待ち合わせ当日、もうすぐ昼時。
扶桑にやってきたのは瑞雲だけではなかった。
「杏花ぁ!」
「菫鸞! 一緒に来たの?」
空から降りて来る二人の腕を掴んで勢いよく三回転する。
瑞雲と菫鸞は突然のことに少し目が回ってしまったようだが、杏花は気にしなかった。
「私も白龍に乗りたくて!」
菫鸞は杏花と瑞雲の手を握ると、興奮して跳ね始めた。
「おお、にぎやかだな」
三人の声を聞きつけた蒼蓮が外へ出てきた。
「あ、蒼蓮兄さん! 商売人のふりをするのはやめたんですか?」
跳ねるのを止めた菫鸞が可愛らしい笑顔で尋ねた。
「やめてないよ。でも、お前たちに営業用の顔をしても無意味でしょう?」
「それはそう」
杏花は深く頷いた。
少し遅れて霖氏と雪氏の門弟たちが物資を持って降下してきた。
「あれ? 雪氏の物資は?」
「私達はこの身体が支援物資だよ」
杏花は菫鸞を上から下まで目を往復して確認し、「あ、なるほど」と頷いた。
「馬鹿力ね。純粋な労働力ってことか」
「もっと可愛い表現してくれる?」
菫鸞は頬を膨らませ、腰に手をあてて不満を表現した。
「そんな顔したって可愛いだけで怖くないよ」
「はあ……。美しく生まれてしまったことの弊害だね」
杏花と菫鸞は声を出して笑い、瑞雲はそっと微笑んだ。
「はいはい。お前たちはみんな可愛いよ。霖氏の物資と各門下生たちは預かっておく。明日は朝早く出発するんだから、今日は遠くまで遊びに行くなよ。夕飯の時間には帰ってきなさい」
「お兄ちゃん、お母さんみたい」
「あ、似てた?」
楽しそうな兄に見送られ、三人は街へ。
「霖氏の物資は何?」
「霊木だ」
霊木にはそれを材料に作られた物の強度を上げる力がある。
とても貴重なものだが、綺雨は霊木の巨木の上にある街。
生えている木の九割は霊木だ。
「欒山の人達、とっても喜ぶね」
「星氏は? お薬とか医療用品?」
「うん。鎮痛剤とか風邪薬とか。常備薬になりそうなものを用意したよ。清潔な木綿の布とかも。約一ヶ月間毎日製薬した甲斐があるってものだよ……」
おかげで手からはずっと生薬の香りがする。
「お腹空いてる?」
「いつも空いているよ」
菫鸞は可憐な笑みで答えた。
「じゃあ、この間瑞雲と行った大衆食堂に行こう」
三人で向かい、列に並んで空いた席に座った。
予想通り、菫鸞は次々と注文し、机の上は宴会場のような状態に。
周囲の人々が驚く中、三人は合計十五人前を食べきった。
というよりも、杏花と瑞雲は菫鸞が幸せそうに食事するのを眺めながら食べていただけ。
「ごちそうさまでした」
菫鸞は正面にある甘味処を指さすと、「あとで食べる用に買って帰ろう」と薔薇のような笑顔で言った。
「お、お腹空いているの?」
食堂を出ながら、杏花は恐る恐る聞いてみた。
「そうだなぁ、八割ってとこ?」
杏花は親友のことが少しわからなくなった。
瑞雲は「そうだと思った」と頷いている。
「お菓子なら家にいっぱい用意しておいたから、まずは散歩しよう。十五時になったら芍薬楼にお芝居を見に行くからね」
「前に言っていた、歌劇を見に行けるの?」
「うん。席を用意してもらったの。座敷席だから、三人座れるよ」
「嬉しい!」
菫鸞は二人の腕に自分の腕を絡ませ、歩き出した。
今の三人は、瑞雲、菫鸞、杏花の順で背が低くなっていくので、まるで階段みたいに見えるだろう。
「ねえ、中小法霊武門の噂聞いた?」
菫鸞が少し声を落として話す。
「私は聞いてない。瑞雲は?」
瑞雲も首を振った。
「あのね、あの戦で若蓉が蝶舞の簪を使ったでしょう? それをみんな見ていたし、実際にその力も感じた。中小法霊武門の中に、その力にあやかろうと、霓氏にすり寄っている武門があるらしいの。それも、たくさん」
菫鸞は二人を引き寄せ、小声で話した。
「すり寄るだけならまだわからなくもないけれど、蝶舞の簪を奪おうとしている武門もあるらしいよ」
瑞雲は目を見開き、「愚かな」と憤った。
