1.
「――おはよう、
その日の朝はいつもより起きるのが遅かった。まだ少し眠いままに朝の
声をかけられたので振り向く。
腰の辺りまである
「ああ……、おはようございます。先輩」
それが後ろから走ってきて隣に並んだ人物の名前である。
「いやだわ、私はもう先輩じゃないんだから。敬語も敬称も不要よ、何なら親しく『ゆかりちゃん』と呼んでくれてもいいんだから」
「……霞ヶ丘さん」
それはきっぱりと拒絶する。
この人とは気が合うし、仲良くさせてもらっているけど、明確に注意するべき人物だと思っている。距離感は
「それは距離を感じるわ」
「そりゃあ距離も取るでしょ。あんな奇行を見せつけられたら」
この人は、ついこのあいだまでエリート街道を歩んでいた。
なのに、それをわざと脱線した。
本当は三年生に進級しているはずなのに、鳩原と同じ二年生なのはそういうことだ。
アラディア魔法学校には
この格差は貴族階級の学校が一般入試を始めたことで生じたものだが、その以前にもこの差別に似たものはあった。
『貴族階級だけどその
鳩原などの魔法の文化が違う東洋人で、なおかつ一般入試の枠は特にそういう差別の対象になりやすい。
鳩原はどうにかそのどちらにも属さない平均的な立場でいられているが、いつ踏み外してもおかしくない、危うい状況にある。
どうにか現状を維持するために毎日復習と予習を眠る前と朝起きてから学校に行くまでやっている。
霞ヶ丘ゆかりは一般入試の枠にも関わらず、その優秀さでエリート街道を歩んでいた――というのに、『この学校のやり方に不満がある』と、いきなりボイコットをやり始めた。
彼女に対する学校からの評価は見る見るうちに下がり始めた。
一年生と二年生という学年の
もちろん、留年する生徒なんてほとんどいないこの学校(留年する多くの生徒が自主退学をするから)では、
別にそういう区分があるというわけではないが、学校や同級生からの扱いが変わる。
友達だと思っていた人物が話をしてくれなくなったり、課題の量が増えたり、受ける授業の数が増えたり、受けようと思っていた資格試験を受けられなくなったり――と。
そこまでの仕打ちを受けてもなお学校に残っている生徒は『退学なんて家柄として認めてもらえない者』や、『ただただ卒業するためだけに残っている者』くらいである。
霞ヶ丘ゆかりの意図はわからない。
その真意は計り知れないが、ある程度の距離を保った関係を続けないと、こちらまでどんなことになるかわからない。
「……おっと、鳩原くん。危ないよ」
霞ヶ丘に肩を叩かれて、横に避ける。
鳩原のすぐ
移動手段としての箒はいささか古いが、まだまだこの学校ではメジャーである。
『法定魔法飛行高度』という法律が存在するので、大昔のように大空を飛ぶ魔法使いのイメージからは少し離れてしまう。
「霞ヶ丘さんは免許を取らないんですか?」
「どっちの? 自動車免許? それとも魔法運転免許?」
「どっちも取れますよね」
魔法運転免許には段階がある。
たとえば、中学を卒業していれば第一段階は取得が可能である。それがあれば一メートルから二メートルの高さで、十五キロから二十キロ以内の速度であれば飛行可能である。
その速度……、ほとんど自転車と変わらないじゃん……。
「自動車免許はこの学校にいるあいだには難しいわね。ドロップアウトしたし、時間は取れないから卒業して日本に戻ったら取ろうと思うわ」
「魔法運転免許のほうは?」
「取れるだけ取ってあるわよ」
霞ヶ丘は胸の内ポケットから学生手帳を取り出した。
そこに収められている免許証をこちらに見せた。
「ほら、第一種魔法運転免許証。飛行訓練の授業で試験を受けるって言ったら受けさせてくれて、それで通ったのよ」
「へえ、すごいですね」
「
第一種があれば、十五メートルの高さまで飛べて、最高速度八十キロまで出せる。
「まあ、私の技術じゃそこまで飛べないから持て余すけどね。こんなのは身分証みたいなものよ」
あはは……と、霞ヶ丘は苦笑するようにして生徒手帳を胸の内ポケットに戻した。
鳩原が魔法を使えないのは、魔力の出力があまりにも弱いからである。
一方で、霞ヶ丘は普通に魔法を使えるが、魔力のコストパフォーマンスが悪い。当人は上手いことやりくりしながら誤魔化しているが、苦労していることを鳩原も知っている。
喋っているうちに本館に到着した。
大きな黒板があって、そこには時間割の変更や学校行事などが書かれてある。チョークがひとりでに動いて文字を書き込んでいく様子などもたまに見かけることがある。その日のランチのメニューも書かれているので一応は目を通す。
その中で目を引くものがあった。
『夜間に侵入者。戸締り注意』
「…………」
「どうしたの? 何か
覗き込むようにこちらの目をじっと見て、霞ヶ丘は言う。
「いえ、別に? どうしてですか?」
「んー、なんとなく。勘だよ」
「なんですかそれ」
「なんとなくそう思っただけよ。でも、そうだね。なんで私ったらそう思ったんだろうねー」
この人はこういうことをやる。
まるで『自分は既に気づいていますよ』というような態度だ。こちらが隠していることを探ろうとするときに霞ヶ丘がしてくる手口だ。
これのいやらしいところは、本当にわかっているときにも同じ態度を取るというところだ。
「…………」
どうしようかと迷ったが、何も言わないことにした。
目を逸らして、周りにいる生徒をざらっと見る。知っている顔もいれば、知らない顔もいる。
「……鳩原くん、ちょっと疲れてるでしょ」
話題が変わったのだろうか。
あるいは、探り方を変えたのだろうか。どちらにしても
「そうですか?」
と、とぼけてみた。
「眠そうだし、勉強のし過ぎじゃないの?」
「ドロップアウトの課題と補習に比べたらなにってことはしてないですよ。僕のやってる勉強なんて、僕が勝手にやりたくてやってることですし」
「……鳩原くんの勤勉なところを私は評価しているよ。少しばかり気になるのはきみの自己評価の低さかな。いや、まあ、それはきみが悪いわけじゃないか」
霞ヶ丘の目の色が一瞬だけ変わった。
ぞわりと、何か敵を探すような気配だった。
「きみは常に学年一番の成績を保持しているような生徒なのにね。私は鳩原くんの今の待遇は気に入らないよ」
「僕の待遇がですか?」
『どうしてそんなことを霞ヶ丘さんが気にするんですか』――とは言わなかった。
それに『常に学年一番』というのも正しくない。一年生の最初はそうじゃなかったから。
「魔法が使えないってだけで、ドロップアウトのギリギリの位置に置かれているのは納得できないね。真面目にやっている奴が
「学校というものは
いつの間にか、ふたりの後ろに立っている人がいた。
細身で背の高い好青年、気品高い立ち振る舞いで、
彼の名前はウッドロイ・フォーチュン。
アラディア魔法学校の生徒会長である。