何度か小競り合いはありつつも、法霊雅学は残すところあと三日となっていた。
最後の試験も終わり、最優秀者として瑞雲と菫鸞、茜耀の三名が表彰された。
「難しすぎるよ……」
杏花は座学の試験を思い返し、悲しくなった。
「まあまあ。金閣主には『法霊武門出身ではないのにここまで出来ていたら合格点ですよ』って言われていたじゃない」
菫鸞の笑顔が心に突き刺さる。
「それはみんなからすれば及第点ってことでしょう」
座学の試験に関していえば、莅月も若蓉も扶光も満点をとっている。
「杏花は武術演習で満点だったのだから、気にすることないよ」
莅月に頭を撫でられても、気分は晴れなかった。
もし蒼蓮だったら最優秀者に選ばれていただろう。
「なんだ、まだ落ち込んでいるのか」
如昴が呆れ顔で近づいてきた。
「満点の人にはわからないですよ、雷公子」
「武術の試験で七十人全員を打ち負かしておいてその態度はないだろう」
菫鸞との試合で武闘場の床を破壊してしまったことを思い出し、杏花は血の気が引いた。
そんな杏花を見て少なからず心配したのか、如昴は溜息をついた後、小さな声で言った。
「……茜耀も褒めていたぞ」
如昴がわずかに頬を赤らめ、杏花から顔をそむけた。
「あら、雷公子の婚約者様に褒めていただけたなんて! とても嬉しいですわ」
如昴は顔全体を赤く染めながら「だ、黙れ」と言い残し、立ち去って行った。
「茜耀姉さんと如昴兄さんが許嫁なのが有名だとは知らなかった」
杏花以外はみんなが知っていることらしく、昨日雑談の中で話題に出た時は思わず叫んでしまったほどだ。
「あの二人はお母様同士がとても仲が良くて、偶然、同じ日に同じ場所で産気づいて、数分差で出産したんだよ。産まれたのが男女だったから、その場で許嫁にすることが決まったんだって」
菫鸞は、耳まで赤くしたまま歩いて行く如昴を見ながら微笑んだ。
「気付かなかったことが悔しい。茜耀姉さんとお茶をしていると、高確率で如昴兄さんが話しかけてきたのに……。あの二人、全然顔に出さないんだもの」
「産まれた時から許嫁で、法霊武門の会合でも常に隣の席。お互いの家が剣術を伝統武術としていて、合同演習もよくしていたら、もう夫婦みたいな関係になっちゃうんじゃない?」
「あの態度はそっけないんじゃなくて、特に会話しなくても相手のことが手に取るようにわかってしまうってことなのね」
「まあ、杏花と瑞雲はある意味特殊だから」
瑞雲が頷いている。
「そんなことより、あと三日だよ? みんな帰っちゃうんだよ? 私は寂しくてたまらない」
菫鸞が杏花の腕を抱きしめながら泣き真似をし始めた。
「いつでも、文字通り飛んでくるから。まあ、扶桑は少し遠いけれど、兄の白龍ならその日のうちに到着できるし。配達の時にでも着いて行くよ」
「絶対? 絶対?」
「か、可能な限り」
杏花の困ったような表情を見た菫鸞は、左右を歩く二人にも泣き真似を披露した。
「瑞雲は? 莅月は?」
莅月は苦笑しながら答えた。
「あ、うん、可能な限り」
瑞雲はいつも通り、正直に答えた。
「可能な限り」
「三人とも、全然心がこもってないじゃない!」
可愛く喚く菫鸞を慰めながら、杏花はこちらに気付いて近付いてくる二人に手を振った。
「若蓉兄さん、扶光兄さん」
どうやら杏花達のことを探していたようだ。
小走りで駆け寄ってきた。
若蓉も、どこか寂しそうな笑顔をしている。
「また、会えるよね?」
杏花は笑顔で「もちろん」と口にしたが、それは若蓉の隣で作り笑顔をしている扶光への牽制でもあった。
それに気付いたのだろう。
扶光が一歩杏花の前に出た。
「欒山まで来てくれるのかな」
「行ってもいいの? 扶光兄さん」
「杏花なら大歓迎だよ」
「ありがとう。絶対に行くね」