「本当、その通りだと思う。まだあの戦いで傷ついた兵も門弟も完治していない人がいるのに」
菫鸞も不快に感じているようだ。
「でも、残念なことに今あの簪を壊すわけにはいかないんだよ」
「どうして?」
「琰櫻の指輪を所持している人がどこかにいる限り、その牽制になるからだってさ」
四大法霊武門が何度も「破壊、もしくは封印するべきなのでは」と提案しても、霓宗主とそれにすり寄る中小武門が「指輪が見つかるまでは現状維持するべきだ」と引き下がらない。
世論とは声の大きい方につくもの。
今まで静観していた武門も、「現状維持でいいのではないか」と言い出し始めた。
「もしあの蝶舞の簪を使って霓氏が反旗を翻したら、きっとそれに従う中小武門も声を上げるはず。四大法霊武門が協力して立ち向かっても勝てないよ」
もうすっかり春の陽気。
太陽に暖められた空気も、視界に入る花々も、隣を歩く友人も、何もかもが幸せなのに。
三人の背に、冷たく鋭い風が吹き抜けた。
「今の言葉、取り消してもいい……?」
菫鸞が二人の顔を交互に見ながら呟いた。
「記憶に刻まれちゃったから無理」
「無理だ」
杏花と瑞雲は菫鸞を見つめ、立ち止まった。
「菫鸞がそう考えるってことは、宗主達も同じ意見なんじゃないかと思う」
「今回の修復作業に兄上達が参加しないのもそれが理由だろう」
七綾の時よりも、もっと悲惨なことになる。
蝶舞の簪を使って両軍が強化されれば、その戦いは想像を絶するほどの惨状になるだろう。
そして全法霊武門が疲弊しきった後、霓氏だけが力を温存していたとしたら。
法霊武林は彼らのものとなる。
「琰櫻の指輪はどんな力を持っているんだろう」
杏花は指輪そのものが気になった。
静氏は祖先が残した密室の設計図や日誌などを調べたが、神器に関することは何一つ書かれていなかったという。
紅珊瑚の鏡の能力を知ることが出来たのは、雪氏の書房にその記録があったから。
「息絶えた小鳥に、懐から落ちた鏡の光が当たった。すると、小鳥は息を吹き返し、再び空へと飛び立ったのだ」と。
「それがわかれば、対策も立てられるのに」
菫鸞は溜息をつき、空を見上げた。
「……あ! もうすぐ十五時だ。芍薬楼に急ごう」
三人は浮かび上がり、飛んでいくことにした。
「今日の演目は『妃求鬼』だよ」
「どういう話なの?」
「それは観てのお楽しみ」
三人は開演間近に到着。
席へと着いた。
幕が開き、一人の女子が舞台に一人で立っている。
女子の名は灰虹。
ごく平凡な容姿で、何の取柄もなく、家柄は良いとは言い難い。
ただ、とても寛容で、心の優しい女子だった。
ある日、村を荒らす鬼の集団がやってきた。
首領の禍津鬼神は見目麗しく、村の女たちは「禍津鬼神様に従いましょう」と両親や夫に告げる。
しかし、灰虹だけは違った。
「飢饉が続き、村にはあなた達に渡すものなど無いのです。どうか、引き下がってはいただけませんか」と、鬼達に立ちはだかった。
首領は「それならば、お前が嫁に来るのなら村をこのまま見逃し、守ってやってもいい」と言う。
灰虹の両親は泣き、「たった一人の娘なのです」と縋った。
女たちは自ら「私がお嫁に参ります」と迫ったが、首領は「お前が来い」と譲らなかった。
灰虹は「その言葉に偽りがないのなら、私は従います」と、泣き崩れる両親の手をそっと肩から外し、着いて行くことに。
首領は灰虹にたくさんの贈りものを差し出すも、灰虹は一つとして受け取らない。
「何故拒む」と首領が問うと、灰虹は「それもどこかの村や町から奪ってきたのでしょう。そんなもの、触れたくもありません」と告げた。
首領はますます灰虹を気に入り、ついには名前を教えた。
「あなた、ではなく、琬琰と呼んでくれ」と。
「禍津鬼神が真名を教える意味をご存知ないのですか」と灰虹が聞くと、琬琰は「もちろん知っている。これでお前は私を殺せるようになった。好きにしろ」と、微笑んだ。
灰虹は優しく微笑む琬琰に、少しずつ心が動かされていくのを感じた。
