祝言から僅か三か月後。
中小法霊武門の連合軍が欒山を襲撃した。
「二人は大丈夫だったの……?」
杏花の声が震える。
慈雨源郷の景色はこんなにも美しいというのに、外では恐ろしいことが始まろうとしている。
「若蓉と扶光の姿はなく、その代わりに、欒岩宮の門にとても古い人骨が服を着させられた状態で安置されていたそうだ」
瑞雲は妻の背に触れ、前をまっすぐ見ながら言った。
第一報を聞きすぐに兵を率いて駆け付けた如昴からの話では、「服は善行旌表で見た、霓宗主のものだった」と。
「すでに連合軍も立ち去ってはいたものの、その足跡が向かっている先はおそらく……」
瑞雲は杏花を見つめ、告げた。
「若蓉達が一時的に隠れていたという、山寺。『祥暁庵』だ」
「助けに行かなくちゃ!」
「今、雷氏と静氏が探っている」
「それじゃ間に合わないよ。すぐに行ってあげないと、このままじゃ……、このままじゃ、若蓉が壊れてしまう」
「そういうと思ったから、止めに来たよ」
門の横に、菫鸞が立っていた。
「どうして? どうして止めるの」
杏花の瞳が光る。
「私にとってあの二人は親友を傷つける存在で、救いたと思わないからだよ」
「でも」と、菫鸞は言葉を続けた。
「その親友が助けたいと望むならば、手を貸してもいい」
悲しそうな笑み。
瑞雲も頷き、微笑んだ。
杏花は菫鸞に駆け寄り、その身体を抱きしめた。
「ありがとう。菫鸞がいれば、一万の兵に勝る」
「あら、私達もいるのだけれど」
茜耀が柔桑と莅月を連れてやってきた。
「みんな……」
杏花は菫鸞から身体を放し、新たに集まってくれた友人達を見つめた。
「今、如昴兄さんが連合軍に追いつこうと必死で向かっている。あの性格じゃ、間に合わないと判断して一人飛んで行ってしまうかもしれない。私達も急ごう」
柔桑の言葉に、全員が頷いた。
「学友組の諸君、大人には相談してくれないのかな」
琅雲が青鸞と共に現れた。
「杏花、落ち着いて聞いてくれ。蒼蓮兄さんから飛鳥玉簡が届いた。扶桑は今、連合軍の兵に取り囲まれている、と」
杏花の瞳が光る。
「だが、心配はいらないと兄さんは書いている。むしろ、傷つけないように気を付ける、と」
杏花の顔が緩んだ。
「扶桑は難攻不落。家族を信じます」
琅雲と青鸞は杏花の表情を見て安堵した。
そして、全員を見つめながら言う。
「四大法霊武門の宗主が紅葉山荘へ集まることになりました。あなた達は急ぎ祥暁庵へ向かい、如昴と合流しなさい。私達も戦況の確認後、すぐに参戦します」
青鸞の力強い瞳が全員を捉え、困ったように微笑んだ。
「あなた達を信じています。だから、私達のことも信じてください」
学友組は二人の宗主に作揖し、「もちろんです」と告げた。
六人は戦闘に適した服に着替え、すぐに空へと飛び立った。
莅月のことは柔桑が抱える。
杏花は梅園を呼ぶと、「青梅、あなたは私達よりも早く飛べる。如昴兄さんの元へ急いで。絶対に守って」と命じた。
青梅は頷き、突風を巻き起こしながら飛んで行った。
「みんな、限界ギリギリまで上昇して!」
杏花に従い、五人は雲の上まで到達した。
杏花は六枚の人形を取り出すと、霊力を込め、呟いた。
「我が求めに応じて召されよ、神速飛翼」
人形は煌めきながら燃え、巨大な隼と成った。
「全員を乗せ、欒山より南へ向かって滑空しなさい。距離が足りなくなったら水平に飛ぶの」
隼がみんなの身体の下に入る。
「目を瞑って掴まって!」
一斉に滑空が始まった。
まともに息が出来ない。
凍てつく鋭い空気が肺を刺す。
それでも、これなら追いつける。
救える。
何度か平行飛行と上昇、滑空を繰り返しながら四時間。
如昴に追いついた。
「如昴兄さん!」
一斉に飛び降り、高度を調節して隊列の先頭へ。
