「その物語は事実かもしれないのだな」
昼前、紅葉山荘へ到着し、杏花達三人はすぐに如昴と茜耀と合流すると、歌劇で観たことを話した。
「不老不死の力というのが本当なら、穢された今はどんな力になっているのかしら」
「そもそも不老不死という力が強すぎるよね」
茜耀と菫鸞の意見はもっともだ。
「厄介だな。たしか歌劇では女子の名は灰虹、だったか。通常、『虹』は雄の龍を示す。だが、両親が満足な教養を身に着ける環境になかったとすると、女子に名付けてもおかしくはない。そう考えると、『霓』は雌の龍……。偶然にしては出来過ぎている」
如昴の険しい表情と言葉が、みんなの思考に危機感をもたらす。
「それに、琬琰という名前も。指輪は『琰櫻の指輪』……。これも偶然じゃない気がする」
「私達を正解へ導きたいのかしら。それがどんな得になるというの? 指輪を持つ者にとって」
茜耀の声が耳にこだまする。
杏花は自分の右腕を掴み、自分の中で生まれる不安をどうにか抑えようとした。
瑞雲が杏花の右手に触れる。
「……これは」
瑞雲の目に、杏花の右腕に杏花紋が浮かんでいるのが映った。
それは杏花から仙力を受け取った時の梅園の腕に似ている。
「何でもないよ。万が一のために、練習しているだけだから」
愛おしい人の目に、憂色が浮かぶ。
「これは私の為でもあるし、瑞雲や菫鸞、みんなの為でもある。だから、もう少し自信がもてたら話す」
「……わかった」
瑞雲が切なげに微笑む。
(私の勘が叫んでいる。これじゃ足りない、と)
杏花は瑞雲の手を握った。
「二人とも、どうしたの?」
菫鸞が杏花と瑞雲の顔を覗き込む。
「あら、可愛い子がいる」
「誤魔化さないでよ。親友の表情なんて観察しなくても読める」
菫鸞の真剣な眼差し。
「私の秘密の実験を瑞雲が心配しているだけ」
「秘密の実験? 私も心配した方がいいこと?」
大きく美しい瞳が杏花を真っすぐ見つめる。
「大丈夫。どちらかと言えば、私が健康でいるための実験だから」
「ふうん。怪しいから心配することにする」
「困った子だなぁ」
「それは杏花でしょう」
菫鸞が困ったように笑う。
その笑顔が切なくて、杏花の胸を締め付けた。
如昴が「蒼蓮兄さんの準備が出来たみたいだ」と三人を呼ぶ。
「おやおや、可愛い弟妹達。密談か? お兄ちゃんにも教えなさい」
蒼蓮がみんなを白龍に乗せるために声を掛けに来た。
そして杏花の右袖からのぞく腕に杏花紋を見つけ、「ちょっとだけ妹を借りるね。みんなは先に行ってて」と言った。
全員がその場からいなくなったことを確認した蒼蓮は、杏花の右腕を掴み、袖を捲った。
「杏花。俺を頼る気はないのか」
あの時と同じ表情。
鬼幻祭祀に参加することを告げた時の、兄の顔。
「その場所がどこであれ、二時間以内に呼べる自信がないから」
妹の決意は固い。
「『守りたい人を守れるように強くあれ』。この言葉は、俺達家族には適用されないのか? お前だって守られる側なんだぞ」
「わかってる。お兄ちゃんが何をどうやったかは知らないけれど、私の命を救ってくれたでしょう? もう充分に守られているよ」
杏花の言葉に、蒼蓮はあの時の光景を思い出した。
「気付いていたのか」
「仙力を使い果たして、霊力に手を出した。そんな状態で私が生き延びられたのは、私の霊力調整が抜群に上手かったか、幸運か、お兄ちゃんが駆けつけてくれたからか。その中で一番現実的なのは、三番目。そうでしょう?」
杏花は兄の手を右腕から外し、微笑んだ。
「私は私を守る。約束する」
蒼蓮は大きくため息をつくと、「二時間以内に呼べなくても、呼べ。わかったか?」と言い、妹の頭を撫でた。
「うん。必ずそうする」
「一応、信じておこう。ほら、行くぞ」
