「ただいま」
蒼蓮と白龍に乗り、四か月ぶりに扶桑へと帰ってきた杏花。
昼の太陽がまぶしく輝いている。
扶桑は相変わらず平和そのもの。
星辰薬舗から両親と朱蓮、そして客として来ている扶桑の人々が飛び出してきた。
「おかえり、お姉ちゃん!」
空から降りてきた杏花を、手を広げて待つ可愛い弟。
杏花は着地すると、朱蓮の身体を抱き上げ、「会わないうちにまた大きくなったんじゃない?」と微笑んだ。
朱蓮の従者である鴉雛も、杏花の足に九尾をまとわりつかせて喜んでいる。
「おお、やっと帰ってきたか、看板娘」
「杏花ちゃんがいなくてみんな寂しかったのよぉ」
「おいおい、みんな。ここはまず家族の再会が先だろう」
「そうそう。俺たちはお弟子さんたちに大人しく接客してもらおうぜ」
みんなが気を遣うふりをしながら星夫婦に道を開ける。
「お父さん、お母さん。ただいま」
朱蓮を降ろし、手をつなぎながら両親を見つめた。
「おかえり杏花。蒼蓮もご苦労だったね」
「いやいや。妹のお迎えくらいなんてことないよ」
「あんなに時間を気にしていたのにね」
「母さん、それは内緒だってば」
久しぶりに会う家族はあたたかくて、心から「帰宅した」と思える安心感がある。
清廉な薬草の香り。
子供のころから愛してきたものすべてがここにある。
「あ、お父さんとお母さん、それに……」
「話は聞いているよ」
白蓮は朱蓮に「ほら、近所の子達と約束があっただろう。遊んでおいで。夕飯までには帰ってくるんだよ」と言い、優しくその背を押した。
「お姉ちゃん、あとでいっぱいお話聞かせてね! 行ってきます!」
可愛い少年と可愛い狐が駆けて行く。
みんなで朱蓮を送り出し、四人は薬舗の奥、薬草畑を通り越した先にある長い廊下を通って母屋へ向かった。
居室へ入ると、白蓮が陣を張った。
「これで会話は漏れない」
白蓮と桃花が座り、机を挟んで両親と向き合うように蒼蓮と杏花が腰かけた。
「琅雲が雪宗主と訪ねて来てくれてね。音氏と鳳氏の結託、それに、中小いくつかの法霊武門の裏切り……。兄上達が危惧していたことが現実になろうとしている。ただし、まだ神器の行方はわかっていない」
杏花は「それに……」と、まっすぐ両親を見て口を開いた。
「音公子と鳳公子が三日前に門下生全員を集めて言ったの。『鬼幻祭祀を復活させる』って。参加は強制。私は名指しまでされた」
「そんな……。もしや、一人で」
「違うよ。その、瑞雲が……」
杏花は大変な事態になってしまったことと、とても嬉しいことがあったことで情緒が混戦し、どんな表情で話せばいいかわからなくなってしまった。
大まかに説明をし、茜耀と如昴が後押しをしてくれたおかげで、許される雰囲気になったことも話した。
「私は、えっと、だから、、霖氏と参加するべきだって……」
「そうか、よかった……。瑞雲との仲が良い方向へ進んでいるとは聞いていたが……。どうやら、素晴らしい青年に成長しているようだね」
白蓮と桃花は大きく深呼吸をし、心から安堵した様子。
「鬼幻祭祀ってそんなに危険なの?」
そんな両親の反応に何かを察した蒼蓮は、瞳を青く光らせながら白蓮を見る。
桃花は夫の目を見て頷き、真剣な眼差しで子供たちを見つめた。
