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第34話 遺物管理区域(3)


     3.


(違う――これは違う……)

 鳩原はとはらは棚と棚の隙間から飛び出してきた。

 暗闇の中で燃え盛る炎を見て、眼球が焼きつくようだった。

(なんてことだ……、なんということだ……)

 あのとき――階段を降りてくるとき、の手癖の悪さをしっかりと認識していた。

 それは別に気にしていなかった。

 霞ヶ丘かすみがおかからそういう手癖の悪さがあることを聞いていたからだ。

 フロア全体の消灯を行って、鳩原がオリオンを引きつけているあいだにダンウィッチが『鍵』を見つける。

 そういう手筈だった。

 鳩原の行った時間稼ぎの方法は、魔法を使えずに生きてきた彼らしい作戦だった。

 なのに。

(――!)

 オリオン・サイダーが駆けつけてきたとき、ダンウィッチはあの場所にいなかった。

 この中央フロアを真っ暗になってからだ。

 ダンウィッチはこの中央フロアに戻ってきたんだ。

 ひっそりと、缶状の容器をひっくり返す。

 そして――マッチ箱から取り出したマッチにすべて火が点けられ、それはめらめらと燃える炎として宙にばら撒かれた。


 暗黒の中で明滅めいめつする炎。

 その炎が鳩原の意識を、覚まさせる。

 オリオンが鳩原に対して抱いた印象の通り――彼はこんな攻撃的な方法を好まない。

 鳩原はまったくの優等生というわけではない。魔法を使った校則違反や、または暴力に発展しそうな使い方をしたこともある。

 それでもこんな――命の取り合いみたいなことはしたことがない。

 こんな、歴史的な文献ぶんけんが多く保管されている場所に炎を撒くような真似は、鳩原からは出てこない発想だ。


 この発想は――あらゆる物資が不足している戦場で、なりふり構わずに敵を殺しながら生き延びてきた者だからこその発想である。


 人間の生き死にを直接に感じることなく、生きている人間から出てくる発想の範疇はんちゅうを越えている。

 相手を出し抜くようなやり方は確かに鳩原のものだが、それを『戦争』という形に仕上げたのはダンウィッチだ。

 ダンウィッチは図書館に入館したとき、本の素晴らしさに感嘆かんたんし、学校を見てその文化に感動している様子だった。

(それなのにこんなことをするのか……?)

 信じられない……と、鳩原は思った。

 だけど、違う。

 彼女にとって、そうではない。

 生と死。それより優先するべきことは、ない。


 直後に起きたのは、まるで爆発だった。

 たっぷりの燃料に放たれた火は圧倒的な熱量と火力で燃え広がり、古紙同然の歴史的資料に燃え広がっていく。

(こんなのは……こんなことは――)

 この炎を見て、ふと我に返った。

 誰かの忠告が脳内に響く。

『消せない火を扱うべきではない』――。

 これは霞ヶ丘かすみがおかの言葉だ。

 決してこの惨状さんじょうを予見した言葉ではなく、あくまで比喩ひゆ的に『ダンウィッチ・ダンバース』という少女の持つ危険性を告げていたのだろうとけど、脳内で反芻はんすうされるその言葉は、重たいものだった。

 中央フロアで燃え盛る炎は、着実に広がっていく。

 煙が換気されていない空間に充満していく。

 このままでは地上に戻れず、焼かれて死ぬか、蒸し焼きになるか――だ。

「だ、ん、……」

「気を抜かないでください!」

 ダンウィッチはそう叫んだ。


!」


『かちん』――という音が聞こえた。

 すると、炎の中から液体がき出した。

 ズザザザザザザザ――ッッ! と洪水こうずいとも言える量の液体だった。それはそれなりに離れた位置にいる鳩原の元にまで流れてきた。

 それは、よく見ると細かい泡だった。

 ダンウィッチが扱うような『極彩色の泡』ではなく、お風呂で身体を洗うときに見るような泡だった。

 その半透明の白い泡は中央フロアから全体に拡がっていく。

 その泡が炎をつぶして消していく。

「泡による消火、ですわ」

 火が消えていく――その奥から、泡まみれになったオリオンの姿が現した。

「地下空間であぶら火災が起きたとき、水による消火は困難。火災拡大の防止として効果的だとされているのが泡による消火活動。この泡の原料はシャンプーとかと一緒ですわよ」

 周囲にあふれている泡を手のひらですくいながら、嘆息するように説明をするオリオン。

「燃焼面を液体でおおうことで消火を行い、その液体が泡として展開し、同時に積み重ねる層を形成することで燃焼物を覆い空気の供給きょうきゅう遮断しゃだんさせ、火を窒息させる。泡に含まれた水分による冷却効果が加わることで窒息と冷却の相乗そうじょう効果で消火が行われる――」

