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第十六集:日常

「ただいま……」

 夕闇の中、シン一家は一週間ぶりに帰ってこられた母屋の床に、全員で倒れ込んだ。

 あの戦の後処理が一ヶ月をかけて大方済んだところで、大秦国だいしんこく皇帝から皇宮へ招待されることになり、一息つく間もなく正装をして向かうことに。

 各法霊武門ほうれいぶもんからは宗主とその家族が招かれ、善行旌表ぜんこうせいひょうが執り行われた。

 いくさで功績を上げた者を賞する儀式で、皇帝から直接褒美を授かる。

 家名を呼ばれ、各部門の宗主が皇帝の御前へと進む。

(|霓《ニー》宗主、初めて見た。咳がつらそうだけど、病に臥せっていたって噂は本当だったのかな)

 ふくよかで、愛嬌のある顔立ち。

 若蓉ルォロンとよく似ている。

(|扶光《フーグゥァン》は来ていないのか)

 室内を見渡すも、その姿はなかった。

 その代わり視界に入ってきたのは、皇帝を凝視する友人達。

 シン兄妹弟を除き、初めて皇帝の姿を見た若者たちは、言葉を失っていた。

 恐らく、思い描いていた人物像とは違ったのだろう。

 優雅で風流な男性を想像していたのだろうが、実際の皇帝は筋骨隆々の大男。

 得意な武器は剛弓ごうきゅうと、大秦国だいしんこく一の大刀である黄龍偃月刀こうりゅうえんげつとうだ。

 その後、二日間の会合が行われ、三日間の宴を乗り越え、一日首都を観光し、ようやく解放。

 法霊武林ほうれいぶりんの面々も、シン一家も、爵位の授与は遠慮した。

 シン一族にはすでに蓬莱国ほうらいこくでの王爵があるし、法霊武林ほうれいぶりんはこれからも朝廷とは距離を置く自治組織のままでいることを望んでいる。

 皇帝もそれを理解しているので。残念な表情をしつつも、こちらの申し出を受け入れた。

義伯父上おじうえの正装、久しぶりに見た」

 蒼蓮ツァンリィェンが天井を見ながら呟いた。

「あれが真の姿だからなぁ」

 白蓮バイリィェンはまるで禮睿リールイが妖怪か何かのように表現した。

「今言っておくけれど、杏花シンファの祝言の日取り、どれを選んでも三か月後よ」

 桃花タオファの発言に、みんなが身体を起した。

「嘘でしょ」

 蒼蓮ツァンリィェンが血の気のひいた顔で母を見た。

「本当。一週間後、琅雲ランユンくんと瑞雲ルイユンくんが来るから」

「それいつ決まったの」

 杏花シンファも初耳だった。

「昨日、観光の前に」

琅雲ランユンくんは蒼蓮ツァンリィェンと日取り決めに。瑞雲ルイユンくんは杏花シンファと婚礼衣装の採寸に。もう時間がないのよ、本当に。焦らないといけないの」

 杏花シンファ蒼蓮ツァンリィェンは互いの顔を見てまた床に倒れた。

「僕は何をするの?」

 朱蓮ヂュリィェン鴉雛あすうを撫でながら両親に尋ねた。

朱蓮ヂュリィェンは会場に次々と届き続ける贈りものを鴉雛あすうと運ぶのよ。蒼蓮ツァンリィェン琅雲ランユンくんが『ちょっと待って』と言っても、運び続けるのよ」

「わかった! 頑張るね」

 無邪気な朱蓮ヂュリィェンの可愛い笑顔を眺めながら、杏花シンファ瑞雲ルイユンのことを想った。

 初めて会った時、いきなり仲良くなろうとして、驚かせて泣かせてしまった。

 その後すぐに握手して、友達になって。

 一緒に本を読んだり、屋根に上って夕陽を見たり、芍薬楼へ行って怒られたこともあった。

 扶桑ふそうに来てくれたときは、ずっと一緒に過ごしていた。

 手を繋ぎ、街中を走り回り、瑞雲ルイユンを抱えて飛んだことも。

 名前に「雲」が入っているから、会えない間は空に浮かぶ雲を見てその時間を過ごしたこともある。

 苦しくてどうしようもない時や、悔しくてたまらない時、いつも瑞雲ルイユンが気付いてくれて、「私の後ろに隠れれば、泣いているの、見つからないよ」と、泣かせてくれた。

 そして、瑞雲ルイユンが声を失った時は、悲しくて、何もしてあげられないのが悔しくて、手紙を書きながら何度も涙を流した。

 手を繋げばどんな心の機微も感じとれる、顔を見れば何でも分かってあげられる、そんな風になれたなら、例え瑞雲ルイユンが話せないまま育っても、側にいてあげられると信じて、歌を歌った。

