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第六集:歪み

 雅学二十日目、不凍航路ふとうこうろの上空に巨大な白龍が現れ、あたりは騒然となった。

 地面に影もないのに、空に浮かんでいる。

 龍は太陽の光を透化出来るため、影ができないのだ。

 唖然とした顔で空を見つめる門下生達をよそに、駆け寄る者が三名。

「どうもぉ! 星辰薬舗せいしんやくほでーす!」

 気の抜けた大きな声が降ってくる。

「お、お兄ちゃん!」

 杏花シンファ瑞雲ルイユン菫鸞ジンランと共に走った。

「おお! 杏花シンファ、元気かぁ?」

 白龍から降ってきたのは声だけではなかった。

 翡翠色の羽衣を纏った成人男性も一緒に、ゆっくりと地面へ降り立った。

「あ、シュェ宗主と……、琅雲ランユンじゃぁん!」

「お久しぶりです、蒼蓮ツァンリィェン兄さん」

 糸目で笑い顔。

 髪は杏花シンファと同じく、一本の三つ編みに結い、背中に垂らしている。

 深緑色の深衣しんいがよく似合うこの男性は、星辰薬舗せいしんやくほの若旦那、シン 蒼蓮ツァンリィェン

「白龍縮めますねぇ」

 蒼蓮ツァンリィェンが「白龍、おいでぇ」と言うと、嬉しそうに目を細めた巨大な龍がシュルシュルと小さくなっていき、その体にくくりつけている木箱と共に降りてきた。

「お久しぶりです、杏花シンファ様」

 杏花シンファの身体の周りを一周し微笑む白龍は、とても神龍には見えない。

 蒼蓮ツァンリィェンが生まれた瞬間にこの世界に現れた青龍の息子、白龍は、蒼蓮ツァンリィェンを寵愛し、付き従う龍神となる特別な存在。

 蒼蓮ツァンリィェンと同じ二十一歳のため、龍からすればほんの赤子。

 まだまだ甘えたい盛りだ。

「配達ご苦労様です」

 青鸞チンルゥァン菫鸞ジンランは興味深そうに白龍を見つめている。

「いえいえ! 薬舗の激務から解放されるので、この仕事は大好きですぅ。……もしかして、そちらの美青年は……、瑞雲ルイユン?」

「はい」

杏花シンファとはどうなったの?」

「一生守ることで合意しました。近々ご挨拶に伺います」

「お、おお……。杏花シンファおめでとう! 兄より先に結婚するつもりなのは寂しいけれど、お前が幸せならいいや。あ、後で診察するからなぁ」

「あ、うん」

 「では早速、薬房をみせていただきますねぇ。ちゃんとしたご挨拶は後でしまぁす」と、木箱を白龍に持たせ、待機していた不凍航路ふとうこうろの侍医とともに歩いて行ってしまった。

