──殺生禁断之事、於寺内射弓放鉄砲事
これは、永禄元年 (一五五八年) 一二月一五日に
意味は寺内での殺生の禁止となる。
御屋形様は甲斐武田家当主であると同時に甲斐国守護でもある。不入権を持つ寺で、人が殺められないようにと求めるのは何らおかしき事ではない。
但し、そこに「射弓放鉄砲事」の文言が加わると目的が変わってくる。加えて此度の禁制には、別項目にて「寺家中町中」と「寺中並町中之事」と適用範囲を寺内から町中にまで拡大をしていた。
つまり内容は、身延山久遠寺の僧侶達を守るものではない。目的はその逆とも言える武装解除を求めるものだ。弓や鉄砲を用いて人を殺めるというのは戦を示しており、そしてそれを禁じるという事は、戦に使う武具を凍結せよという意味に他ならない。
よって此度の禁制は、身延山久遠寺に対して反抗をするなと強く求めたものとなる。
何ゆえ御屋形様が身延山久遠寺に対してこのように強い態度に出るのか。それはある事件が発端となっている。
甲斐国は元々日蓮宗徒の多い国である。甲斐国内にある身延山久遠寺が日蓮宗の総本山であるゆえ、そうなるのは当然であろう。事実、身延山に近い下山に居館を持つ我が
だが甲斐武田家中全体で見れば、その限りではない。
甲斐武田家の菩提寺は禅宗であり、また先代当主の
そう。日蓮宗のお膝元とも言えるこの甲斐国では、近年浄土宗や一向宗の勢いが盛んだ。禅宗ならまだしも、一向宗が甲斐武田家の政権中枢に入り込んできている。
日蓮宗と浄土宗・一向宗はすこぶる仲が悪い。そうでなければ甲州法度次第の条文に喧嘩の禁止が書かれるという事は無いであろう。しかも御屋形様が保護という形で火に油を注ぐような真似をする。これでは身延山久遠寺の僧達が、御屋形様を快く思わないのも当然であった。
そんな状況の中、御屋形様がまたもや身延山久遠寺を逆なでするような真似をする。
何と永禄元年の九月に阿弥陀如来像を甲斐国へ持ち込み、同年一〇月からは甲斐国内に新たな善光寺の普請を始めたのだ。甲斐国を善光寺の本拠とするのだという。
永禄元年一二月一五日に身延山久遠寺に禁制が発給されたのは、このような事情が背景となる。
儂自身はこの御屋形様の決定を支持している。善光寺の力は大きい。それが甲斐武田家の力となるなら歓迎すべきである。当然ながら甲斐の民達もこの決定に大いに喜んでおり、更に甲斐国が発展すると期待している。
──だが、それが理由で身延山久遠寺は反対をしている。
当然ながら甲斐国の没落を身延山久遠寺が望んでいる訳ではない。発展は望ましいという態度だ。
──但し、身延山久遠寺の力が落ちるのを僧侶達は望んではいない。
何ゆえ善光寺の創建が身延山久遠寺の力を落とすのか。それは甲斐国内での日蓮宗信者の減少……ではなく、物流の変化となる。
越後長尾家との川中島の戦いは、この善光寺の利権を巡る争いと言えるだろう。我が甲斐武田家は商都の獲得を目指し、対する越後長尾家は
しかしながらこの戦いは、弘治三年 (一五五七年)に最低最悪の形で一つの結末が訪れる。
まず越後長尾家が善光寺の仏像・仏具の一部を持ち去り、直江津に如来堂を建立した。
次に我が甲斐武田家は、本尊の阿弥陀如来像を含む残りの仏具を全て甲斐へと移し、善光寺関係者及び門前町関係者も全て甲斐へと移住させた。
最後は信濃国の善光寺周辺に住んでいた民の内は、ある者は越後へと移り、またある者は甲斐へと移り、またある者は信濃にそのまま留まる。
要するに信濃国にあった善光寺は商都としての機能を失うだけではなく、民も三カ国に分かれ、消費地としての旨味も無くなった。甲斐に新たな善光寺を創建するとは言え、税として期待できる額は元の善光寺には届かぬであろう。
残ったのは、甲斐武田家と越後長尾家との深い因縁のみとなる。
ここまで来れば分かる。信濃にあった善光寺とその門前町そのものがやってくるとなれば、甲斐に新たに創建される善光寺や門前町に集まる物資は以前と同じ取引先からやって来よう。それは身延山久遠寺が押さえる富士川の関を通るとは考え難い。
入手先が変わるのは唯一塩くらいではなかろうか? 越後長尾家の力の源泉の一つでもある塩の取引が無くなれば、大きな痛手となろう。だがそこは我が御屋形様の事だ。甲斐国での身延山久遠寺の影響力を落とすためにも、敢えて今まで通り直江津から塩を取り寄せて新たな善光寺に運び込ませるやもしれぬ。