兄に背中を押され、二人並んでみんなの元へと歩いて行く。
「白龍は力持ちだねぇ」
菫鸞が巨大な白龍の背を撫でながら言った。
「白龍はみなさんを乗せることが大好きです。荷物を持つことも楽しいです」
白龍も嬉しそうだ。
杏花と蒼蓮も乗り込み、雷夫妻に見送られながら飛び立った。
風の中を進む音が心地いい。
雲の中を抜け、髪が濡れる。
後ろでは菫鸞が「みんな髪結い直さなきゃ」と笑っている。
並走しようと頑張る鳥たちの間を通り抜け、徐々に高度を落としていく。
「そろそろ着くぞー!」
蒼蓮の声に、全員が白龍にしがみついた。
急降下が始まる。
眼下では欒山に集まっている法霊武門の面々が「りゅ、龍だ!」と叫ぶ声が聞こえる。
その数は想像していたよりも多く、中小法霊武門の宗主達も集まっているようだ。
「はい、到着。みんなは先に降りて待ってて。俺は門下生達と荷物を降ろすから」
杏花、瑞雲、菫鸞、茜耀、如昴は地上目指して舞い降りていった。
「わあ! 来てくれてありがとう」
若蓉と扶光が駆け寄ってくる。
若蓉の髪には蝶舞の簪が。
扶光の手に指輪は無い。
「霓氏のこれは……」
杏花は遥か頭上を見上げた。
急峻な峰々に建てられたいくつもの堂。
まるで山そのものが街のようだ。
「我ら霓氏の城、というか……。ここが欒岩宮。杏花に見せることが出来て嬉しい。ただ……」
元々は美しいのだろう。
しかし、音氏と鳳氏の報復攻撃を受けたせいで、ところどころに焦げ跡があり、瓦は剥がれ、半壊してしまっている建物もある。
扶光が寂しそうな目で建物を見つめ、言う。
「まだ山寺に居ても良かったのだけれど……。義兄上が生まれ育った場所だから、なるべく早く修復したくて声をかけたんだ」
「これは声をかけてくれてよかったよ」
霓氏に対し疑いは抱きつつも、目の前の可哀そうな建物の数々に同情を禁じ得ない。
若者たちが「どこから手を付けようか」と話していると、蒼蓮が駆け寄ってきた。
「支援物資が降ろし終わったから俺は帰っちゃうけど、みんな寂しくない?」
「うん。また呼ぶね」
「え……」
妹の心がこもっていない言葉に、蒼蓮は胸を押さえた。
「ちょっと杏花ったら。大丈夫ですよ、蒼蓮兄さん。私達みんな寂しいと思っているけれど、我慢しますから」
菫鸞の可愛い笑顔に心の傷をいやした蒼蓮は、「またいつでも来るから!」と、泣き真似をしながら空へと舞い戻って行った。
若蓉と扶光は次々と届く支援物資を確認するため、一度荷降ろし場へと向かった。
「とりあえず、焼けてしまった柱を……」
如昴が法霊雅学学友組に指示を出そうと周りを見渡し、顔を顰めて声を落とした。
「多くないか」
四人は続々と集まってくる武門の数を見て頷いた。
「多い。多すぎるよ」
「対七綾戦で法霊武林軍に加勢してくれていた数よりもね」
静氏、雷氏、雪氏、霖氏は、一つでも多くの武門に力を貸してもらい、法霊武林と大秦国の危機を脱しようと努力をした。
「ここにいる武門の半分は、兄上達の必死の説得を聞き入れなかったんだよ」
菫鸞の瞳孔が大きく開く。
「菫鸞、抑えろ。お前が拳を握ると死人が出る」
如昴が「みんな、一旦落ち着こう」となだめた。
「今信じられるのはお互いだけだ。私は茜耀と動く。三人も用心してくれ」
「わかった」
杏花が頷き、瑞雲と菫鸞も同意した。
三人はまず砕けた瓦の撤去を手伝うことにした。
屋根の上に積み重なり、一斉に雪崩れてきたら怪我どころでは済まない。
杏花は梅園を召喚し、「白梅は瑞雲、紅梅は菫鸞、青梅は私を手伝って」と指示を出した。
三人は手際よく瓦を集め、それを布に包んだ梅園が下へと運んでいく。
その時、どこかの武門の門下生が脆くなった欄干を踏み外し、落下していく。