「相変わらず、突風みたいな方だ」

「うちの兄がすみません」

 杏花シンファは苦笑しつつも、誇らしげな笑顔を浮かべた。

 天才型の蒼蓮ツァンリィェンは、教わったことは一度で完璧に再現できた。

 それが刀術でも、医術でも、薬術やくじゅつでも、仙術でも、陰陽術でも。

 杏花シンファにとって、自慢の兄だ。

「わあ、わあ、素敵ですね。ねえ、菫鸞ジンラン

「そうですね! 兄上」

 シュェ兄弟は子供のようにはしゃいでいる。

「喜んでいただけて、白龍も気分がいいと思います」

「ご家族皆さん従者をお持ちなのですか?」

 青鸞チンルゥァンは好奇心に満ちた目で杏花シンファに尋ねた。

「母は医仙いせんなので従者はいませんが、父と私達兄弟にはそれぞれいます」

 父、白蓮バイリィェンは金烏、玉兎という武神の御使いみつかいを従えている。

 兄、蒼蓮ツァンリィェンは白龍。

 杏花シンファは梅園と呼ばれる三名の従者がいる。

 刀術と医術を司る白梅、弓術と守護を司る紅梅、隠密と浮遊、そして災禍を司る禍津鬼神まがつきしんの青梅。

 青梅の真名は杏花シンファしか知らない。

 弟、朱蓮ヂュリィェン空狐くうこと呼ばれる神の御使いである九尾の狐、鴉雛あすうを。

「陰陽術師であれば七歳までに従者を得ることが出来ます」

「わあ、わあ、素敵」

「わくわくしますね、兄上」

 シュェ兄弟は両手を合わせて跳ねている。

「単なる奴隷じゃねぇか」

 隆戦ロンヂャン佳栄ジャロンと取り巻きを従えてすぐ横を通って行った。

ひがまなくてもいいのに」

 菫鸞ジンランは「困った奴らだなぁ」と可愛い顔を顰めた。

「まあ、陰陽術は法霊武林ほうれいぶりんでは邪術だから。気にしてないよ」

 五人が話しているところへ、珍しい人物が近付いてきた。

「あの、素敵ですね。その、兄君の龍……」

 勇気を出して話しかけてきてくれたのか、頬がとても紅潮している。

 まるで寒い場所から暖かな室内へ移ったばかりの少女のようだ。

ニー公子若君! ありがとうございます。後で直接白龍に言ってあげてください。とっても喜ぶと思います」

「え、え、お話ししてもいいのですか?」

 顔がぱっと明るくなる。

 まるで花が咲いたように。

「もちろんです」

 若蓉ルォロンと話すのは今日で二回目。

 一度目は一昨日の午後、どこかの門下生にわざと肩にぶつかられ、転んだところを助けた時。

 義弟の扶光フーグゥァンが怒り、その門下生にくってかかろうとしているのを瑞雲ルイユン菫鸞ジンランが止め、杏花シンファ莅月リーユェ若蓉ルォロンを近くの椅子まで避難させた。

シン殿、私も義兄上あにうえと一緒に白龍と接しても良いでしょうか」

「大歓迎です」

 扶光フーグゥァン若蓉ルォロンの手を握り、「義兄上、楽しみですね」と微笑んだ。

(本当に、とても仲良しだ)

