「なんて素敵なの……」
目の前に広がる慈雨源郷は、想像していたよりもずっと美しかった。
連なる山々に巨石が織りなす壮大な景色。
そして、大きな滝の前、広大な湖に浮かぶ、街を乗せた巨大な船の数々。
「あれは船ではなくて、似た形をしている霊木なんだってさ」
白龍の上から眺めているだけでも、目が忙しい。
すべてが視界に収まらない。
「じゃ、降りるぞ。あの広場……、あ、琅雲たちが待ってるぞ」
杏花は「先に行く」と、白龍から飛び降りた。
「杏花!」
腕を伸ばす。
「瑞雲!」
腕の中へ。
その身体を抱きしめ、一回転してから着地した。
「お前たちは大袈裟だねぇ」
あとから降りてきた蒼蓮がからかうように笑っている。
「瑞雲は毎日空を見上げて待っていましたから」
琅雲は幸せそうに頬を赤らめる弟の姿を見て微笑んだ。
「お久しぶりです、蒼蓮兄さん」
「久しぶり、琅雲。配達以外で来るのは初めてだ。まあ、妹を配達してきたと思えば、同じか」
「ふふふ。杏花が拗ねますよ」
「今のは内緒ね」
琅雲は瑞雲に「杏花を部屋に案内してあげなさい。私は蒼蓮兄さんと話すことがあるから」と言って蒼蓮と共に建物の中へと入って行った。
「離れを用意した」
瑞雲は杏花の手を取り、「こっちだ」とその手を優しくひいた。
真昼の太陽が冷たい冬の空気を温めていく。
それよりも先に、杏花の頬は赤く染まる。
鼓動がうるさくて、自分の身体なのに、自由にならない。
「その……、すまない」
「何のこと?」
「緊張している」
瑞雲は立ち止まり、杏花と向き合った。
「ここに杏花がいることが嬉しい。楽観できる状況ではないことはわかっているが、でも」
「私も、やっと来ることが出来て、今とても嬉しいよ」
杏花が笑うと、瑞雲は「荷物は紅梅が持っているのか」と聞いてきた。
「そうだよ。いつも通り……、わあ!」
身体が宙に浮いた。
違う。瑞雲に抱きかかえられているのだ。
「え、ど、どうしたの?」
「先に、私が一番好きな場所へ連れて行く」
瑞雲が風火輪で浮かび上がる。
「私も飛べるんだよ」
「いつも……」
綺雨の街の上を飛んでいく。
「いつも?」
「いつも、杏花は誰かのために飛んでいるから。私は、杏花のために」
「そ、そっか」
頬の熱がひかないうちに、また顔が火照ってきてしまった杏花。
ただ、瑞雲に言われたことを思い返してみると、こうして誰かに抱えられて飛ぶことはほとんどない。
「着いた」
上から見たその場所は、街はずれにある霊木の切り株だった。
ゆっくりと降りていく。
すると、切り株から二本の木が生えていることに気付いた。
瑞雲が着地し、杏花も降ろしてもらう。
「これは……、桜の木?」
「両親が霊木に接ぎ木したものだ。左が兄上が産まれた時。右が私」
霊木に接ぎ木されていることで、ずっと花を咲かせているという。
雪の白と、桜の淡い色がとても可憐で。
そして、少し悲しくて、あたたかくて、愛おしい。
「ここに来ると、父上と母上のことを思い出すことが出来る。それも、とても鮮明に。兄上もよく来ている」
泣くつもりなどなかったのに、杏花の目に輝く雫は次々と零れ落ちていった。
「私には、この桜以上に素晴らしいものは贈れない。だからせめて」
杏花は仙力を纏い、優しく風を起こした。
風は桜に降り積もった雪をそっと運んでいく。
「お二人の大事なご子息を、生涯をかけて護ります」
目の前が煌めいた。
涙のせいではない。
仙力の光とも違う。
瑞雲も、隣で驚いた顔をしている。
「父上……、母上、なのか」
光は杏花の仙力に沿って風の中を巡りながら、空を目指して昇って行った。
「私が瑞雲の一生をもらってもいいってことかな……」
「ん?」
「え? 物じゃないのはわかっているよ」