何も知らない若蓉は、「本当? ふかふかのお布団用意しておかなくちゃ」と喜んだ。
「あのね、欒山は雪が……」
若蓉が地元の説明をしようとしたその時、藤陵 鳳氏の門弟三人が近付いてきた。
「莅月お嬢様、若様がお待ちです」
「え……、兄上が? どうして?」
莅月の戸惑いをあえて無視したのか、莅月の背を優しく押すように連れて行ってしまった。
「何なの」
杏花が追いかけようとすると、今度は煌風 音氏の門弟が五人やって来て、「若様方が皆様をお呼びです」と告げた。
「行かないとどうなるの?」
瞳が光っている杏花を下がらせ、菫鸞が尋ねた。
「雪二公子、困らせないで頂きたい。無理やりお連れしたくはありません」
「へえ。無理やり連れていける自信があるの? 不凍航路が誰の縄張りか、知ってるよね」
五人は左手に持っている刀に手をかけるも、菫鸞とその後ろにいる瑞雲と杏花を見て後ずさる。
すると、そこへ静姉弟と如昴がやってきた。
「音氏の礼儀作法はその程度か」
如昴が音氏の門弟たちを睨みつけた。
「あなた達が敵う相手じゃないのはわかっているでしょう」
茜耀の冷たい視線が威圧する。
「何が起こっているのか知る必要がある。そうだろ、杏花」
如昴が何を言おうとしているのか悟り、杏花は怒りを鎮めた。
「私達は己の意志で行くから、あなたたちは主の元へ戻りなさい」
自分達よりもはるかに強い茜耀の言葉に従うしかない音氏の門弟達は、逃げるように立ち去った。
「様子がおかしいの。うちの門下生も、雷氏の門下生も、みんな連れて行かれてしまったのよ」
「おそらく、雪氏と霖氏、霓氏もそうだろう。今日は雪宗主が不在だ。始めからこの日を狙っていたのかもしれない」
「どういうこと?」
杏花の質問に、柔桑が答えた。
「氷妃河に音氏と鳳氏の兵が集まっているんだ。その数は少なくない」
緊張が走る。
「父上が法霊武林全体を探っていたのだが、小さな武門のいくつかが裏切ったらしい。面目ない」
「仕方ないよ。富豪榜三位の鳳氏と八位の音氏が組んだのだもの。雷宗主のせいではない」
「その通りだよ、如昴兄さん」
杏花は微笑みながらも、指先が冷たくなっていくのを感じた。
「行こう」
瑞雲が杏花の背に触れ、頷く。
それだけで、心が落ち着いていく。
六人は音氏の門弟たちが向かった方向へ歩いて行った。
「……なんなの?」
たどり着いたのは裏山の登山口。
集められた門下生の周囲を、音氏と鳳氏の門弟が取り囲み、その前方には音兄弟と鳳兄妹が立っている。
莅月の目と頬が赤く掠れている。
「杏花、今は我慢するしかないのかも」
菫鸞が今にも飛び出していきそうな杏花を制止する。
「ようやく全員集まりましたね。では、音公子」
佳栄に促され、隆戦が風火輪で浮かびながら口を開いた。
「一月後、螢惑山で行われる、煌風 音氏主催の鬼幻祭祀に招待する」
杏花以外、皆の顔が強張った。
「我が父、音宗主と、盟友である鳳宗主の度重なる協議の結果、百年間行われてこなかった祭を復活させることとなった。これは法霊武林全体の結束を強め、脅威に備えることを目的としている。煌風までは音氏の兵士が護衛する故、安心して参加されよ」
瑞雲や菫鸞の目に怒りが見える。
場がざわつく中、隆戦はさらに続けた。
「此度の祭祀は法霊武林にとっては誉れである。そこで、その武勇を隣国まで知らしめたく思い、蓬莱国星辰王の娘、星 杏花殿も招待することに決まった」
視線が集まる。
瑞雲が剣に手をかけた。
菫鸞は拳と足に霊力花を纏わせ、今にも跳び上がり殴りつけに行きそうだ。
杏花は慌てて二人の前に立ち、「何かする前に、どういうことなのか教えて」と手を広げた。
「星殿が何もご存知ないのは生国が違うのだから仕方のないこと。霖二公子、雪二公子に代わり、鳳公子から説明を」