 周囲は若蓉ルォロン扶光フーグゥァンを比べたがるが、本人達はまるで気にしていないようだ。

 常に一緒に行動し、扶光フーグゥァン若蓉ルォロンを守っている。

 ただ、少しその行動がいき過ぎているのか、若干話しかけづらいと思うこともない。

「あ、莅月リーユェ姉さん!」

 亜麻色の髪をなびかせながら、笑顔で駆け寄ってきた莅月リーユェ

「薬房を手伝っていたら、いきなり白い龍を連れた明るい男性が入ってきて驚いちゃった」

「うちの兄がすみません……」

「え! 杏花シンファのお兄さんなの? あんまり、というか、似てないんだね」

「うちは兄弟三人とも似ていないんだ」

「そうなんだ。うちと一緒だ」

 少し悲しげな表情で微笑む莅月リーユェは、遠くでたむろしている双子の兄の変化に戸惑っているようだ。

杏花シンファ、診察の時間だぞぉ」

「お疲れ様」

 蒼蓮ツァンリィェンが笑顔で戻ってきた。

「その前にみんなが白龍と触れ合いたいって。お兄ちゃんはシュェ宗主とリン宗主と話してきたら?」

「そうするかぁ。じゃ、白龍をよろしくぅ」

 蒼蓮ツァンリィェンは白龍に「後で迎えに来るからねぇ」と言い、宗主達とその場を後にした。

「皆さん、白龍と遊んでくれるんですか?」

 白龍はとても嬉しそうだ。

「鱗があるので少し硬いですが、鱗と同じ方向に撫でてくだされば、白龍はとても嬉しいです」

 その場にいる皆が「え、撫でてもいいの?」と驚きつつ白龍に触れ出した。

「わあ、ひんやりしているんだね」

 菫鸞ジンランは白龍に触れながらその体がどうなっているのか興味深く観察している。

「私達の手が熱すぎて痛くなったりしないの?」

 莅月リーユェは心配しながらそっと撫でている。

「人間の体温なら何ともありませんよ。それどころか、溶けた鉄程度なら耐えられます」

「わ、すごいんだね」

 莅月リーユェは安心したのか、白龍の頭を撫で始めた。

瑞雲ルイユン様は杏花シンファ様の夫になるのですか?」

「そうだ」

「じゃあ、白龍のことも大切にしてくださいますか?」

「もちろんだ」

 瑞雲ルイユンは周囲からは見分けがつかないほど微かに微笑んだ。

 杏花シンファ瑞雲ルイユンの嬉しそうな表情に、幸せを感じて心がくすぐったくなった。

「そちらのお二人、もっと撫でていただいて大丈夫ですよ」

 若蓉ルォロン扶光フーグゥァンは子供のような笑顔を浮かべ、白龍に触れた。

 そうして過ごしていると、白龍の髭が空に向かって持ち上がった。

「あ、蒼蓮ツァンリィェン様が白龍を呼んでいるようです。皆さん、また今度遊んでくださいね」

 白龍は満足そうな表情で蒼蓮ツァンリィェン達が歩いて行った方向へ飛んでいった。

「可愛かったね」

 若蓉ルォロン扶光フーグゥァンに微笑みかけると、彼はまた義兄の手を握った。

「白龍に触れている義兄上がとても可愛らしかったです」

 杏花シンファは何とも言い難い違和感を覚えた。

(血が繋がっていないのだから、別におかしくはないけれど……)

 扶光フーグゥァン若蓉ルォロンを守っているというより、精神的に軟禁しているような、そんな印象を受けた。

 杏花シンファは試しに誘ってみることにした。

ニー公子若君、この後お茶しませんか?」

 やっぱりだ、と杏花シンファは思った。

 扶光フーグゥァンが一瞬攻撃的な視線を向けてきたのだ。

「い、良いですよ」

「じゃぁ、莅月リーユェ姉さんも一緒に」

「私達は?」

菫鸞ジンラン瑞雲ルイユンニー公子若君を連れて鍛錬でもして来たらいいよ」

 「良いもん、鍛錬好きだもん」と、菫鸞ジンラン瑞雲ルイユン扶光フーグゥァンを連れて武闘場へと向かって行った。

 おそらく、杏花シンファの意図を汲み取ってくれたのだろう。

 扶光フーグゥァンは何度も振り返り、「後で迎えに行きますから」と若蓉ルォロンに告げた。

「仲が良いんですね」

「はい。扶光フーグゥァンが養子に来てくれた時からずっとああやって守ってくれて……。大事な義弟おとうとです」

「ねぇ、名前で呼び合わない?」

 莅月リーユェの提案に、杏花シンファ若蓉ルォロンも頷いた。

「じゃぁ、莅月リーユェ姉さん、若蓉ルォロン兄さん、中庭へ行こう」

 杏花シンファが二人の手を取り、歩き出した。

 ちょうど中庭には他に人がおらず、一番よく景色が見られる場所を確保できた。

 椅子に座り、一番に口を開いたのは意外にも若蓉ルォロンだった。

「お、お二人はいつ仲良くなったのですか?」

 杏花シンファは「紅梅、お茶の準備をお願いしてもいい?」と召喚しながら若蓉ルォロンを観察し始めた。

「えっと、雅学が始まって一週間経った頃だっけ」

「そうそう。莅月リーユェ姉さんが滝のところで落下しそうになっていたのを助けたんだ」

「あの時は、どこの貴公子が抱きかかえてくれたんだろうってときめいちゃった」

「私でごめん……」

「貴公子よりも、もっともっと嬉しかったよ」

 杏花シンファに向かって優しい笑みを浮かべる莅月リーユェを、若蓉ルォロンは羨ましそうな表情で見ている。

杏花シンファの羽衣姿は本当に綺麗で格好良くて……。抱きかかえた私に向ける視線も、こう、表現が難しいのだけれど……、慈愛というか、とにかく優しいの。若蓉ルォロンもどこかから落下すれば杏花シンファが助けに来てくれるよ」