「追いついたか。青梅には斥候に出てもらっている。まだ敵の総勢がまだわからなくてな」
「私達も一緒に……」
杏花が血を吐き出した。
「おい!」
「杏花!」
みんなが空を駆ける。
杏花は瑞雲に支えられながらそれを手で制した。
「式神を出すのに霊力を使っただけ。すぐに回復する。今は急ごう」
杏花は自分の身体と霊仙衣に仙力を纏わせ、口元を拭った。
少しして青梅が戻ってきた。
「戦闘特化の者は多くありませんが、宗主や門下生も兵士に換算すると、その総勢は六十万です」
全員が息をのんだ。
「六十万だと……? そうまでして蝶舞の簪が欲しいのか。愚かにもほどがある」
如昴の義憤は全員同じ。
ただ、全員どこかで感じていた。
いったい、敵は誰なのだろう、と。
「若蓉が簪の力を使えば、大惨事になる。それこそ、どっちが制圧すべき敵なのかわからなくなるよ」
菫鸞が自身の拳を見ながら言った。
「どんな結末になるかはわからない。でも、今出来ることをしなくちゃ、きっと後悔する」
杏花は焦燥を感じながら、飛鳥玉簡を使い、敵の総勢を書いて琅雲に向けて飛ばした。
「見えたぞ。あれが連合軍の殿だ」
如昴を先頭に、学友組は連合軍に近付いて行く。
「大将は誰だ。話をさせろ」
如昴が大きな声で告げた。
すると、殿についている兵一万が一斉に振り返った。
「良家の御子息、御息女方。……お前たちは正義の味方のつもりか?」
矢が放たれた。
「紅梅」
紅梅の梅花結盾と杏花の杏花結盾が矢を弾いて行く。
「我らを阻む者は、それが例え四大法霊武門だとしても関係ない。目障りな敵だ」
兵たちは各武門の伝統武器を構え、襲い掛かってきた。
「若様、ここは私達で食い止めます。皆様と共に前線へお向かい下さい!」
雷氏と静氏の兵達が武器を構えたその時、轟音が響いた。
「私達が道を作る。みんな後ろをついて来て」
菫鸞が一万の兵を正面から撃破していく。
その横を瑞雲が飛び、次々と斬り伏せる。
「お前達、無理はするな!」
如昴が自軍の兵に声をかけ、学友組は菫鸞と瑞雲が作った道を進んでいった。
「紅梅、柔桑と変わって莅月をお願い。あなたなら、それでも結界を張れる」
その後も連合軍の妨害は続いたが、白梅も含めた七人で強行突破していった。
「先頭が見え……」
菫鸞が言葉を失った。
全員でその横に並ぶ。
「ど、どういうこと」
杏花が動揺する。
祥暁庵ですでに始まっていた戦いは、想像していたものとはまるで違った。
「霓氏がこんなにも多くの兵力を有しているなど、聞いたことがない」
視線を感じ、全員がそっちを見た。
「来てくれたんだ。で、どっちの味方なの?」
若蓉が微笑んだ。
「若蓉兄さん……」
その目は以前の気弱で優しい若蓉とは全く違う。
刹那、白い光が横切った。
「かはっ……」
それは柔桑の身体を貫いた。
「柔桑!」
茜耀が急いで抱き留めるも、地上は地獄絵図の戦場。
どこにも安全な場所が無い。
「ほら、義兄上。新しい力をお披露目しなくては」
いつ近付いてきたのか、扶光が柔桑の身体から槍を引き抜いた。
「みんな、見ていてね」
蝶舞の簪が輝き、その光が若蓉の手に移る。
「いくよ」
光は蝶となり柔桑の身体に止まると、体内へと入って行った。
「……う、あ」
「ろ、柔桑……」
柔桑が息を吹き返し、腹に開いていたはずの風穴は綺麗に塞がっていた。
「何をしたの」
茜耀が若蓉を睨みつけた。
「紅珊瑚の鏡を破壊した時に、その怨念と共に能力も吸い取ったんだ。ねぇ、すごい? 杏花」
若蓉は一輪の橙色をした麝香撫子を手に持ち、微笑んだ。
「君の夫と違って、私なら杏花の愛する人達を死から守ってあげられるよ」
杏花の心が砕け、涙が頬を伝う。
瑞雲が杏花の前に立ち、剣を構えた。
「杏花のことを想うのなら、今すぐにその簪を破壊しろ」
すると、扶光は若蓉の隣に立ち、嗤った。