その日から、琬琰は人間を襲うのを止め、自身が統べる鬼幻界で得る物だけで生活するように。
ある日、琬琰は「物を受け取らないのならば、お前に私の力の一部を渡そう」と、灰虹に法力を贈った。
法力は灰虹を絶世の美女へと変化させる。
「あなたも結局は見目の良い者を愛するのですね」と、涙を流す灰虹を、琬琰は抱きしめ囁く。
「俺はお前の度胸と心根の清らかさに惚れたのだ。容姿など、どうだっていい」と。
二人はひっそりと祝言を上げ、穏やかに暮らしていた。
しかし、幸せな生活は突然終わりを告げる。
皇太子率いる軍が、鬼幻界と人間界の境にある琬琰の根城を襲撃したのだ。
琬琰は致命傷を負いながらも、灰虹を安全な場所へと連れて行った。
しかし、視界にはすでに皇太子が放った斥候の姿が。
もう自分は永くないと悟った琬琰は、一つの指輪を灰虹に贈った。
「これは俺の一族に代々伝わるもの。身につければ、不老不死と成れる。ただ、不老不死は万能ではない。不治の病や致命傷を負えば、普通の人間のように命を落としてしまう」と説明し、灰虹を抱きしめた。
「俺がいなくても、幸せになってくれ。そして、永遠に近い命の中で俺のことを想ってくれたら、嬉しい」と言い、自ら囮となって灰虹を救った。
皇太子は嘆く灰虹の美しさに心を奪われ、半ば強制的に連れ去り、妃とした。
後宮での軟禁に近い生活を耐える唯一のものは、琬琰の指輪だけ。
皇太子は皇帝となり、老けない灰虹を余計に寵愛し、貴妃の位を与えた。
そしていつしか長い時は過ぎ、皇帝は崩御。
貴太妃になり、警備が弱まったことを感じ取った灰虹は、深夜、隙をついて後宮を逃げ出した。
馬に乗り、駆け続ける。
そして、琬琰が最期を遂げた場所へと赴くと、短剣で心臓を貫き自らの命を絶った。
追いかけてきた禁軍大統領は、血を流し息絶えた貴太妃の亡骸を見つけると、部下に命じ、棺とそれを乗せる馬車を用意させた。
灰虹の遺体は本人の望みとは違い、皇宮へと戻され、盛大な葬儀が行われることに。
葬儀が進む中、灰虹の息子である皇長子は、太監から形見として指輪を受け取った。
喪が明け、皇長子は即位し、新たな皇帝となった。
その治世は百年続き、自身の寿命に疑問を持った皇帝はそれが指輪の力だと気づき、そっと外して宝物殿へとしまう。
それだけでは危険だと判断した皇帝は、宝物殿に密室を作らせ、指輪を神器としてしまうことに。
そのあと、皇位を孫へと譲位し、十年後、急激に老いた灰虹の息子は、穏やかな死を迎えた。
「これって……」
杏花達三人は顔を見合わせた。
劇場内は拍手で満たされ、感動し涙を流す者もいたが、三人はそれどころではなかった。
「ただの御伽噺とは思えない」
「お姉様達に聞いてくる」
杏花は楽屋へ向かい、顔見知りの侍女に通してもらった。
琬琰役を演じた白薔薇に声をかけた。
「白薔薇お姉様」
「杏花! 楽屋まで会いに来てくれたの?」
「そんなとこ。ねぇ、この『妃求鬼』の脚本って誰が書いたか知ってる?」
「これは一年前に送られてきたのよ」
「送られてきた?」
「そう。差出人は不明だったけれど、内容がとても良いから歌劇として上演することになったの。結構練習期間が長かったから、上演は今回で二回目ね」
差出人不明の、御伽噺。
背筋が凍るには充分だった。
「ありがとう。また会いに来るね!」
「あ、ちょっとぉ」
白薔薇の残念そうな顔を残し、杏花は二人の元へと急いだ。
「どうだった?」
劇場の外、白薔薇から聞いたことを二人に話した。
「まさか、事実なのかな」
菫鸞が声を潜める。
「わからない。でも、そうだとしたら、怖いよ。わざと知られるようにしたってことでしょう?」
杏花も声を小さくして話す。
「すぐに帰ろう。ここでは話せない」
瑞雲の提案に、三人は急いで星辰薬舗へと戻った。
春の月が夕闇に現れる。
三日月の鋭さが、槍の穂先に見えた。
扶光が使っていた、白い刃の槍に。