杏花は仙力の渦を起し、その門下生の身体の下へ滑らすと、ゆっくりと地面へ降ろしていった。
「怪我はないですか!」
「だ、大丈夫です! ありがとうございます!」
何故か菫鸞が得意げな笑みを浮かべ、「さすが私の親友」と言った。
「どうもありがとう。焼けた屋根を腕力だけで剝がしている菫鸞も素敵だよ」
「でしょう?」
砕けて駄目になってしまった瓦をはがしたところ、その下にある基礎部分まで破壊されているのを発見した菫鸞は、何の道具も使わず己の力だけでそれを撤去している。
「瑞雲、あれ出来る?」
「……無理だ」
「私も。一生無理。来世でも無理」
杏花と瑞雲は大人しく道具を使い、屋根を剥がしていった。
「皆さん! 陽が落ちて来ましたので、本日はここまでにしましょう! 欒山の街に宿を用意しておりますので、ゆっくりと休んでください」
扶光があちこちを飛び回りながら作業中の人々に声をかけた。
雅学学友組が合流すると、若蓉が近付いてきた。
「みんなもご苦労様。五人は同じ宿にしてあるからね」
如昴が代表して場所を聞き、さっそく向かうことに。
「短い時間だったけれど、結構疲れるね」
杏花があくびをしながら言うと、茜耀もつられてあくびをした。
「建物を支えている柱の修復が大変そうよね。霖氏の霊木があって本当に良かったと思うの」
如昴も頷き、「明日は全員でとりかかるか」と、提案した。
「そうしよう。菫鸞の剛腕を上手に使わないと」
「みんなが柱を取り換えている間、建物を持ち上げとけばいいんでしょう? 楽勝だよ」
何が楽勝なのかわからなかったが、疲れて頭の回転が鈍くなっている四人はとりあえず頷いておいた。
今日は移動と作業で相当体力を消耗した。
五人は食事もとらず部屋へ入ると、布団へ倒れ込み、そのまま寝入った。
翌早朝、湯浴みを終えた五人は、食堂へ集まり朝食をとりながら周囲の様子を窺った。
「気付いた?」
菫鸞の問いに、四人が頷いた。
「あそこらへんの武門、結託しているよね」
昨日、視線を感じ、屋根から観察していた杏花。
「小さいのが十と、中規模なのが五つ。私達を見張っていたのが中規模の面々ね」
茜耀は冷たい視線を向けながら言った。
「若蓉を目で追っていたのは小規模武門の人達。簪を奪うつもりなのかも」
菫鸞が会話の内容を悟られないよう、笑顔を作る。
「彼らからすれば、一番邪魔なのは私達だ」
如昴は瑞雲と頷き合った。
朝食を終えた五人はさっそく欒岩宮へと飛んで行った。
「私達は向かって東にある建物の柱を担当します」
如昴が雅学学友組の作業予定を伝え、大勢がそれぞれの持ち場へ向かう。
「菫鸞、頼んだ」
正直、手伝いを頼まれると思っていた四人は、菫鸞が建物を持ち上げるのを見て悟った。
彼を手伝えると思うなど烏滸がましい、と。
「じゃあ、柱外すからね」
杏花と茜耀が傷んだ柱を引き抜く。
そこへ、素早く瑞雲と如昴が霊木で作った柱を入れていく。
杏花は「私も仙力を使えば建物くらい持ち上げられるかも」と試したが、びくともしなかった。
順調に作業を進め、五棟目が終わった。
「ちょっと休憩しよう。さすがに腕が痺れちゃった」
建物を五つ持ち上げて腕が痺れる程度なのか、と、四人は思ったが口にはしなかった。
「甘いものもらってくる」
杏花が下へ降りていくと、不穏な雰囲気を感じた。
「あの人達……」
食堂で見た武門の門下生二人が、周囲を窺いながら岩肌に沿って歩いて行く。
杏花は後を追った。
暗がりを進む。
男達の前方に、人影が見えた。
「ちょっと、何をしているんですか」
男達に対して発せられた声に、その前方にいた者も一緒に振り返った。
「杏花……?」
若蓉が目を見開いて男達と杏花を見た。
「若蓉兄さん、行った方が良い」
杏花に言われ、若蓉は従った。
