「このバスはどこに行くのかな」
丁度発車するバスに成り行きで乗り込んでからチトセが言う。混雑する時間は過ぎていたらしく、車内はかなり空いている。
「終点が……ツルギとモミジの職場があった場所の近くだと思う」
「イオリさんと同じ職場じゃなかったんですか?」
「場所が複数ある。俺はそこには行ったことがないけど」
行ってみたいです、とチトセが言う。面白味もないと思うが。現在も閉鎖が続く施設内は当然無理だが、手前に巨大な公園があったはずだ。そこへ行ってみるかと提案すると、彼女は楽しそうに頷いた。終点の一つ前で降りることにする。
途中、大きな停留所の前に派手派手しい娯楽施設があった。モミジが夜を明かした場所だろうか。意外と行動範囲が狭い。逃亡を面倒臭がるなよ。それを話すとチトセが笑った。
「ごめんなさい、笑い事じゃなかったですね。でも、モミジさんらしくて」
喧しい後輩でもたまには役に立つ。事もある。
「でもどうしてイサナはそんな事をしたんでしょう。事故そのものを止めることは出来なかったんでしょうか?」
「ツルギが死んだのはその前日の夜だった」
「えっ、」
「モミジは本人には直接会わずに指示を受けてる。ツルギが前もって仕込んでおいたんだろう」
「そう話してましたね……」
「だから、俺はモミジが話すまで事故とツルギは無関係だと思ってて、」
ツルギが仕組んだ事故を予見しておきながら後輩を見殺しにしようとした訳ではない、とチトセ越しの本人に弁明させてもらった。
「それは、……モミジさんと話す事ですね……」
正論だった。ここで言い訳をしたところで本人に届くはずがない。暫く、気まずい沈黙が場を支配した。
「『次に目覚めるのは別人』、……」
先に口を開いたのは俺だった。チトセが俺の方を見る。
「ツルギの遺書にあった。空になった義体にシロのようなものが入り込むという意味なのか?」
「そういう場合もありますが、それなら徐々に体から抜けていきます。別の生命体が入ってるという意味です」
魂って言っていいのかなぁ、とチトセは首を傾げた。
「私たち、体は人工物ですけど、人工生命ではないんです」
「別の世界から来たみたいな?」
「うーん、体の方は分からないです。中身は多分違うと思います。生まれる前の事を覚えていないし、死んだ後の事も分かりません。行く所も戻る所も無いような気がしてます」
それは人も同じでは? とチトセが俺に尋ねる。確かにそうかもしれない。
「生まれたときの事は?」
「あんまり覚えていません。認識してなかったのかな? 気付いたらイサナに教えてもらっていました。本の読み方とか、自然な振る舞い方とか」
あのマニュアル接客もだろうか。
「あ、着きましたね」
チトセが俺の袖を摘む。二人分の運賃を支払い、目的地に降り立つ。
「備品の支払い用のお金を持ってて良かった」
着服では。俺も幾らか手持ちはあると言ったが、彼女はイエモリに奢らせると言って譲らなかった。
公園の入り口付近には、広大な園内全体を載せた案内地図が立っていた。ポップにデザインされ過ぎて、縮尺が怪しい。
「一日で回り切れるのかな?」
チトセが様々な文化施設や商業施設が並ぶエリアを指す。本当に今夜は帰らないつもりだろうか。
「泊まれるんだ!」
「泊まらないぞ」
「えー、だめかぁ」
駄目だろう。例の家出発言が本気ではなかった事実に安堵した。しかし尚も宿泊施設の表示辺りをくるくると指し、惜しそうにしている。泊まらないぞ。
「じゃあぐるっと周ってみましょう」
取り敢えず、モデルコース通りに歩いてみる事にした。
それなりに人は歩いているようだが、意外に騒がしさは無かった。おそらく世間一般でいうところの休日ではないからなのだろう。そういえば自分は休暇中だった。
「イオリさん、朝は何か食べましたか?」
食べる気にならなかったと答えると、飲食店が集まるエリアに行こうと言う。