「そうではなく」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑い始めた。
「瑞雲のご両親に挨拶できて良かった」
泣き止んだ杏花を見つめ、瑞雲は頷いた。
「離れに案内する」
「うん。よろしく」
今度は二人で飛び、慈雨源郷へ戻った。
離れは部屋と呼ぶには立派過ぎるほどしっかりとした家屋だった。
門があり、庭があり、池に橋も渡してある。
「こ、ここを借りていいの?」
「もちろんだ」
二人で庭に面した入口へ向かう。
「一応、杏花の家と同じように靴を脱いでも過ごせるよう、掃除はしてある」
「え、ありがとう。嬉しい」
さっそく靴を脱ぎ、部屋へと上がる。
「好い香り。いつも瑞雲の服から香っているのと同じ?」
瑞雲は今までにないほど顔を赤くして頷いた。
「どうしてそんなに照れているの」
「わ、わからない」
本当に自分でもわからないようで、戸惑いながら庭に立っている。
「中に入らないの?」
「あ、ああ」
瑞雲も靴を脱いで部屋へ上がり、自身の赤い頬をどうにかしようと手で扇いでいる。
「お、良い家だ」
「お兄ちゃん! 霖……、琅雲義兄上も」
琅雲の顔が緩む。
「はい。義兄上ですよ」
杏花まで瑞雲と同じくらい頬が熱くなってしまった。
「なんで二人ともそんなに照れてるの?」
「わからない。瑞雲もわかってない」
「変な妹と義弟。杏花、白梅を貸してくれ」
「え、良いけど」
杏花は梅園を呼び出すと、白梅は蒼蓮の元へ。
あとの二人には荷物の整理をお願いした。
「行くぞ、白梅」
「はい、蒼蓮様」
三人が慈雨源郷での滞在期間にどこへ行こうかと話し合い始めた時、蒼蓮と白梅は人気のないところへと向かっていた。
「白龍、霧を」
白龍が口から純白の霧を吐くと、それが二人を包み、外から見えなくなった。
「これを渡しておく。杏花には言わないでくれ。教えるのもだめだ。絶対に」
白梅が受け取ったのは、中の物が視えないほど黒い小瓶。
「中には何が入っているのですか」
「それは『神丹』だ。白龍が神力を使って作ったもので、五年に一つしか作れない。今あるのは俺が持っている分と、そして白梅に渡した二つだけ。使う前に、まず俺を呼ぶこと。間に合いそうもないときは、白梅、お前が……」
白梅は蒼蓮の真剣な目に頷くしかなかった。
蒼蓮の目が哀しく揺れる。
それだけで、神丹が意味する危機を察することが出来た。
「かしこまりました」
白梅は跪き、拱手した。
「戻ろう。杏花が怪しむ。何か聞かれたら、俺からこれを受け取ったと言うといい」
渡されたのは、鈍くなった五感を取り戻す丸薬。
「痛みも鋭くなるが、まぁ、悪鬼羅刹の中にはこっちの五感を奪う術を使ってくるやつもいる。後遺症が残ると命取りだからね」
「大切に使います」
「白梅のことは信じている」
「お任せください。杏花様の代わりに、杏花様を御守りいたします」
「もっと自分を救うことを優先してくれれば、こんなに心配しなくて済むんだけどね」
二人は霧から出ると、三人がいる方へと戻って行った。
「あ、戻ってきた」
「じゃ、俺帰るわ。このままいたら、間違えて杏花を白龍に乗せちゃいそうだから」
「はいはい」
琅雲は少し焦っている瑞雲を見てつい笑ってしまった。
「また来る! 杏花はどこに迎えに来て欲しいのか、ちゃんと連絡寄こすんだぞ。じゃ、またねー!」
蒼蓮は白龍に乗り、優雅に空へと飛んでいった。
「兄もここだと商売人の顔をしなくていいから楽しそうで良かったです」
「蒼蓮兄さんは跡継ぎだから、いずれ星辰薬舗と星辰王府の顔になる。いくつもの自分をもつのは並大抵のことではないからね。ここでは楽しく過ごして欲しいと心から思うよ」
琅雲は十七歳で宗主の座を継いだ。
先代雪宗主や、青鸞の支えがあったとはいえ、とても大変な時期を過ごしたことに変わりはない。
