「この運河の水のように、淀んだ歌声でしたわ……」
「うぅ……残念だけど、これがボクの全力だよ……」
船上で歌い終わったあと、ボクはうなだれながら席に腰を落ち着ける。
自分で歌いながら、音程がブレブレなのがわかったし。
周囲を行く船の乗客たちが驚きの表情でこちらを見ていたのは、きっと気のせいじゃない。
「その……ナギサ、ありがとな」
まるでその場から逃げるように船の速度を上げながら、ラルゴがねぎらいの言葉をかけてくれる。
……はぁ。こんなことなら、島の聖歌隊に所属するイソラにも同乗してもらうんだった。
◇
そのまま運河を南下し、やがて海に出る。
当然波が高くなるも、ラルゴはすぐに船を安定させていた。
それから西回りで島を北上していくと、遠くに岩礁地帯が見えてくる。
「あれはなんですの?」
「ここが本日のメインスポットの一つ! 岩礁地帯だよ! 小さな岩が無数に浮かんでるんだけど、変わってるでしょ?」
「確かに珍しい光景ですわね……もっと近づけませんの?」
「転覆や座礁の恐れがあるので、これ以上近づくのは危険です。申し訳ありませんが、ここからの景観をお楽しみください」
シンシアは立ち上がり、目の上に手を当てる仕草をするも……ラルゴは申し訳なさそうな顔をした。
「そうですか……残念ですわ。双眼鏡を持ってくるべきでした」
その言葉を受けたシンシアは、心底残念そうに腰を下ろす。さすがに今回の要望には応えられそうにない。双眼鏡なんて高級品、ボクたちじゃ用意できないし。
「あの岩場にはこれ以上近づけないけど、絶景を見ながらお昼にしよう!」
ボクは仕切り直すように言って、バスケットを開く。
そこにはイソラが手配してくれた、おばあちゃんのフォカッチャサンドが入っていた。
「……これはもしや、ナギサさんのおばあ様の?」
サンドイッチを手渡した直後、シンシアはそれに気づいたらしい。心底嬉しそうな顔を見せてくれた。
「そうだよー。今日のために特別に作ってもらったんだ。具材にローストビーフを挟んでるんだよ!」
以前、シンシアはローストビーフのサンドイッチがいいと言ってたし。ロイのお母さん、いい食材回してくれてありがとう。
「それじゃ、ボクたちもいただきます!」
ボクは心の中でお礼を言って、同じくフォカッチャサンドにかじりつく。
ちなみにバスケットにはフォカッチャサンドの他に、魚のパイとピーチパイも入っている。
魚のパイはラルゴの好物で、漕ぎ手を頑張るラルゴのためにイソラが作ったものだ。
ドルチェのピーチパイと合わせて、どの料理も船の上で食べやすいように配慮してもらった。
「というか、皆さんも一緒に食べるんですの?」
口の中いっぱいに広がるお肉の味を堪能していると、戸惑い顔のシンシアがそう訊いてくる。
「だって、そのほうがおいしいよ!」
「確かに、今日の食事はおいしいですわ。不思議です」
ボクが正直にそう伝えると、シンシアは満足げにフォカッチャサンドを口にした。
彼女のお父さんは仕事が忙しいらしいし、従者のマリアーナさんとシンシアが食事をともにするなんて考えにくい。となると、彼女はいつも一人でご飯を食べているんだろう。
「シンシア、島の魚を使ったパイもあるから、たくさん食べてね!」
そんな考えに至ったボクは、あえて声を弾ませながらシンシアに料理を手渡す。彼女は一瞬驚いた顔をしたものの、笑顔で受け取ってくれた。
◇
食事を終えたあと、島の貴族街を海から眺めつつ、北へ進路を取る。
「このまま島の北から中央運河に入って、本日の島観光はおしまいですの?」
「ふっふっふー。実は、とっておきの絶景があるんだ」
ボクが意味深な顔で言うと、シンシアは首をかしげた。
そんな彼女を乗せたまま、ゴンドラはゆっくりと方向転換。運河の入口に背を向け、沖に向かって進みだした。
正面に見えた空は、いい感じの茜色に染まってきている。
「絶景……もしかして夕日ですか? 確かに、船の上から見る夕日は美しいでしょうけど……」
次の瞬間、ボクたちの意図に気づいたシンシアがそんな言葉を漏らすも……この展開を予想していたのか、どこか元気がなかった。
……ただの夕日じゃないから、安心してね!