それというのも、富士川下流に位置する駿河今川家は、過去二度ほど路地を封鎖して甲斐国への荷止めを行っている。結果、当時の甲斐国は穀物価格が急騰して多くの餓死者を出した。その教訓を生かすためにも、富士川や駿州往還といった駿河国からの物流のみに頼るのは自殺行為と言えるだろう。
御屋形様が諏訪の地を直轄支配するのも、全ては塩の流通を握るためだと言っても過言ではない。諏訪大社の裏の顔が地域の塩の流通を握る組織だと御屋形様より聞かされた際、儂は開いた口が塞がらなかった。
同じく信濃国にある仁科神社などは、地域の塩の流通は全て仁科神社にて管理すると言って憚らない。
甲斐国及び信濃国は海に面していない内陸の国である。だからこそ御屋形様は、殊更塩を含む物資の流通に配慮を欠かさぬのだ。
しかしそれは、身延山久遠寺の収益とは相反する。僧達は「諏訪領の併呑の際に十分譲歩したというのに更に追い討ちをかけるのか」として、善光寺創建に対して明らかな反発をしている。中には信徒を率いて普請そのものを邪魔しようとする僧すらいたという話だ。
日蓮宗は元々他宗派に対しての攻撃性が高い。しかもそれが身延山久遠寺の収益に関わるとなれば、過激な言動も多くなるというのは自明の理である。
それ故、御屋形様は禁制を発給せねばならなくなった。しかも武装解除までをも求める厳しいものを。これを破るなら、身延山久遠寺は甲斐武田家と敵対するがそれで良いかと問いかけたのが、此度の禁制が発給された真意となる。
これにより、身延山久遠寺は表面上大人しくせざるを得なくなった。
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身延山久遠寺が大人しくなったのはあくまで表面上となる。彼らは思い出してしまった。現御屋形様である武田 晴信様がどのようにして甲斐武田家の当主となったのかを。
そう、御屋形様は先代の武田 信虎様を追い出して当主に就任した。
この最も大きな原因は飢饉にある。武田 信虎様が追放となる前年の天文九年 (一五四〇年)には日ノ本各地で飢饉や流行り病が起こり、多くの民が亡くなった。現御屋形様は徳政を期待されて当主となったのだ。
それを思い出させたのは、善光寺の普請に取り掛かった翌年の永禄二年 (一五五九年)に起きた永禄の大飢饉であろう。身延山久遠寺の僧侶達は思った筈だ。これで仏敵 武田 晴信は追放され、新たな秩序の元正しい道にこの甲斐国は進んで行くと。
だが、その目論見は大きく外れる。
御屋形様は出家し、武田 信玄と名を変えて代替わりに近い演出を行った。先代の武田 信虎様の時のような追放は起こらずじまいとなる。
これで諦めれば良いものの、身延山久遠寺の僧侶達は次の手を打つ。
此度は仏のみに頼ったからこそ、仏敵 武田 晴信には仏の道で対抗された。お釈迦様はとても寛大な存在だ。出家してこれまでの罪を償うというなら、罰は与えぬであろう。その寛大さが裏目に出たと言える。
ならば甲斐武田家の問題は、その中で解決をさせれば良い。そう考えたかどうかは分からぬが、僧侶達は協力者を求めた。
──同じく富士川利権で財を成している我が穴山家と飯富家へ。
両家は家中がほぼ日蓮宗信者だというのも、大きく影響しているだろう。同じ信者なら秘密を漏らさぬ筈だと。
「儂は身延山には加担せぬ。ただその気持ちは分かるゆえ、御屋形様への告げ口は行わぬとしよう。身延山の行動は見て見ぬふり致す」
気持ちは分かる……か。よくぞこのような出まかせが言えたものだと自身でも不思議に思う。
正直な気持ちでは僧侶達と御屋形様では器量が違い過ぎるゆえ、目論見は失敗するというものだ。だからこそ今は好きにさせておけば良い。いずれ何の成果も出せずに諦めるだろうと。
それに儂は昨年に穴山家の当主となったばかりである。ここで反身延山久遠寺の態度を明確にして、いたずらに家中の不和を煽るのは良くないとも考えた。最悪の場合は儂が当主を追われかねない。そうなれば弟である