弟や親族、門下生を不安にさせないために、流すことが許されなかった涙も多かっただろう。
「琅雲義兄上はどうして年下の兄を『兄さん』と呼ぶのですか?」
「ああ、それはじゃんけんで負けたからだよ」
「……え?」
「初めて会った時、蒼蓮兄さんは私よりも背が高くてね。私のことを年下だと思ったそうなんだ。それで、互いに自己紹介をしたら、突然、『兄さんになる方を決めよう』と言われてね」
「うちの兄がすみません……!」
「いやいや、嬉しかったよ。私には兄がいないからね。それに、蒼蓮兄さんは……」
琅雲が何かを思い出したように微笑んだ。
「ずっと私の兄さんでい続けてくれている。それが何より嬉しい」
杏花と瑞雲は幸せそうな琅雲を見つめ、そのまま白龍が飛んでいった空を眺めた。
穏やかな日常を過ごした杏花と瑞雲は、琅雲に見送られ、門下生達と共に煌風へと出発した。
途中、雪氏一行と合流し、菫鸞も一緒に行くことになった。
さらに、到着まであと一日というところで如昴と茜耀、柔桑と各門下生達も合流した。
「莅月姉さん、大丈夫かな」
あの日、泣き顔を見てからずっと心配だった。
何度手紙を送っても、返事はない。
「心配ね。それに、佳栄もおかしいし」
「ああ。前からあまり性格が良いとは言い難かったが、あそこまであからさまではなかった。兄妹の仲も良かった記憶がある」
茜耀と如昴も不穏な空気を察知しているようだ。
「うちは大変だったんだよ? 兄上がそれはもう怒っちゃって。煌風と藤陵に乗り込もうとするから、門下生総動員で止めたんだもの」
「雪宗主の行く手を阻む自信はないなぁ」
菫鸞を含め、みんなが深く頷いた。
「みんなのお家はどうだったの?」
「うちは兄が怒っていたけれど、私がもう参加を決めていたから。ただ、弟が……。泣かせたくなかったなぁ」
菫鸞と瑞雲の顔が曇る。
「うちは祖父が『隙があれば音氏と鳳氏を斬ってこい』って怒っちゃって。ねぇ、柔桑」
「父上もそんな感じだから、母上が説得していたよ」
さすがは静氏、と、みんなが思った。
「私のところは珍しく父が声を荒げて、『音氏と鳳氏に与している法霊武門に、間違った者を選んだと後悔させてやる』と、憤っていた」
杏花はよく知らないので反応できなかったが、他の四人はとても驚いている。
「兄は冷静だったが、修練場の巻藁がすべて斬られているのを門弟が見つけた」
これには全員が驚いた。
「霖宗主でもそうなるんだから、今回のことは異常だよ! 横暴すぎる!」
菫鸞は可愛い顔を膨らませて拳を前に突き出した。
風圧で少し先にある木の枝が折れた。
「それ心臓に悪いから……」
杏花を含め、五人の鼓動が少し早まったが、菫鸞は全く気付いていない。
そして、集合日当日。
煌風の街の入り口で若蓉と扶光も合流した。
「みんな、また無事で会おうね」
若蓉は持っている鞄をぎゅっと抱きしめながら俯いた。
「大丈夫だよ、若蓉兄さん。欒山を案内してもらう約束、したでしょう?」
扶光も今回ばかりは杏花の言葉にうなずき、「義兄上、杏花との約束、果たさないといけませんよ」と言った。
「うん。私、頑張るよ」
八人で歩いていると、音氏の兵士二十人がやってきた。
「ご案内いたします」
有無を言わせないといった様子。
街中で乱戦するわけにもいかないので、八人と門下生たちは大人しくついて行くことにした。
煌風の街は賑やかで、音氏が放つような威圧感は感じない。
ただ、武器を携帯している人が多い、という印象はある。
音氏の根城である螢惑城を横目にしばらく歩いて行く。
「あれが螢惑山?」
「そうだよ。とても素晴らしい霊山なのに、このあとすぐに穢される」
菫鸞が前を歩く音氏の兵を睨みながら言った。
大秦国には数多の霊山がある。