そのまま西に向かって船を進めることしばし。やがて遠くに高くそびえる岩が見えてくる。
「あんなところに、島があったのですか? ずいぶんと大きいですね」
「あれはロウソク岩って言ってね! あの岩山のてっぺんに夕日が重なると、まるでロウソクに明かりが灯ったように見えるんだよ!」
「言われてみれば、あの形はロウソクそのものですが……そんなことが起こるのですか?」
ここぞとばかりに説明すると、シンシアは驚きと期待に満ちた目をボクとロウソク岩に向ける。
「これが今日の最大の目玉なんだよ! シンシア、よーく見ててね!」
ボクが得意げに話す間も、ゴンドラは太陽とロウソク岩の位置を調整するように、その周囲を回る。
「……まずい。海流が思ったより激しいぞ。こりゃ、間に合わねぇかもな」
ややあって、ラルゴが憎々しげにそう口にした。
「ええっ、それは困るよ! ここまで来たんだから、絶対見てもらわなくちゃ!」
「そ、そうは言ってもよ……」
ラルゴは必死に舵を操るも、なかなか思うように船は進んでいなかった。
この船は扱い慣れた練習船より小さい分、細かいコントロールが難しそうだ。
そんなボクたちの様子を見て、シンシアも何かを悟ったらしい。その表情が曇っていく。
……こうなったら、アレしかない。
「シンシア、ボクがロウソク岩の絶景を見せてあげる!」
「え、ちょっと、ナギサさん!?」
ボクはいても立ってもいられず、シンシアの手を取る。
「日傘と帽子はゴンドラに置いといて! じゃあ、いくよっ!」
続いて勢いよく立ち上がると、意を決してゴンドラから飛び降りる。
「きゃあっ……あ、れ?」
シンシアは恐怖に目を見開くも……次の瞬間には自分が海の上に立っていることに気づき、困惑の声を上げていた。
「……いったい何がどうなっているんですか?」
「これがボクの海魔法だよ! いつも海の上を走ってるの、見てたでしょ?」
「それはもちろん見ていましたが……人にも分け与えることができるのですね」
「手を握ってる間だけね! 離しちゃ駄目だよ!」
「は、はいっ……」
そう伝えると、握られた手に力が込められたのがわかった。
「でもナギサさん、こんな魔法、学園では使っていませんでしたわ。だからわたくし、貴女のことをおちこぼれと……」
「ボクの魔法は、海水に触れていないと駄目なんだ。そんなことより時間がないよ! これからは口より足を動かして!」
言うが早いか、ボクは海面を蹴って、船の何倍ものスピードで駆け出す。
完全に虚を突かれたシンシアは、半分空中に浮かびながらボクについてくる形になる。
「あわわわわ、あわあわ」
背後のシンシアが出す声にならない声を聞きながら、ボクは夕日とロウソク岩が重なる場所を探して海上を駆ける。
「ナギサ、もっと右だ!」
その様子を見ていたラルゴが、船の上から指示を出してくれる。
それを頼りに、ボクは微調整を続けたのだった。
「……よし、ここだ! 間に合った!」
やがて夕日が見事に重なるポイントを見つけ、ボクはそこで足を止める。
「はぁ、はぁ、つ、着きましたの……?」
「うん! シンシア、見て!」
肩で息をしているシンシアにそう声をかけ、空いているほうの手で前方を指差す。
夕日に染まった空と海のちょうど中央に、完全にシルエットとなったロウソク岩が見え、その頂点に今まさに太陽が重なろうとしているところだった。
「すごいですわね……」
「うん……」
その光景はあまりにも雄大で、圧倒されたボクたちは手を繋いだまま、しばし言葉を失って立ち尽くしていた。
◇
ロウソク岩の絶景を日が沈んでしまうまで堪能したあと、ボクたちは船に戻り、帰路につく。
「素晴らしい光景でしたわ。それに、海の匂いをあんな近くで感じられるなんて。船の上とは全然違いました」
その道中、シンシアはずっと興奮気味に話していた。
喜んでくれたのは嬉しいけど、これって観光より、海魔法を楽しんでくれたって感じだよね。
また今度、連れて行ってくださいませ……なんて言われたらどうしよう。
……そんなことを考えているうちに、貴族街の船着き場へと帰り着く。
そこにはすでに馬車が停まっていて、マリアーナさんの姿があった。
「お嬢様、おかえりなさいませ。いかがでしたか?」
「ええ、とっても楽しかったですわ!」
船から降り、今にも踊りだしそうな様子のシンシアを見ながら、マリアーナさんは満足そうな笑みを浮かべる。
けれどその直後、険しい表情へと変わった。
「……あの、シンシア様のお召し物がずぶ濡れになっているのですが。これはどういうことでしょうか」
「あ」
唐突に尋ねられ、ボクとラルゴは声を重ねる。
「……まさか、船が転覆でもしたのですか?」
「いや、転覆はしていないんですけど、えっと、そのですね……」
鋭い目つきで睨まれ、ボクはしどろもどろになる。
シンシアの服が濡れたのは、間違いなく海魔法のせいだ。
いくら水の上に浮くことができるとはいえ、濡れるものは濡れるし。
まして、シンシアは海魔法に慣れていなかった上、ヒラヒラなドレス姿だ。これで濡れないほうが奇跡だろう。
「ナギサさんがわたくしの手を取って船から飛び降りた時は、どうなることかと思いましたわ」
一方のシンシアは状況が見えていないのか、すごく嬉しそうに語る。
「船から飛び降りた……? ちょっとナギサ様、詳しいお話をお聞かせ願えますか」
「濡れ衣だよ!」
服が濡れてるだけにね! なんて心の中で叫びながら、ボクはその場から全力で逃げ出したのだった。