また、穴山家には材木販売という富士川の関以外で別の収入源がある。それ故、穴山家に於いての富士川利権は切実な問題ではない。だからこそ穴山家自体は身延山久遠寺への協力はしないと決め、家中の者が個々に身延山久遠寺に協力するのは止めないという態度を取ると決めた。
どちらにも付かない曖昧な態度ではあるものの、身延山久遠寺との関係を考えればこれが精一杯であろう。
ただ飯富家は穴山家と事情が違っていた。領地の収益は流通に多くを頼っている。富士川の利権が減れば、大きく力を落とすのが明白だ。
加えて飯富家は軍役負担が大きい。これは飯富家の領地がそれだけ裕福である事の裏返しである。飯富家は甲斐武田家中でも屈指の兵の動員力を誇る事から、信濃国に於いての軍事的な大役を担っている。つまりは御屋形様の拡大路線が、飯富家の財政を苦しめていた。
それだけではない。飯富家は甲斐武田家の重臣でありながら、重要な取次のお役目がそう回ってこない。これは現御屋形様が、長年仕える譜代よりも御兄弟や身分の低い家臣を重用する方針によって起こった弊害である。これにより譜代重臣は、賄賂を得る機会が少なくなった。
こうした時思う。まだ穴山家は良かったと。材木の販売もそうだが、駿河今川家との取次のお役目によって収益を確保しているのが大きい。
飯富家当主である飯富 兵部少輔殿が度々軍議の席で御屋形様の決定に異を唱えるのは、こうした切実な理由があるという訳だ。個人的には赤備えを止めたり、軍備の増強を止めれば良いと思うのだが、大役があるだけにそうもいかないのであろう。甲斐武田家最強とも評される赤備えは、飯富家の財力によって支えられている。
身延山久遠寺の御屋形様への反抗は、ここから始まったと言えるだろう。
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身延山久遠寺の反抗はまさかの事態にまで発展した。
それは御屋形様のご嫡男 義信様の謀反発覚である。
永禄七年 (一五六四年)一一月に越後上杉家と織田弾正忠家との間で養子が成立、いや同盟が成立した。後は織田 信長様のお子が越後国入りすれば、この同盟は正式なものとなる。
この時期は丁度五度目の川中島の戦いが終わったばかりであり、且つ我が甲斐武田家は飛騨や西上野にも侵出していた時だ。
甲斐武田家と織田弾正忠家とは、織田 忠寛殿を通じて付かず離れずの関係を続けている。関係が悪化していたとは言えぬだろう。それだけに織田弾正忠家の急な方針転換は、まさに寝耳に水の出来事である。
この事態を放置すれば、織田弾正忠家が東濃へと進出し、信濃を越後上杉家とで挟み撃ちにする可能性すらある。
何より織田弾正忠家は飯羽間遠山家と協力関係にあるのだ。幾ら甲斐武田家の傘下に岩村遠山家や苗木遠山家があるとは言え、このままでは東濃の勢力図がいつ書き換えられるかが分からない。
そもそも岩村遠山家は下克上で遠山の惣領を奪い取ったのは周知の事実である (岩村遠山家及び苗木遠山家の正室は織田弾正忠家から迎えているが、岩村遠山家が美濃遠山家惣領となった際の後見が甲斐武田家のため、両家は甲斐武田派。織田弾正忠派に転じたのは当主が死去してから)。そこから考えれば、美濃遠山家が一枚岩ではないというのは想像に難くない。
そんな危機的な状況の中でまた一つの事件が起きた。
それは永禄八年 (一五六五年)五月に起きた永禄の変である。公方 足利 義輝様が三好宗家の者達に殺された。
これはこれで衝撃的な出来事ではあるのだが、この時点では我等を取り巻く環境に変化は訪れはしない。
しかし、ここから潮目が変わった。
何と殺害された足利 義輝様の弟である覚慶様が、同年八月に幕府再興を目指して各地に上洛支援の御内書を送る。それに呼応した一人が、織田弾正忠家 当主の織田 信長様であったのだ。
ならばここで我が甲斐武田家も覚慶様の上洛支援に加われば、織田弾正忠家との敵対は無くなる。これで危機的状況は乗り切れよう。この時期の織田弾正忠家は、東濃の要害の一つ烏峰城を落城させていただけに、まさにすんでの所であった。
こうして同年九月には、織田弾正忠家より御屋形様四男の勝頼様への縁組が申し入れられる。正式な同盟締結は織田 信長殿の養女であるおりゑの方が輿入れされた時となった。下交渉は八月より始まっておったのだが、たった一月でここまで漕ぎ着けられたのは全て覚慶様のお陰というより他ない。