 だからとても嬉しかった。

 瑞雲ルイユンがまた声を出し、杏花シンファの名を呼んでくれた時は。

 出会った当初から言葉数は少なかったけれど、それでも、会うたびに必ず名前を呼んでくれた。

 今もそう。

 どれほど素晴らしい楽器でも、あんなに美しい音は出せない。

 どれほど有名な詩人でも、瑞雲ルイユンの言葉に敵う歌は書けない。

 どれほど晴れ渡り青空が広がっていても、気付けば雲を探してしまう。

「あらあら、もう泣いているの? 花嫁の涙は当日までとっておきなさいな」

 いつの間にか目の前にいた母に抱き起され、涙を拭った杏花シンファは、「お父さんとお母さんみたいな夫婦になりたい」と言い微笑んだ。

「嬉しい。でも、目標はもっと高く持たなきゃね」

 母の少女のような笑みに、心が温かくなる。

「さあ、みんな。まずはゆっくりと寝て、明日は薬舗の仕事と並行して家の中を掃除するぞ」

 父の気合が入った声に、家族は腕を突き上げ「頑張るぞー!」と応えた。

「そうだ、杏花シンファ。お嫁に行った後、瑞雲ルイユンくんと扶桑ふそうへ来るときに過ごす家が必要だろうと思って、使っていない倉庫を潰して一棟建てることにしたぞ」

「……え?」

「大丈夫。蒼蓮ツァンリィェン朱蓮ヂュリィェンの時もそうするから」

 白蓮バイリィェンの笑顔に、何が大丈夫なのかわからなかったが、杏花シンファは頷いておくことにした。

蒼蓮ツァンリィェンが嫁をもらったら、昔お前たちが使っていた修練場を立て替えて家にする。朱蓮ヂュリィェンが嫁を貰うか婿に行ったら、私と桃花タオファの書斎がある離れを立て替えて家にする。敷地だけは余っているから、充分建てられるぞ」