比較的新しそうな建物が並ぶ方へ向かうと、そろそろ昼時だからだろうか、各店舗の前に列が出来始めていた。それらと向かい合うように数軒の屋台が立ち、両者の空間を屋外用のテーブルセットが埋めている。
チトセがクリーム入り揚げドーナツの看板を掲げる屋台に近付いて行くと、期待の目でこちらを振り返ってきた。付き合ってやりたい気持ちはあったが、実は甘いものは得意ではないので同じ看板のホットスナックの中からライスコロッケを選んだ。「私は両方。あとアイスコーヒー」と嬉しそうにチトセが注文する。食べても食べなくても変わらないといった口でよく食べる。食べることか好きなのかと尋ねると、そうですね、と肯定した。商品を受け取り、適当な席に着く。
「一時期料理の本ばっかり読んでました」
ナポリタンを作ってみたかったと言っていたのはそれでだろうか。ふと、先程彼女が新メニューの考案と言っていた事を思い出した。
「喫茶店、コノエが出資する事になったのか?」
「そうみたいです。イエモリが言ってました」
「行動が早いな……」
「イオリさんが関わってるからじゃないですか?」
関わってない。と思う。そもそも最近まで本当に関わりはなかった。子供の頃も特別に仲が良かった訳ではないと話すとチトセは「いいな、学校」と別方向で羨ましがった。
「学校に通う事もあったんですけど、すぐ居られなくなっちゃった」
姿が変わらない不自由さがあるのだろう。掛ける言葉が見付からない。
「私たちの一人に子供の姿の子がいるんですけど、その子の方が大変です。同じ場所に二年と居られない」
『私たち』というのは全部で何人なんだと質問をしかけて、口を噤んだ。ここに至ってツルギへの信頼を担保に喋らせている事に漸く気付いたからだ。大分取り返しがつかない処まで踏み込んでしまったように思う。
黙って食べ終わった俺に、チトセが別の話題を出す。
「イサナの写真、どこで撮ったものなんですか?」
「あれは……」
二人で海を見に行った時のものだ。地名を答えると、彼女は自分も行ってみたいと言った。
「今度な」
「連れて行ってくれるの?」
「保護者の許可が下りれば、日帰りで」
私、保護者の必要な年齢でもないですよ。チトセが不平を漏らす。その仕草は見た目通りの年齢にしか見えなかった。
「海は無理だけど――」
文化施設のエリアに水族館があった。次はそこへ向かおうと言うと、チトセは明るい笑顔で頷いた。
小規模なその水族館は、やはり海から遠い街中にあるせいか淡水魚や観賞魚がメインらしかった。縦に積まれたフロアは、最上階が別施設のプラネタリウムになっていた。カウンターでチケットを求め、入口の門を潜る。照明の輝度が低めの館内は、家族連れや学生風の客を中心にそこそこ入っているようだ。
チトセが入口で手渡された冊子を熟読しながら通路を歩くので、危ないと言うと俺の裾を掴んできた。誘導は任せたという事らしい。
順路に従い、テーマ別に区切られた展示を巡る。最初の方に目玉であろう企画展示があり、それ目当ての客が立ち止まって混雑していた。チトセは相変わらず俺の裾を掴んでいたが、人波に揉まれる度離れてしまう。逸れずに歩くのに苦労した。
展示が切り替わるとそこからは常設展示なのか、急に人波が疎らになっていった。更に進むと、何故か植物園のような一角が見えてきた。天井が高い。吹き抜けからの採光があり、全体が明るかった。白い壁際には愛玩用の小動物の飼育展示もある。紹介文を読むに、川辺の生き物という括りだった。ここに限らず、割と力技な配置が多い。途中、女子大生だという集団にシャッターを頼まれたが連れがいるからと断った。
いつの間にか視界から消えたと思ったチトセが体験コーナーで子供に混じって遊んでいた。人気者になってしまったのか、彼女の周囲にどんどん子供が寄ってくる。子供の親たちと一緒に、様子を眺められる長椅子で待つ。
体験が終わったのか、チトセは子供たちと別れると俺を見付けて戻ってきた。満足そうに笑っている。楽しんでいるようだ。