しかも勝頼様とおりゑの方との婚姻によって、越後上杉家と織田弾正忠家との養子の話が立ち消えとなったのだから尚更である。
だがこの決定が思わぬ波紋を呼ぶ。それがご嫡男 義信様の謀反発覚であった。
この時期の駿河今川家は遠州忩劇と呼ばれる領国の内乱により、鎮圧に忙しい。つまりは覚慶様の上洛支援ができない。悪意のある見方をすれば、覚慶様を見捨てたとも受け取れる。それも同じ足利一門というのにだ。
せめてご当主である今川 氏真様も、銭や兵糧といった形で間接的な支援を行っていれば、また状況も変わっていただろう。織田弾正忠家、三河松平家、甲斐武田家等々多くの家が上洛支援を表明したというのに、駿河今川家は上洛支援を表明しなかった。
これは何を意味するかというと、織田弾正忠家が兵を率いて上洛をすれば、後背を突かれる危険性があるとなる。何せ今川 氏真様にとって織田 信長様は親の仇なのだから、隙を見せれば襲い掛かりたくなるのは当然だからだ。
そうすれば織田弾正忠家は上洛支援の兵を出せなくなり、覚慶様は次の公方様には就任できない。要するに駿河今川家は、覚慶様の公方就任を邪魔する存在となった。
この事実がご嫡男 義信様には耐えられなかったのだろう。このままでは正室の実家である駿河今川家が滅ぼされると感じたに違いない。
また覚慶様の上洛支援は、甲斐武田家中に於いての新たな軍役負担となる可能性が高い。上洛支援によって多くの利が得られるのなら話は変わってくるが、間違いなく実利のある恩賞を得られないとなろう。ただでさえ昨今の甲斐武田家は、度重なる拡大路線によって家中で軍役負担に耐えられないという声が大きくなっている。当然ながらその筆頭は飯富 兵部少輔殿であった。
それに加えて、気付けば我が弟の信嘉も飯富 兵部少輔殿に同調をしていた。当然ながら二人は富士川利権の話はおくびにも出さない。
結果として覚慶様の上洛支援は、甲斐武田家を没落から回避する一手であったと同時に、家中に造反を芽吹かせる危険な一手となった。
喉元通れば熱さ忘れると言うが、越後上杉家と織田弾正忠家との養子の話が無くなったからこそ、ご嫡男 義信様と飯富 兵部少輔殿、我が弟は「上洛支援反対」という立場で手を取り合ったものと思われる。
当然ながら謀反というものは簡単に成功するものではない。多くの根回しが必要となる。また、謀反に成功したとしても、その後に政権基盤を確立できなければ謀反をしても意味は無い。
何が言いたいかというと、後見する勢力が無ければ謀反の話は具体的には進まないという当たり前の話であった。
だが悲しいかな甲斐国には、謀反を起こそうする者に手を貸す存在がある。それが日蓮宗総本山 身延山久遠寺だ。こうして武田 義信様と飯富 兵部少輔殿、穴山 信嘉と身延山久遠寺を結ぶ一本の線が出来上がり、「上洛支援反対」の意見は「謀反」というより過激な方向へと進んで行く。
身延山久遠寺の僧達は、これまでずっと溜め込んできた御屋形様へのうっ憤をついに晴らす時が来たと狂喜乱舞していた事だろう。
その謀反計画が御屋形様に露見する時までは。
永禄八年 (一五六五年)一〇月、飯富兵部少輔殿はご嫡男 義信様を担いで謀反を企んだとして自害を言い渡される。更に義信様は東光寺へと幽閉となった。
これが俗に言われる義信事件の顛末であろう。旗頭となった義信様は嫡男としての権利を剥奪されて幽閉。首謀者には死が言い渡された。
しかしながらこの事件にはもう一つの結末がある。
永禄九年 (一五六六年)一二月五日、我が弟の穴山 信嘉が身延山久遠寺の施設内で自害を果たした。御屋形様の目は節穴ではない。此度の謀反未遂の中心人物が何処の誰であったか全てお見通しだったのだろう。
だからこそ敢えて身延山久遠寺の施設内で弟に腹を切らせた。永禄元年 (一五五八年)に禁制で出した「殺生禁断之事」を破らせるようにと。
同年一二月一一日、儂こと
──殺生禁断之事、於寺内射弓放鉄砲事
当然ながら発給した禁制にはこの項目が入った。
つまりは穴山家は身延山久遠寺に加担しない。禁制を守らぬのなら甲斐武田家と共に穴山家は敵対するという意味である。
同日身延山久遠寺の僧達は、以後御屋形様に対して危害を加えようとはしないと固く約束をした。