「え、ええっ」

莅月リーユェ姉さん、変なこと吹き込まないでよ」

 杏花シンファ若蓉ルォロンを見ると、彼も杏花シンファの方を見ていた。

「……若蓉ルォロン兄さん、もし良ければ抱えて飛ぼうか」

「い、いいよ! そんな……、め、迷惑だろうし。それに、あの、リン公子若君が……」

瑞雲ルイユンは大丈夫。私の紳士的振る舞いについてはもう気にしていないみたいだから」

 杏花シンファは立ち上がり、若蓉ルォロンに手を差し出した。

「あ、じゃぁ……」

 杏花シンファの手に手を重ね、若蓉ルォロンが立ち上がる。

「では、失礼」

 若蓉ルォロンの身体がふわりと浮いた。

「あ、わあ……」

 すでに杏花シンファの腕には若蓉ルォロンが横たわっている。

「上昇し、少し円を描くように飛びながら着陸するから。しっかり抱かれていてね」

「は、はい……」

 太陽が傾き、地平線を目指して沈み始めている。

 杏花シンファは天空目指して飛び上がった。

「綺麗だ……」

 若蓉ルォロンは涼やかな風を肌に感じながら、目の端に揺れる翡翠色の羽衣と橙色に染まりかけている空の色を眺めている。

「寒くない?」

「大丈夫。杏花シンファが、その」

「今日は体調が良くて。体温がまともなの」

 杏花シンファが微笑みかける。

 若蓉ルォロンの目が精巧な硝子細工のように煌めいた。

「では、ゆっくりと降りて行きますよ、公子若君

 莅月リーユェが言っていたのはこのことか、と、若蓉ルォロンが感じた瞬間には、すでに頬は今までにないほど熱を帯び、夕陽を背負い飛び続ける貴公子に見惚れてしまっていた。

 扶光フーグゥァンよりも美しい人は知らなかったのに。

 風が二人の身体の周りを巡り、その音が空からの祝福のように聞こえる。

 気付けば、地面はすぐそこ。

 ふわりと着地した杏花シンファから向けられた笑顔は、二度と忘れることはないだろうと、若蓉ルォロンは羨望を覚えた。

 ゆっくりと地面に足を着け、自分よりも背の低い、可愛い女子おなご杏花シンファを心から格好いいと感じた。

「お疲れ様。さぁ、温かいお茶で冷えた身体を癒さないとね」

「本当に、素敵な体験をありがとう」

「またいつでも」

 莅月リーユェが「素敵だったでしょ」と若蓉ルォロンと感想を共有している。

 そこへ、蒼蓮ツァンリィェンと二人の宗主がやってきた。

 杏花シンファシュェ宗主とリン宗主に作揖さくゆうすると、蒼蓮ツァンリィェンに視線を向ける。

杏花シンファ、診察の時間だよ」

「わかった。じゃぁ二人とも、また後でね」

 莅月リーユェ若蓉ルォロンに見送られ、シュェ宗主が用意してくれた客間へと向かった。

「何を話していたの?」

「お二人がレイ宗主から密書を受け取って。その内容のことをね」

 客間へ入り、お互い向かい合うように座った。

 蒼蓮ツァンリィェンが右手で杏花シンファの手首に触れ、左手から伸ばした霊力花でその身体を包む。

「……いつも通り、あまり良くはない。ただ、修練は続けているみたいだな。霊力の調和も、仙力せんりょくの流れにも澱みがない。合格点だ」

 普段の兄。商人としての口調ではない。

「霊力で戦ったんだって?」

 杏花シンファの肩が跳ねた。

「挑発に乗るな。吐血だけで済んだのは幸運だったと思え。白龍のおかげで俺はすぐに駆けつけられるけど、もし間に合わなかったら? お前が倒れたら悲しむ人達がいることを忘れるな」