展示の後半を少し過ぎた辺りだろうか。人工海水で飼育しているというクラゲたちの暗い部屋に入った。幾つもの仄明るい水槽が宇宙船の小窓のように並んでいる。チトセはその内の一つの前から動かなくなってしまった。気に入ったようだ。細かいのがジタバタと泳いでいる。クリオネだった。何故かクラゲとクラゲの間に挟まれているが、プランクトンではなく、貝の仲間だ。
少し離れた後方からその様子を見守っていると、更に後方から密やかな会話が聞こえた。
「お前声掛けて来いよ」
「えっ、何て言えば」
「この後一緒に回りませんか、とか」
男子と呼べる程度の年齢の若者たちが、チトセに話しかけるべきか相談していた。人の多い場所へ来て分からされたが、チトセは人目を惹き付けがちだった。時に無遠慮な視線も。ツルギと街中を歩いた時の事を思い出す。
「あの、」
遂に意を決して若者らの一人が緊張の面持ちでチトセに声を掛けた。
「お一人ですか?」
保護者付きだよ。俺はチトセの隣に立ち、彼女の肩を抱いて自分の方に寄せた。
「二人」
努めて事務的に答えてやったが、相手はヒェッと息を呑み半歩飛退いた。
「二人です!」
残酷な程爽やかにチトセが彼に告げた。追い打ちを掛けている事に気付いていない。
「そ、そうですか。スミマセン……」
そのまましおしおと仲間の所に戻ると、彼らは早足で退散していった。それを見送っていると、チトセが俺をじっと見上げてきた。
「いきなり触って悪かった」
「いいえ、助けてもらったことくらい分かります。ありがとうございました」
本来彼女が礼を言うべきことではない。
「出歩く度にこれなら、あんたも困るよな」
「ああいうのは?」
チトセが小声で示す方に、互いの腰を抱くほど密着した二人組が居た。
「ああいうのとは?」
意図が解らずそのままを聞き返した。迷惑行為の事か?
「私たちもああやって見ていれば声を掛けられないのでは?」
大真面目な顔で非常識なことを言い出した。
「そんなルールは無い。あっちを見てはいけない」
ああいうのと同じ空間に長居してはいけない。碌な事がない。順路の先へ急ぐよう少女を促した。
次の展示室は、大きめの水槽一つが大部分を占めていた。映画館のスクリーンを思わせるデザインで、視認しやすいように奥行きはそれ程深くなく、中身はほぼ一種類のクラゲだった。夜空の星をイメージしているという。よく見ると星たちが偏らないように計算された水流があった。暫く静かに眺めていると、先程の二人組がお互いを見てささめき合いながら水槽には目もくれず通り過ぎて行った。
「もう一度小さい子たちを見てきます」
チトセがクリオネの所へ戻ると言うので、この展示室の外で待つと伝えた。
そこは展示の区切りらしく、小さいホールになっていて、順路はその先の通路へ続いていた。適当に壁際に立つ。折り畳んでポケットに差していた冊子を開き、現在位置を確認していると、ふと視線を感じた。顔を上げるが、周囲の誰にもこちらを見ている者は居なかった。気のせいかと思っていると、チトセが別方向から小走りで駆け寄ってきた。
「イオリさん、」
「何かあったか?」
「きょうだいに会いました。これから話そうという事になって、……すみませんが、」
行ってきます、と彼女は俺に頭を下げた。構わない、と言うと、今度は封筒を手渡された。
「申し訳ないんですけど、戻ったらイエモリにこれを返してもらえませんか? サラでもいいです」
二人で使い込んだ備品購入費の封筒だった。
「分かった。伝えておく」
受け取るとチトセはほっとしたように頷き、再び一礼して踵を返した。少し先で彼女のきょうだいらしき人物と合流し、順路ではなく出口の方へ向かって行く。
チトセの隣を歩いていたのは、灰色の制服姿で、赤い髪を顎のラインで上品に切り揃えた少年だった。チトセより背が高く幾分目付きは鋭いものの、彼女とよく似た顔立ちをしていた。
俺は帰りのバスの時間を確認し、それに合わせて館内を出ることにした。