「大秦国の鬼幻祭祀はね、一ヶ月間、悪鬼羅刹と戦い続けるの。ほとんど陽の光が届かない広大な山中で、昼も夜も関係なく。眠ることも食事をとることもまともに出来ない。一息つくだけでも命取りになる。鬼雅楽隊に遭遇すれば、耳を塞いで戦わなくてはならなくなるから、仲間の声すら聴くことが出来ない。蓬莱国では三百年前に禁祀となった悪習。その辺の百鬼夜行なんてかわいく思えるほどに悲惨なことになるはずよ」
蒼蓮の目が強く光る。
「そんなものに妹を送り出せと?」
霊力花が左腕から伸び、机に巻き付く。
「それに強制だって? 人質にとるようなものだろ」
机が軋み、音を立て始めた。
「蒼蓮、怒る気持ちはわかる。私とて、娘をそんなものに参加させたくはない。しかし……」
白蓮と桃花が杏花を見た。
決意が見て取れる娘の表情が強く美しく、そして悲しかった。
「じゃあ、どうして」
「私が参加するって決めたの」
杏花が蒼蓮の手に触れ、微笑む。
「お祖父ちゃんがよく言っていたでしょう? 『守りたい人を守れるように強くあれ』って。私は瑞雲や菫鸞、他にもたくさん守りたい人が出来た。だから、行かないわけにはいかない」
蒼蓮の瞳が明滅しながら落ち着いて行き、その表情は切なさで満たされていく。
「お前が決めたのなら……、仕方ない。お兄ちゃんは応援する。扶桑のことは任せておけ。でも」
こんな表情をする兄は初めて見た。
まさか、泣くなんて。
「無事に帰ってこい」
つられて涙が出る。
「困ったら、すぐに手紙を飛ばす」
幼い頃、杏花が作った飛鳥玉簡は、折る紙の大きさと鳥の形によって手紙が届くのにかかる時間が違う。
鶴は三日、鳩は一日、燕は二時間以内。
燕は小さな紙で折らないと飛ばないため、本当に数文字しか書くことが出来ない。
まさに緊急用だ。
「ほらほら、二人とも。泣き止まないと、朱蓮が帰ってきたときに心配するぞ」
杏花と蒼蓮は涙を拭い、両親の方を向いた。
「欒山についてだが……、琅雲によると、静宗主がいくら調査し、密偵を使わしても、霓宗主の姿はおろか声すらも聞けなかったようだ。病に臥せっているとか、独り洞窟で修業をしているとか、噂話しか得られなかったと。ただし、開祖にある一族が関わっていることが判明した。大秦国の皇族だ」
季節は冬。指先は冷えているのに、握った手に汗がにじむ。
(|若蓉《ルォロン》が貴い血筋なら、|扶光《フーグゥァン》は?)
杏花の背筋が凍る。
得体のしれない者が、友人のすぐそばにいる。
「その話の後、兄上達に探ってもらったが、皇統まではわからなかったそうだ」
「扶光は? 扶光については何かわかった?」
焦りで前のめりになる。
不安が心を満たし、手が震える。
「彼について分かったのは一つだけ」
父の次の言葉を待った。
「お前たちと同年代ではない、ということだ」
たった四ヶ月間。それだけの間に、いくつの嘘をつかれたのか。
そもそも、何が本当だったのか。
若蓉は本当に何も知らないのか。
何年も側で過ごして、何も気付いていないのか。
霓宗主は養子にするときに何も調べなかったのか。
そもそも、扶光はどこからどうやって、何故欒山に?
疑問が疑問に変わるだけ。
(|若蓉《ルォロン》を依存させて何がしたいの……?)