 オリオンは退屈そうに説明した。

「――泡による消火原理。防災訓練で習いましたでしょう?」

 泡はあっという間に中央フロア全体に拡がって、ほとんどの火が消えた。

 周囲にはくすぶっている火もあるが、すぐに消えるだろう。

「これは、なんと言いますか……」

 煙が充満していて煙たい。

 泡と煙で視界がさえぎられているのに、オリオンは鳩原のほうを見た。

 作り物ではない彼女の笑っている表情を始めて見た。それはたとえ苦笑いだとしても。

 火災の中心にいたというのに、目立った外傷は見当たらない。全身が泡だらけになっているくらいだ。

「……ちょっと、これはいくらなんでもやり過ぎじゃないかしら?」

 オリオンの声が強張こわばっている。

 言葉こそ丁寧でいつも通りだが、怒りが込められているのは、鳩原にもわかった。

「わたくし――鳩原さんがやろうとしていることがわかりませんわ。どうしてこんな真似をしているのか。こんなことをして、いったい何か意味はあるんですか?」

「…………」

 それは、少し揺らぎかけていた気持ちだった。

 何も言わない――のではなく、何も言えなかった。

 自分がどうしてこんなことをしているのか。

 そう聞かれると、言われるとわからない。

 ダンウィッチのためだとは思うが、そんなのは鳩原がしなくてもいいことだ。

 自分がしていることに意味がない。

 意味を見つけられていない。こんな惨状にしたかったわけではない。

 誰かの命をおびやかすような真似をしたかったわけでもないし、歴史的に貴重な書類の数々に火を放ちたかったわけでもない。その多くが火を放って燃え尽きないような『遺物』であっても、だ。

 したかったわけではないのに――なのに。

 自分は何をしようとしていたんだ?

(僕は何をしたくて、何がしたくて――)

 何者かになりたくて、何者かになろうとして……それで?

 それで? それで?

(そんな気持ちに応えられる瞬間があったから、ただそれに乗じただけで……)

 ダンウィッチとの会話を思い出す。

 あの廃村でした会話、この上にある図書館でした会話。

 どうにかダンウィッチのせいにしようかと考えた。でも、見つからなかった。

 そうして、鳩原は気づく。思い出す。

 ダンウィッチを初めて図書館に案内したときにオリオンから言われた言葉、それから一週間後にオリオンの言葉。

(ああ、そうか……)

 オリオン・サイダーのことが気に入らなかったんだ。

 だからムキになってしたんだ。

「はは……」

 一気に馬鹿らしくなって、笑ってしまった。

 失笑だ。

「鳩原さん」

 オリオンはこちらを見ている。

 液体で濡れた後ろ髪を搾りながら、

「人の怒りの底には悲しみがあると言いますわ」

 哀れむような表情でこう言った。


「これがあなたの悲しみの結果なのですね」


「…………は?」

 一瞬で鳩原は真顔になった。

(今、こいつはなんて言った?)

 怒り? 悲しみだって?

(な――にを……!)

 それは、鳩原にとって触れていけない逆鱗げきりんだった。

 冷え切っていた感情の奥深くから、ぐつぐつと込み上げてくる感覚があった。

 怒りを抑えるには六秒耐えろと言うが、そんな豆知識を思い出す余裕は鳩原になかった。どうしてそれが気にさわったのかあまり自覚はないけど――人のことを知ったようなことを言う口ぶりが頭にきた。

(こいつは何を――)

 何を、知ったようなことを……!

「動かないで」

 杖をこちらに向けられて、身体は止まる。

 これは銃口を突きつけられているに等しい。あの日の夜――ハウス・スチュワードは自身の命の危機にひんしても魔法による自己防衛を行わなかった。

 魔法による暴力行為は許される行為ではないが、言い分をんでもらえる行為だ。

 今、鳩原は『遺物管理区域』に火を放った実行犯のひとりである。

 ハウスとは違って、オリオンは小人こびとたちを撃ち殺したときのように、あるいは切り殺したときのように、いざというとき、人を殺せる人間である。

「…………。……魔女さんはどちらに?」

 薄暗い地下空間で少しだけ眼球を動かしてから、オリオンはそう言った。

 そういえば、さっき――泡による消火の直前に、鳩原に対して警告をうながしてからダンウィッチは姿を見せていない。


 オリオン・サイダーの勘は鋭かった。

 このとき、ダンウィッチは足音と気配を消して、オリオンからそう離れていない二メートルくらいの位置にいた。

 彼女の手元には、さっきの火災で燃えていない、一冊の古ぼけた本が開かれていた。



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