「才能豊かで品行方正。見目麗しく、家柄もいい。そんな素晴らしい霖二公子なら、義兄上に命令しても許されると? 思い上がるなよ」
扶光は嗤笑すると、人形を取り出した。
「杏花、実は私も使えるんだ」
人形がひらひらと戦場へ落ちていく。
「捏涅成兵ノ術」
人形が接した部分の土が盛り上がり、武人の姿になった。
「何百年前かな? 蓬莱から来た陰陽師に教えてもらったんだよね。これは私が応用して作った術。戦場でしか使えないんだ。血を吸った土が原料だから」
扶光は楽しそうに笑いながら、「その陰陽師は蓬莱へ帰れなかったけどね」と言った。
土人形たちは弓を持ち、学友組に向かって放ってきた。
「気を付けろ!」
如昴の声が響く。
「飛んでいては的になる。仕方がない、下で戦うぞ!」
全員で戦場へと身を投じた。
「紅梅、みんなを守りなさい。白梅と青梅は土人形を破壊してきて。一体でも多く」
杏花の瞳が光り、仙力が渦まく。
黒い稲妻が混じる。
瑞雲の後ろから前へ出る杏花を、菫鸞が腕を掴んで止めようとするも、「ごめん、菫鸞」と手をどかされてしまった。
「何がしたいの? 今狙われているのはあなたの大事な義兄上でしょう。わざと煽るようなことして、目的は何」
「すぐにわかるよ」
扶光は微笑むと、杏花にだけ見えるように手を動かした。
次の瞬間、扶光の心臓を、連合軍の誰かが放った弓が貫いた。
「ふー、ぐ、あん?」
身体が地面へ落ちていく。
「扶光!」
若蓉は降下し、扶光の身体を抱きしめた。
「うあ……、うああ!」
若蓉の身体から白い光が立ち昇る。
それはまるで、太陽を撃ち抜く白虹のように。
「霓 若蓉が降りてきたぞ! 蝶舞の簪を奪え!」
戦場は苛烈さを増し、人間の欲望や妬み、嫉み、恨みなどが怨念となって蝶舞の簪に吸われていく。
「全員、死ねばいい」
若蓉の瞳から光が失われ、身体の周りを巡る白い光が白炎へと変化した。
それは旋風のように舞い、連合軍の兵達にまとわりついた。
悲鳴が押し寄せる。
白炎は憑りついた者の霊力を吸い、さらに蔓延していく。
「若蓉兄さん、止めて!」
声が届かないほどの悪意が音となって戦場を覆い尽くす。
土人形たちは主を失っても尚動き続けている。
入り乱れる戦場において、杏花達はあまりに危険な状況だった。
「菫鸞!」
「瑞雲、杏花!」
「如昴!」
「茜耀、柔桑、莅月!」
声が聞こえた。
名を呼ぶ、愛する人達の声。
「兄上達だ!」
四大法霊武門の宗主らが兵を率いり、戦場へと参上した。
「杏花、行こう」
瑞雲の声に頷き、二人で若蓉の元へ走った。
「若蓉兄さん!」
名前を呼ぶ。
連合軍と土人形達が行く手を阻み、声も手も届かない。
「戻っておいで! みんなで一緒に扶桑へ帰ろう。守ってあげるから!」
雪が降り積もるように、灰が舞う。
あたり一面を埋め尽くさんばかりの血を吸い、灰は重く、熱を失っていく。
「誰からも傷つけられないように、私が盾にでも、繭にでもなるから! だから……、お願い、若蓉兄さん」
若蓉は虚ろな瞳でただただ戦場を見つめている。
その腕には愛おしい義弟の遺体を抱きしめながら。
浅はかで愚かな人間たちが、その手に栄光と権力を得るために殺し合っている、凄惨で滑稽な絵巻物でも眺めるように。
「私の声、聞こえてる……? う、あ」
杏花の背に痛みと同時に熱さがはしる。
「杏花!」
瑞雲が杏花の背を斬った敵兵を斬り伏せた。
流れ出す血液は衣に染み込み、重さを増しながら杏花の意識を奪おうとしてくる。
声が出ない。
「杏花!」
瑞雲の身体に倒れ込む。
助けたい、護ってあげたい、ひどい悲しみから救い出してあげたい、と、心から願う友人の名前すら血の混じる僅かな呼吸音に変わってしまう。
それでも杏花は口を動かし、友の名を呼ぶ。
「る、お」
身体が思うように動かなくとも。