「わかった」

 蒼蓮ツァンリィェンの瞳が青く光る。

 怒っているというよりは、杏花シンファの軽率な行動を悲しんでいるのだろう。

「もうしない。挑発にも乗らない」

「そうしろ」

 杏花シンファの身体を包んでいた延齢草えんれいそうの霊力花が蒼蓮ツァンリィェンの左腕へと戻っていく。

 解放された手首をだらりと下げ杏花シンファはため息をついた。

「なんだなんだ、お兄様じゃ不満か」

「違うよ。どうせ薬が増えるか成分が強力なものに変わっているか……。そうなんでしょ?」

「その通り。父さんと母さんも、特に朱蓮ヂュリィェンがお前を心配している。お姉ちゃんはいつ帰ってくるのって、ほぼ毎日聞いてくるからな。もちろん俺も心配している」

「あはは。ありがたい」

 蒼蓮ツァンリィェンは苦笑しながら、白龍の口から大きな薬箱を取り出した。

「増えてはいないが……。まあ、劇薬ってとこだな。この薬は霊力の弱い人間が飲めば錯乱する。こっちは心臓発作。で、これは一週間くらい眠ったままになるだろうな。だから酒類は厳禁だぞ。飲み物は必ず確認してから飲め。酒を盛られたら身体が痺れて感覚が鈍るからな」

 とても薬とは思えないようなものが詰まった瓶を、それぞれ二本ずつ、計六本受け取った。

「これは朝晩。これは昼だけ。わかっているだろうが、必ず空腹時に飲めよ。それと……」

 蒼蓮ツァンリィェンは真紅の小瓶を取り出し、杏花シンファに見せた。

「緊急用だ。どうしても自分の力では抑えきれず、さらには二時間以内に俺が駆けつけられない場合にのみ、一錠服用しろ」

 「白梅を呼べ」と言われ、杏花シンファは白梅を召喚した。

蒼蓮ツァンリィェン様」

「この小瓶は白梅が管理するんだ。他の薬もどうせ白梅が杏花シンファに飲ませているんだろうとは思うが、この小瓶に入っている丸薬だけは簡単に杏花シンファに飲ませるな。あくまで緊急用。無理も無茶もさせないでくれよ」

「かしこまりました。杏花シンファ様では取り出すことのできない、私専用の薬棚にしまっておきます」

 梅園はそれぞれ積載量の違う小神域しょうしんいきを持っており、その中には様々なものが収められている。

 白梅なら医術道具や、百味箪笥などの薬術やくじゅつ関連のもの。

 紅梅は一番積載量が多く、杏花シンファの着替えや、日用品、携帯食料、簡易的な衛生用品、体調を整える白い衣『霊仙衣れいせんい』の替えなどをしまっている。

 青梅に関しては積載量が殆ど無く、『とばり』という存在感を消す術に使う大きな布を持っているだけ。

杏花シンファ、必ず無事でいろ。お兄ちゃんとの約束だ」

「うん。約束する」

 蒼蓮ツァンリィェンは大きく息を吐き出し、「まったく、うちの妹は……」と微笑んだ。

「ねぇ、さっきの密書の話は?」

「ああ、なんとなんと、イン氏の密偵が扶桑ふそうに向かっているそうだ。もう到着しているんじゃないか?」

「え、なんで?」

 頭に家族、街の人々、芍薬楼が思い浮かんだ。

イン公子若君はお前にコテンパンにされたことが相当悔しかったんだろうな」

「嘘でしょ⁉︎ そんなくだらない理由で?」

 怒りを通り越して呆れてしまう。

「んなわけないだろ。イン氏は元から残りの神器をどこの家が持っているのか探りに息子たちを送り込んだんだよ、不凍航路ふとうこうろにな」

「どうして?」

「どうやら、鏡の破片を全部持っているらしい」

「え」

 鏡のかけらは四方に飛び散ったはず。

 偶然でそれらが揃うわけがない。

イン氏はずっと昔から神器を狙って各武門ぶもんを監視していたってこと?」

「だろうな。鏡の器が不凍航路ふとうこうろにある、と、鏡が飛来するに至った地点を割り出したんだろ。でも実際にはもう盗まれているし。そこまで知らなかったのだから、盗んだ奴とは今のところ手は組んでいないんだろうよ」

「でも、じゃぁ……、なんで扶桑ふそうに?」

「現在御史台を仕切っている御史のリン侯殿の孫が、イン氏の配下にあたる良家の娘を娶っている。家族の何気ない会話や、祖父を訪ねて皇宮へ行った夫から、蓬莱国ほうらいこくとの繋がりや星辰薬舗せいしんやくほのことを探ったんだろうな」