あの二人を引き離さなくては、若蓉が危険だ。
しかし、どう思案しようとも、良い解決法は浮かばない。
杏花の心に亀裂が入る。
「杏花様、考え過ぎてはいけません」
蒼蓮に巻き付いている白龍が杏花の肩に触れる。
「あ、ごめん」
白龍は大切な人たちの心が視認出来る。
杏花の欠けていく心を見たのだろう。
その目は今にも泣きそうだ。
「薬が増えるぞ」
心配そうに杏花を見つめる両親の代わりに、蒼蓮が注意した。
「気を付けるってば」
「ただ、杏花がこう何度も不在となれば、朱蓮も何か起きているのではないかと気付くと思う。あの子の鴉雛はまだ幼いけれど、僅かながら神通力が使える。もう隠してはおけないでしょう」
それに、と、白蓮は言葉を繋いだ。
「もし扶桑が標的となれば、朱蓮の力も必要になる。今の状況で烏良候の力を知られるわけにはいかない。兄上達もそれは望まないだろう」
それだけは避けたかった。
朱蓮には何も知らずに生きてほしかった。
それを願っていたのは、杏花だけではない。
「私が話すから、二人はその場に一緒に居て頂戴ね」
桃花の目はいつも春の陽射しのようにあたたかく、春風のように優しく包んでくれる。
「私がいる限り、家族が傷つくことはない。杏花、好きなようにしておいで。その結果がどうであれ、私達はお前を誇りに思う」
まるで目の中で星が弾けたように視界が澄み、湧き上がる勇気が心の周りで風となる。
「頑張る」
右腕にある杏花紋が熱くなる。
梅園にも伝わったのだ。
「霖氏と参加するということは、慈雨源郷から出発するの?」
母の問いに、杏花は少し照れながら答える。
「うん。音氏の兵士が祭祀三日前に迎えに来るとか言っていたけれど、そんなの嫌だから五日前に出発することになってる。だから、扶桑は一週間前に発つ。お兄ちゃん、よろしくね」
「はいはい。お前が将来暮らすことになる場所に送ってやるよ」
蒼蓮の言葉に、白蓮が泣き真似を始めた。
「ああ、寂しくなる。こんなにはやく娘の結婚が決まるなんて……」
「あら、まだ瑞雲くんの挨拶とか、両家の顔合わせ、日取り決め、結婚式の形式は大秦国に合わせるのか蓬莱国に合わせるのか、どこで行うのか、披露宴の場所、招待客、料理……。感傷に浸る暇がないほど時間は必要よ」
白蓮は泣き真似を止め、「その通りです、天女様」と頭を下げた。
「母上は現実的。だから夢見がちな父さんを夫に出来たんだな」
「そうそう」
白蓮は困ったように微笑みながら陣を解いた。
「じゃぁ、杏花。少しの間だが、ゆっくり過ごしなさい」
「うん。だらだらする」
「お、お店の手伝いをしてくれても、いいんだぞ?」
「うん、だらだらする」
父は諦めて母と共に店へと向かって行った。
「本当に手伝わないのか」
「冗談だよ。明日から手伝うつもり」
「さすが看板娘」
蒼蓮は杏花の頭を撫でると、商売人の顔をして店へと向かった。
翌日から本当に店に立ち、両親と扶桑の人々を喜ばせた杏花は、三日目の夕方、ある場所へと向かった。
街はたくさんの釣り灯篭で彩られ、昼とはまた違った美しさがある。
扶桑は大秦国でも有数の霊山、九天山の麓の森を開拓して造られた街。
その設計は当時の皇帝と扶桑の領主となる烏良大将軍が行った。
大切な兄弟分である蓬莱国天皇のために。
まさに要害堅固であり、難攻不落の城塞都市だ。
その中の一角、十八時以降未成年立ち入り禁止の区画がある。
「二時間くらい一緒に居られるかな」
顔なじみの門番に挨拶し、杏花は歓楽街へと足を踏み入れた。
同じ扶桑なのに、全く違う街並みと香り。
咲き誇る花々と白粉、薫香の匂いが混ざり合い、とても妖艶な雰囲気を作り出している。
そんな雅な街中でも一際大きく豪華絢爛な建物が、扶桑唯一にして最大の妓楼、芍薬楼だ。
妓楼には『百花王』と呼ばれる、才色兼備な最高級の妓女が一人いれば御の字という状況において、芍薬楼には三人の百花王が在籍している。
艶麗な白薔薇、優美な白牡丹、清楚な白百合。
杏花は入り口で掃除をしている禿に声をかけた。
「久しぶり」
「あ! 杏花姉様! お姉様たちがお待ちですよ」
「もう上がっていいの?」
「杏花姉様なら身支度中でも歓迎ですよ」