「しん、ふぁ……?」
若蓉は目を見開き、手を伸ばした。
しかし、倒れゆく大切な人の元へ行くことはできなかった。
ここは戦場。
間にはいくつもの屍と憎悪、そして狂気が立ちはだかっている。
若蓉の目に弱い光が戻るも、すぐに涙に変わり、その表情には絶望と怒りの炎が満たしていった。
白い火炎が渦高く伸び、空を覆い尽くしていく。
「私を信じてくれた人が……、みんな死んでしまった……」
若蓉の目を闇が支配した。
瑞雲は、血を流しながらも懸命に呼吸を続ける妻を抱き抱えながら、若蓉に視線を向けた。
「もうやめろ! こんなことをして、何になる!」
瑞雲の声が戦場の喧騒の中に響き渡る。
「君はずっと私を疑っていた。いくら杏花が信じようとも」
「それなら何故、杏花の助けを拒むんだ! どうして振り払うような真似をする!」
若蓉は弱々しく微笑むと、白炎を纏った右腕を振り上げた。
「もう、遅いんだよ」
振り下ろされたその腕はまるで、命を刈り取る大鎌のようだった。
波のように地面の上を白炎が滑っていく。
しかし、それは翡翠色の風によって霧散した。
「え……?」
杏花は身体に仙力を纏い、瑞雲に支えてもらいながら立ち上がった。
「もう、誰も殺させない」
何かが弾けるような音がした。
「困るんだよ。それじゃぁ」
若蓉が気絶し、その男の腕の中へと倒れ込んだ。
「なんで生きているの……」
「死んだふり、上手かった?」
扶光は胸から矢を引き抜くと、近くにいた連合軍の兵に突き刺した。
「まあでも、充分かな」
義兄の身体を抱きかかえながら宙に浮く扶光は、口から何かを吐き出し、右手の薬指にはめた。
「これは何でしょう」
赤く輝く金属に、黄色の宝石がはめこまれた指輪が光った。
「琰櫻の……、指輪」
「正解。じゃぁ、予想はつくよね」
扶光は若蓉の髪から簪を優しく引き抜くと、それを右手で握り、破壊した。
蝶舞の簪の怨念や能力が指輪へと吸収されていく。
「はあ、やっとこの時が来た。杏花には悪いけど、封じさせてもらうよ」
土人形が砕け、梅園が杏花の右肩にある杏花紋へと戻って行った。
「式神封じまで出来るのね」
「まあね」
扶光が咳き込み、口から血が流れる。
「おっと、これは失敬。治療しないと」
そう言うと、扶光は右手を戦場へかざした。
「安心して? まだ君達には手を出さないから」
連合軍の兵達が次々と倒れていく。
意識を失っているのかと、琅雲と青鸞が脈を確かめる。
「死んでいる」
琅雲が首を振る。
「こっちもです」
青鸞が扶光を見た。
「霊力を吸っていると思ったんでしょう。違うよ。琰櫻の指輪の力は、他者の命を主のものとすること。私はそうやって病を抑え、千年生きてきたんだ」
扶光は地上へ降り、若蓉の身体をしっかり抱きかかえると、菫鸞を見た。
「君が一番いい」
菫鸞は一瞬で身体の自由を奪われ、扶光の隣へ引き寄せられた。
「菫鸞!」
弟の元へ駆けだそうとする青鸞を、白炎が遮る。
「全員武器を置いて。早くしないと、可愛い菫鸞が死んじゃうよ」
菫鸞の喉元に、浮かんだ槍の穂先が触れる。
全員が武装を解除した。
「次は私がやってあげよう」
白い蝶が舞い、杏花と瑞雲、そして菫鸞以外から霊力を吸いとっていった。
「息苦しいかな? でも、死にはしない。杏花と瑞雲以外、欒山まで下がれ」
青鸞が胸を押さえながら「弟を返せ」と睨みつけた。
「死にたいの?」
扶光の言葉に、琅雲が青鸞の腕を掴んだ。
「あなたが死ねば、菫鸞が戻ってきたときに誰が迎えるのです」
青鸞は唇を噛みながら、皆と共に下山を始めた。
「さぁ、邪魔者はいなくなった」
扶光は微笑み、言った。
「最初から決めていたんだ。この三人を人質にしようってね」
強い風が吹き、雨が降り始めた。
絶望が、音を立てて近づいてくる。
楽しそうに、嗤いながら。