その中には、螢惑山のように鬼幻界と繋がっている場所があり、その地域を護る法霊武門がその結界を護ってきた。
それを今回あえて解き、殺し合いをさせようというのだから、菫鸞を始めとして法霊武林の人々が怒るのは当然だ。
「こちらより先が開会式の会場でございます。それぞれの家紋が入った旗が立っておりますので、その場でお待ちください。星殿は霖氏と同じ場所へどうぞ」
杏花は梅園を召喚し、自身の後ろにつけた。
「またあとで」と、本当に叶えられるかわからない約束をし、それぞれ門下生を伴って旗の下へ向かった。
すでに中規模、小規模法霊武門の門下生達は会場後方に集められており、その顔は皆一様に引きつっている。
「音氏と鳳氏の旗もある。参加するんだね」
瑞雲は頷き、その両家の旗を睨んだ。
「あ、来た」
音氏と鳳氏の旗の下が埋まった。
「莅月姉さん……」
俯き、顔色も悪い。
突如、銅鑼の音が響き渡った。
筋骨隆々とした身体が灰色の深衣で隠しきれていないほど大きな壮年男性が、漆黒の壇上へ上がる。
「静粛に。ここに集まりし若き武士達に感謝しよう。再び、武勇を示す機会を取り戻すことが出来た。これより、一ヶ月間に及ぶ鬼幻祭祀を執り行う」
どうやら、あの男性が音宗主らしい。
その隣に、水色の深衣を着た痩身男性が立ち、話し始めた。
「それでは、各部門の目標討伐数を発表いたします」
顔が佳栄にそっくりだ。
鳳宗主だろう。
「欒山 霓氏、五千体」
会場がどよめいた。
若蓉の顔が青ざめていく。
扶光は若蓉を支えながら壇上の二人を睨みつけた。
「氷妃河 雪氏、六千体」
杏花の瞳が光る。
雪氏は門下生も精鋭ではあるものの、菫鸞しか世子がいないにも関わらず、霓氏よりも千も多い。
「夜湖 静氏、八千体」
(実力で倒せる数よりも多く設定しているんだ)
いったい、何のためにここまで追い詰めるようなことをするのだろうか。
「煌風 音氏、八千体。藤陵 鳳氏、七千体」
感覚だが、どちらも少し少ないのではないかと、杏花は思った。
「紅葉山荘 雷氏、六千体」
雷氏も如昴しか世子がいない。
このままでは、みんなあまりに危険だ。
「そして最後……。綺雨 霖氏、一万二千体」
会場が静まった。
「息子たちからの報告や、雅楽での成績を基に熟慮した結果、星殿の力は未知数であり、天宮閣でもその実力は測れないだろう、と。そこで、我々からの願いを込めて、一万二千体とさせていただきました」
激しい轟音と共に、二人の宗主が立っている壇の三分の一が風圧で弾け飛んだ。
「おや、雪二公子。どうされましたか? まさか、雪氏は祭祀に不満があり、異を唱えるおつもりで? 氷妃河や兄君のことを思うなら、自重されることをお勧めします」
このままでは菫鸞が、雪氏が標的になってしまう。
杏花が駆け寄ろうと動くより前に、雪氏の隣の列に並んでいる茜耀と柔桑が止めに入った。
今回の鬼幻祭祀への参加条件に、『此度の祭祀に異を唱える者、法霊武林に対して不遜とし、粛清対象とする。祭祀の途中で逃げ出した者が一人でもいる武門も同罪とする』と記されてあるのだ。
「友人が危険だと悟れば、誰でも怒りは沸くというもの。この程度のことで過敏になる鳳宗主こそ、自重なさっては?」
茜耀の言葉が響く。
「さすがは静氏の御令嬢。その通りですね。失言を謝罪いたします」
鳳宗主はまるで何もなかったかのように微笑んでいる。
その笑顔が嘘くさくて悍ましい。
一連の出来事を、音宗主は鼻で笑う。
「これより先は深き闇。皆、心して挑め。生きて帰ってくることを願っている」
再び銅鑼の音が鳴り響き、紅梅が「……結界は正しい手順で解かれたのではなく、破られたようです」と囁いた。
「出陣せよ!」
音宗主の掛け声に合わせ、まず音氏が山へと入って行った。
続いて鳳氏。あとは前の列に続いて入山した。