「で? あなた達は若蓉兄さんの後を付けて何がしたかったんですか?」
「な、べ、別に……」
「お前こそ、何者だ」
男の言葉に、もう一人が答えた。
「ほら、杏花っていう、あの蓬莱から来た邪術使いですよ」
「ああ、あの怪しげな術を使うとかいう……」
男達が身構えた。
「ふん。法霊武林に関係の無い奴が出しゃばるな」
「蓬莱人に用はないんだよ」
男達の左腕に、霊力花が光る。
「それはないんじゃないの?」
杏花の背後から菫鸞と瑞雲が現れ、二人は杏花を守るように男達との間に立ちはだかった。
「あの戦で私達を救ってくれたのは誰? 法霊武林を立て直すために尽力してくれたのは誰?」
菫鸞の目が鋭くなる。
「恩に報いるのではなく、仇で返そうとするなんて。本当、良い度胸だね」
男達は菫鸞と瑞雲の刃のような視線から逃げるように立ち去った。
「二人とも、どうしてここに?」
「それは……」
瑞雲が杏花の手を握り、少し俯いた。
「この子、『杏花が帰ってこない』って言って手当たり次第探そうとしたから、私がここまで連れて来たの。甘味を配っている人に聞いたら、こっちに行ったって言うから」
瑞雲が頬を赤らめて「すまない」と呟いた。
「でも、正直私も心配だった。だって、杏花の前に『若様も同じ方向に行きましたよ』って言われたから」
菫鸞は杏花が若蓉を追って行ったのかと思い、慎重に行動するよう瑞雲に言い聞かせてくれたようだ。
「私達で若蓉に警告しよう。狙われているって」
「いいけど……」
菫鸞と瑞雲が顔を見合わせて困った表情を浮かべた。
「どうしたの?」
杏花が尋ねたその時、如昴と茜耀がやってきた。
「帰ってこないから心配したぞ」
「三人とも大丈夫?」
杏花は二人に何があったのか話した。
そして、若蓉に警告してあげたいと。
「ううん……」
二人も瑞雲と菫鸞と同じような反応をした。
「蝶舞の簪を破壊するまでの間、若蓉が危険なことに変わりはないでしょう?」
「それはそうだが……」
如昴が言葉を濁す。
杏花が「じゃあ、一人で言ってくる」と言うと、菫鸞が慌てて「私達も行く。その方が扶光も納得するだろうから」と言って三人に目配せした。
五人は若蓉と扶光を探し、居室の瓦礫集めをしているところを見つけた。
「若蓉兄さん、扶光兄さん」
「あ、杏花。どうしたの?」
杏花は駆け寄ってきた二人に、先ほどのことを伝えた。
「気を付けた方が良いと思う」
若蓉は扶光と見つめ合い、頷いてから杏花に向き直った。
「大丈夫だよ。いざとなれば簪の力で霊力を……」
「使わない方が良い」
瑞雲が言った。
「相手が誰であれ。状況がどうであれ、もう使わない方が良い。それはもう神器ではなく、呪物だ」
瑞雲と若蓉の視線がぶつかる。
「でも、霊力を少し吸い取るだけなら、ただの自己防衛だし……」
「呪物を使い続ければ、いずれ代償を払うことになる」
若蓉の目に、また、瞋恚が浮かぶ。
「高名な霖氏養花天の言うことは常に正しいってことかな?」
扶光が若蓉の肩を抱きしめ、冷笑しながら瑞雲を見た。
「これは霓氏の問題だ。君達には関係ない。もちろん、他の武門連中にもね」
「さぁ、行こう義兄上」と、扶光は若蓉を連れてその場から立ち去って行った。
「……あの二人も杏花と瑞雲の祝言に来るの?」
菫鸞が瞳孔を開いたまま聞いた。
「うん。でも、もう来てくれるかわからないや」
得体のしれない者の手によって、友人が零れ落ちていく。
若蓉の前で扶光に、お前は何者だ、と聞けばよかったのだろうか。
それとも若蓉に、あなたはどの皇統の血筋なの? と尋ねればよかったのだろうか。
どちらにせよ、今と結末は変わらない。
四人は杏花の悔しそうな顔を見て、言葉に出来ない悲しさを感じた。
かける言葉も、見つからないほどに。