思った。


 ずきん……。


 オリオンは握りこぶしで自分の側頭部を小突いた。

 痛み……。

 これは気づいてはいけないものだ。

 この頭痛は、知性による生存本能だ――と感じた。


 一年前。

 フレデリック・ピッキンギル先生の授業で聞いた言葉を思い出す。

 あのとき、手を挙げて質問をした。その質問への返答を思い出す。

『人間は考えることをやめられない。無意識であろうと、常に思考を続ける生き物だ。一度でも目が合ってしまえば、もはや、どうすることもできない』――。

 考えてはいけない。

 そういうものが存在するということ。

 だけど、人間は潜在意識で思考を進めてしまう。

 その先にあるのが、何なのか。

 フレデリック・ピッキンギル先生は天使や悪魔、あるいは神という表現を駆使していた。

 許容量を超えていけない。

(いいや……これ以上、わかっちゃいけない)

 そうなる前に。

 気づいてしまう前に――止める。



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