「わかった。行ってくる」
杏花は中へ入り、忙しく開店準備をしている顔見知りの従業員達に「おかえり、杏花ちゃん」と声を掛けられながら、最上階へと階段を上って行った。
支度室から華やかな声が聞こえる。
その前に立ち、そっと声をかけた。
「お姉様達、入っても?」
返事を待つ間もなく、勢いよく障子が開き、中からまだ幼さの残る顔立ちをした美女が三人出てきた。
「杏花! おかえりぃ!」
「何よ、蒼蓮の奴。杏花が帰ってきているのなら配達の時に教えなさいよね」
「本当、幼馴染の美女たちを何だと思っているのかしら。杏花と朱蓮はみんなの妹弟なのに」
杏花よりも背が高く、そして、杏花には無い豊満な女性的美貌を持ち合わせている彼女たちが目の前で動くと、同性だが、目のやり場に困る。
「お、お姉様方、前開き過ぎですよ……」
「女将さんが『最近風邪が流行っているから』って、火鉢を増やすんだもの。暑くて」
「星辰薬舗に行けばすぐ治るのだから平気よね」
「あら、喉が傷んでその可愛い声が出なくなったらどうするのよ」
会話が止まらない。
すると、杏花の後ろからまさにその女将が現れた。
全盛期の凄艶さを思わせる立ち姿に、思わず見とれてしまう。
「ちょっとお嬢さんたち、杏花に立ち話をさせるつもりなの?」
「あ、そうだった」
「入って入って」
「座りましょ」
杏花は中へと通され、ふかふかの座布団の上に座った。
「桃花が、杏花から良い報告があるって聞いたのだけれど」
女将は目を輝かせながら杏花に尋ねた。
杏花の両親は芍薬楼の定期健診を請け負っているため、女将とは仲が良いのだ。
「あの、えっと……。瑞雲と」
まだ話している途中なのに、四人が飛びかかってきた。
「おめでとう!」
「やだぁ、泣けてきちゃうわ」
「初恋が実ったのね!」
「扶桑にも時々帰ってきてくれるよね?」
話が全く進まないし、その話も飛躍しているし。
でも、心から喜んでくれていることは伝わる。
「暑くて重くて目のやり場に困ります」
「あらあら」
四人が離れた後、杏花の三つ編みは髪が四方八方に飛び出し、ほどけかけていた。
「結い直してあげる」
女将が櫛と椿油を持ち、さっと直してくれた。
「じゃあ、私は仕事に戻るわね。三人はしっかり話を聞きながら準備しなさいよ」
「はあい」
「化粧なんてすぐですよぉ」
「恋の話を聞いた方が綺麗になれるもの」
女将は「まったく、うちの三人娘は……」と苦笑しながら部屋を後にした。
「で? 彼はいつ扶桑へ挨拶に来るの?」
「えっと、もう少し先かな」
「うちの歌劇見に来てくれる?」
「必ず連れて来るよ」
芍薬楼では、週に二回、全年齢向けの歌劇を上演している。
全ての役を女性が行うため、男装姿が壮麗だと大秦国内でも話題だ。
「彼のどこが好き?」
「や、優しくて……、もう、全部全部!」
「ちょっと、照れないで教えなさいよ」
次々と質問が飛んでくる。
それらに答えてへとへとになった杏花とは違い、三人は完全武装を終え、絶世の美女へと変身していた。
「わあ……」
どんな貴石なら、何の花なら、どの星なら、彼女たちに敵うのだろう。
「どう? 惚れちゃった?」
「もうとっくに惚れています」
この美しい姿を目にしたということは、もう帰らなければならない時間ということ。
「では、本日もお仕事頑張ってね」
「戦ってくるわね」
「何人の男が私達の美貌に落ちていくかしら」
「あら、女子だって掌の上よ」
まさに、出陣、という言葉がよく似合う。
攻められる側が勝つことはないけれど。
杏花は開いている窓から欄干を飛び越え、空に出た。
火照った頬に、冬の夜風が気持ちいい。
「新年は戦場で迎えることになるのか……」
朱蓮が悲しむだろうな、とか、街の人たちとお酒を飲んで顔が真っ赤になる父を母はいつものように横抱きにして連れ帰るんだろうな、とか、扶桑の若者達と吞んでいるはずが看病する羽目になる兄を来年は援護できないな、とか。
小さな幸せかもしれないけれど、そんな日常を息が出来なくなるほど大切に想っていて、愛おしくて、たまらない。
「だから、守るんだ」
月が輝く空に、杏色の星が瞬く。
消えることのない、希望を抱きしめながら。