佳栄が指名され、莅月が声を出さず泣き出した。
妹のことなど何も気にならないといった様子で、佳栄は風火輪で浮かび上がった。
「ご説明いたします。鬼幻祭祀とは、鬼幻界との間にある結界を解き、こちらにやってくる悪鬼羅刹を一ヶ月間毎日討伐し、個々の能力を高めることを目的として行われていたものです。この度、その伝統を復活させることとなりました。各武門には目標討伐数を割り振り、それが達成されるよう努力を重ねてもらいます。戦術を見直し、隊列を組みかえ、法術と武術の精度を高めるなどですね」
そういうことか、と、杏花は前方へ振り向いた。
「ただ、困ったことに、星辰薬舗には門弟がいないご様子。医術師や薬術師のお弟子さんたちを同行させたところで……、足手まといですよね? そこで、星殿には音氏の兵から」
「必要ない」
杏花の声が響く。
瑞雲と菫鸞がその腕を掴み、杏花がその先に言うであろう言葉を遮ろうとするも、遅かった。
「一人で充分です」
こうなることがわかっていたのだろう。
隆戦と佳栄が嗤いながら頷き合った。
「さすがは医仙。そう言ってくれるだろうと……」
「杏花は私と共に戦場へ出る」
杏花の鼓動が跳ねる。
横を見ると、瑞雲がまっすぐ前を睨みつけている。
菫鸞は驚いて固まっている。
「霖 瑞雲、どういうつもりだ」
瑞雲は杏花に向かって微笑むと、隆戦を睨みつけ、言った。
「杏花と私は夫婦となる誓いを立てている。このことは私の兄上も、杏花の兄君も承知のこと。そのため、霖氏として参加することが望ましい」
何故か菫鸞が先に頬を紅潮させ、次に杏花が顔全体を赤く染めた。
「な……。ま、まだ祝言をあげたわけじゃ」
隆戦と佳栄が意表を突かれて言葉に詰まっていると、茜耀と如昴が一歩前へ出た。
「あら、私は如昴の許嫁として雷氏の席に座ることもよくあるけれど。あなた達も見たことくらいあるでしょう」
「杏花が霖二公子の婚約者として霖氏と行動するのは何も問題ない」
法霊武林でも影響力のある夜湖 静氏と紅葉山荘 雷氏の言葉に、その場にいる門下生たちが同意の声を上げ始めた。
「そうかよ……。そっちがそのつもりなら、いいだろう。許可してやる。だが、条件がある」
隆戦は佳栄に耳打ちした。
「では、星殿が霖氏と参加するに際し、こちらからの条件を提示いたします。霖氏には、星殿が討伐予定だった目標数を加算することとします」
杏花たち以外の皆が凍り付いたように、静まり返った。
「それならば、我々も文句はありません。若い二人の婚約を心からお祝いさせていただきます」
菫鸞が杏花と瑞雲を見る。
「大丈夫だよ、菫鸞」
杏花は笑顔で頷くと、「質問」と声を上げた。
「質問とは、何でしょう?」
佳栄の問いに、杏花は笑顔で答える。
「私達が目標討伐数を完遂したら、友達のところへ加勢に行ってもいいのでしょうか」
場が、騒めき始めた。
「はっ。そんな簡単に終えられると? いいでしょう。もしも完遂出来れば、好きな戦場へ行くことを許可します。いいですね? 隆戦」
「勝手にしろ。鬼幻祭祀のあと、生きて俺の前に現れることが出来たら、今までの非礼をすべて謝罪してやるよ」
高笑いが聞こえる。
「菫鸞なら大丈夫だとは思うけれど、でも、助けに行くよ」
「まったく……。二人とも、本当に困った親友だなぁ。祝言では私を一番前の席にしてよね」
「当たり前だよ」
瑞雲も頷く。
「そうだ、私も少しは牽制しておこうかな」
「梅園」と杏花が呟く。
白梅、紅梅、青梅の三人が、杏花と同じように瞳を杏色に光らせ、空中に現れた。
それを見た隆戦は、口元を歪め鼻で笑った。
「せいぜいその奴隷どもと頑張れ」
吐き捨てるようなその言葉は、杏花には届かなかった。
杏花を囲む友人達とのおだやかな会話が、悪意を遮ったのだ。