 シン兄妹弟はたまに思う。

 父は自分のことを「王爵はあるけれど、育ったのは普通の家だから」とよく言うが、それは違うのではないか、と。

 富貴ふきの身であることを忘れているようだ。

 薬舗の仕事をし過ぎているのが原因かもしれない。

「湯浴みしてすぐ寝なさいよ。明日はいつも通り起こすからね」

 三人はそれぞれ自室へ向かうと、順番に湯浴みし、泥のように眠った。

 翌朝、本当に通常通り起こされ、眠い目が半開きのまま身支度をし、朝食をふらつきながら食べ、深緑色の仕事着に着替えると、笑顔で店頭に立った。

「お、看板娘! おかえり。やっと星辰薬舗せいしんやくほの家族が揃ったな」

「みんなおかえりなさい。桃花タオファがいなくて寂しかったのよ」

シン先生、今日は腰が痛くて……」

蒼蓮ツァンリィェン、後で配達に来てくれ」

朱蓮ヂュリィェン、遊ぼう!」

 開店直後から賑わう店内。

 みんなは知らない。

 国家存亡の危機に巻き込まれていたことを。

でも、何かは感じていたはず。

 それなのに、いつもと変わらず過ごし、思い合い、笑っている。

 怖かったことも、眠れず過ごした日も、家族を抱きしめ震えたことも、無事に解決するようにと名も知らぬ神に祈ったことも、すべて遠い過去のことのように。

「みんなが無事で本当に良かった」

杏花シンファちゃん、それは私たちもよ。大好きな友人家族が無事に帰ってきてくれて、本当によかった」

 街の人たちの温かさに、安堵する。

シン先生、杏花シンファちゃんは結婚したら綺雨きうに住むのかい?」

「ああ、それなら……」

 杏花シンファは笑顔で答えた。

綺雨きう扶桑ふそうも私の家だから。どっちに行くときも、『帰る』って言うよ」

 白蓮バイリィェンが目を潤ませた。

「先生、今から泣いてどうするんだい」

「天女先生が笑ってるよ」

 薬舗に笑顔の花が咲く。

 また穏やかな日常が過ごせそうだと、この時は本気で思っていた。


 一週間後、空から瑞雲ルイユンが降ってきた。

「わあ!」

 杏花シンファが受け止め、一回転。

「これで合っているか」

「もう少しゆっくり降りてくるともっと良いかも」

「わかった」

 後に続いて降りてきた琅雲ランユンが二人の微笑ましいやり取りに笑っている。

琅雲ランユン。妹たちは放っておいて、俺たちは頑張ろう。頑張るんだ」

「すべて蒼蓮ツァンリィェン兄さんの指示に従います」

 兄二人はさっそく母屋へと消えていった。

「ほら、荷物置いたらすぐに採寸に行くのよ」

 桃花タオファに促され、杏花シンファリン兄弟が泊まる部屋へと案内した。

瑞雲ルイユンがここに泊まるのもあと少しだね」

「そうなのか」

「お父さんが家を建ててくれるらしいよ」

「……家」

 父親が家を建ててくれる、ということに、瑞雲ルイユンは嬉しくも、切なくも感じた。

「そう。慈雨源郷じうげんきょうには義兄上が一棟下さったでしょう? 扶桑ふそうにもあったほうがいいだろうって」

「楽しみだ」

「ね。菫鸞ジンランとかが遊びに来た時も泊まれるくらい広い家だと良いね」

 瑞雲ルイユンは親友の顔を思い浮かべ、嬉しそうな表情で頷いた。

「じゃあ、行こうか」

 二人は母屋から一番近い門から外へと出た。

 街の人々の視線がいつもよりも遥かに熱い。

瑞雲ルイユンはどこに行っても視線を集めちゃうね」

「そうなのか」

「気にしたことないの?」

「姿勢を正さねばとは思っている」

「ああ、鍛錬じゃないからね、これは」

 二人はいつものように話しながら呉服店へ。

 中に入ると、待ってましたとばかりに女将が従業員に指示し、二人を別々の部屋へ連れ去った。

 採寸は細部にまで及び、三時間後、ようやく解放された。

「身ぐるみはがされた気分」

 瑞雲ルイユンはぐったりした顔で頷いた。

「観光する? 一度帰る?」

 呉服店の外で考えていると、二人の腹の虫が同時に鳴った。

「ご飯を食べよう」

 瑞雲ルイユンはお腹を押さえて頬を染めながら頷いた。

 少し歩いたところに、扶桑ふそうで一番有名な大衆食堂がある。

 そこへ二人で向かい、ちょうど空いていた席に腰を下ろした。

「お昼時なのにすぐ座れてよかったね」

 瑞雲ルイユンは頷き、店内を見渡して言った。

菫鸞ジンランが気に入りそうだ」

 目の前で次々と運ばれていくのはすべて大皿料理。

「あの細い身体のどこに十人前の料理が入るんだろう。いつも不思議」

 法霊雅学ほうれいががくの最中も、常に菓子をつまんでいた。

杏花シンファもよく食べる」

「まあね。この身体は体力の消耗が激しいからっていう言い訳をして食べているよ」

 二人は二品頼み、並んで待っている人達のために出来るだけ早く食べて店を出た。

 普段はゆっくりと食事をする瑞雲ルイユンにとっては、いささか忙しなかったかもしれない。

「散歩してお腹が落ち着いたら帰ろう」

 杏花シンファは頷く瑞雲ルイユンの手をとり、「迷子にならないようにね、私が」と苦笑した。

 瑞雲ルイユンは手が繋げて嬉しそうだ。

 二人で思い出の場所を巡りながら星辰薬舗せいしんやくほへの帰路についた。

「ただいま」

「おかえりなさいませ。杏花シンファ様にお手紙が届いております」

 忙しい両親に代わり、その弟子の一人が出迎えてくれた。

「ありがとう。私たちは母屋にいるから、父と母には帰っていることを伝えておいて」

「かしこまりました」

 二人は手紙を受け取り母屋へ。

 そこには机に顔を伏せている兄達の姿があった。

「ただいま。どうしたの?」

 兄達は顔を上げ、「おかえり」と力なく呟いた。

「どうもこうも、伯父上達からの妙な贈り物を回避するために、あらかじめ欲しい物を目録にして渡すことにしたんだが……」

「量が問題でね。もし遠慮すれば、その分を埋め合わせようと宝飾品を贈ってきてしまうかもしれない、と……」

 兄達は何が正解なのかわからなくなってしまったらしく、脳を休ませているのだという。

「が、頑張ってね。応援してる」

 意見を求められては面倒なので、二人はすぐに客間へ向かった。

 座布団を敷き、机を挟んで向かいに座る。

「手紙、誰からだろう」

 杏花シンファが開いてみると、それは如昴ルーマオ茜耀チィェンイャォからだった。

「えっと……、あらあら」

 手紙には、「欒山らんざんの修復に人手がいるらしく、私達と共に手伝いに行かないか」という誘いだった。

「もしリン公子若君も一緒にいるのなら聞いておいてくれ、って書いてある。慈雨源郷じうげんきょうにも手紙を送ったらしいよ。菫鸞ジンランからはすでに行くって返事があったようだね」

 そして、最後に一言添えられていた。

 「かんざしのことを探る好い機会だろう」と。

「行こう、瑞雲ルイユン

 瑞雲ルイユンは頷き、手紙を見ながら言った。

「あの簪は危険だ。もう使うべきではない」

 修復作業の開始は一か月後。

 各法霊武門ほうれいぶもんから提供できる物資を集め、欒山らんざんへ向かうという。

「一番近い紅葉山荘こうようさんそうに集合かな。瑞雲ルイユンは私と一緒に扶桑ふそうから白龍に乗って行けばいいよ。みんなに会えるのは嬉しいね」

 瑞雲ルイユン杏花シンファの手を握り、微笑んで頷いた。


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