「陛下も側近とはいえ官僚の孫の嫁にまで干渉しないし、調べることもないだろうから仕方ないね。扶桑ふそうのみんなは大丈夫なの?」

「おいおい我が妹よ。扶桑ふそうの領主が誰だか忘れたのか」

「あ……、そうか」

 扶桑ふそう領主、烏良ウーリィァン氏は八代に渡り北の国境線を守ってきた一品軍侯の家系であり、領主本人も三十年前まで前線に立ち、その武勇を示していた武人である。

 さらに、その身体にはシン家同様、扶桑ふそう発祥の五葉ウーイェ族の血が流れている。

「すでに烏良ウーリィァン侯には父さんが警告している。イン氏が何人密偵を送り込んでこようとも、俺たちの誕生日くらいしか調べられないさ」

「心配いらないってことだ」

「その通り。じゃぁ、俺は帰る。雅学最終日に迎えに来るから、可能な限り健康でいろよ」

「うん。ありがとう」

 二人は客間を出て宗主達がいる部屋へ向かった。

「お、兄妹の会話は進みましたか」

 琅雲ランユンが立ち上がり、微笑んだ。

「次は朱蓮ヂュリィェンも一緒にいらしてください」

 青鸞チンルゥァンも腰を上げ、もう帰ってしまう蒼蓮ツァンリィェンに名残惜しそうな視線を向けた。

「また来ます。弟は飛べるのに高所恐怖症で……。なんとか言いくるめて連れてきますねぇ」

「ふふ。お待ちしております」

 四人で外へ出ると、杏花シンファの友人達が待っていた。

「お見送りしようと思って」

 菫鸞ジンラン瑞雲ルイユン扶光フーグゥァンの腕を掴み、その横に若蓉ルォロン莅月リーユェが目を輝かせながら立っている。

菫鸞ジンランは白龍が見たいだけでしょう」

「兄上、それを言ってはいけませんよ」

 あたたかな笑い声が広がっていく。

「では皆さん、私の可愛い妹をよろしくお願いしますねぇ!」

 勢いよく舞い上がった白龍の身体へ向かい、蒼蓮ツァンリィェンは地上へ手を振りながら飛んでいった。

杏花シンファ

 少し寂しそうな杏花シンファの横顔。

瑞雲ルイユンはゆっくり近付き、隣に立った。

「これくらいで揺らいでいたら、お嫁になんていけないよ」

 微笑む杏花シンファの手を握り、瑞雲ルイユンはみんなには聞こえないほど小さな声で言う。

「お互いがお互いの居場所であれば、それがどこでも構わない。離れて過ごさなくてはならない日があっても、私は杏花シンファが安全で幸せならば、それでいい」

 本心なのだろうけれど、瑞雲ルイユンの目は正直だ。

 切ない目が、あまりに可愛い。

「私のこと大好きだね」

「当然だ」

 幸せそうに微笑む二人を見つめ、莅月リーユェは心から羨ましいと感じた。

 莅月リーユェが幼い頃から恋をしているジン 柔桑ロウサンは、とても優しくて楽しくていつも笑顔にしてくれるのだが、それは何も莅月リーユェが特別だからではない。

 柔桑ロウサンはどんな女性も笑顔にする。

 誰の特別にもならず、なろうともせず。

「いいなぁ……」

 莅月リーユェがそう言った瞬間、誰かの声が重なった。

 振り返ると、それは若蓉ルォロンだった。

 いつの間にか扶光フーグゥァン若蓉ルォロンの手を引き、まるで隠すように立ちはだかっていた。

 とても悲しそうな目で若蓉ルォロンを見つめている。

 そして、莅月リーユェは次の視線にとても驚いた。

 扶光フーグゥァンが、杏花シンファ瑞雲ルイユンを殺意のこもった目で見たからだ。

 瞬きほどの時間。でも、目撃するには十分だった。

 秋風が通り抜ける。

 まだ冬の気配はしないのに、それはやけに冷たく、痛みを伴った。


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