島観光の当日。
集合場所となっている貴族街の船乗り場に、ボクは幼馴染たちとともに集まっていた。
ブリッツさんのはからいで、小さいながらも見事な装飾がついたゴンドラが用意され、ラルゴも真新しい漕ぎ手の衣装を着用していた。
「おおー、船も衣装も立派だね!」
普段はあまり手入れをしていない髪を油で整えたラルゴに、そう声をかける。
「船はともかく、漕ぎ手は見掛け倒しだけどな」
ラルゴはそう言いつつも、誇らしげに胸を張った。
今日の彼の衣装は独特の縞模様が入った襟付きシャツで、貴族様相手ということで首元にタイがついている。
「ラルゴ、タイが曲がってるわよ」
「何? こうか?」
「逆だよ。こう」
その時、イソラが持っていたバスケットをロイに手渡し、ラルゴのタイを整えてあげる。
「……うん。これでいいよ。頑張ってね」
「お、おう……」
……その様子はまるで、新婚夫婦のようだった。
「……あの二人、自分たちの世界に入ってない?」
「本当だよね。貴族様を相手にするんだから、気合を入れ直してほしいよ」
思わず隣のロイに耳打ちすると、彼は大きくため息をつく。
そんなボクたちの視線に気づいたのか、二人は顔を赤らめたあと、取り繕うように仲良く咳払いをした。
「ナギサ、これがお弁当。下のほうに手作りのドルチェも入ってるから、よろしくね」
イソラは若干赤い顔のままロイからバスケットを受け取ると、ボクに手渡してくる。
「ありがとう! それじゃ、ボクも頑張ってくるね!」
そう明るく返事をしたタイミングで、馬車がやってきた。
「皆様、本日はシンシアお嬢様をよろしくお願い致します」
馬車に同行していたメイドのマリアーナさんが、ボクたちを前に深々と頭を下げた。
その隣に立つシンシアは、白を基調としたドレスに同色のボンネット帽子を被り、日傘をさしている。相変わらずオシャレだ。
「お、お任せくださいませ。お嬢様の身の安全は保証いたします」
「……ぶふっ!」
明らかに緊張しているラルゴを見て、ボクは思わず吹き出してしまう。
「な、なんだよ、笑うなよっ」
「だ、だって、普段のラルゴと全く違うからさ。言い回しも微妙に間違ってるし」
「し、しょうがねーだろっ、緊張してんだよっ」
顔を真っ赤にしながらラルゴが言う。
ボクはシンシアとは学園時代からの付き合いだし、彼女の相手は慣れているけど……これが普通の反応なのかな。
「ほ、本当に大丈夫なのですか……?」
「シ、シンシア、ボクもいるから安心して!」
どこか不安顔のシンシアに、ボクはそんな言葉をかける。
ラルゴの腕前は信じているけど、彼にとって初めての体験だ。緊張で船の操作を誤る……なんてことがないとも限らないし。
「……それでは、日没の時刻にまたここへお迎えに参りますので」
やがてマリアーナさんは一礼し、馬車に乗って去っていった。
「それじゃ、さっそく島観光に出発しよう! ラルゴ、よろしくね!」
それを見送ったあと、ボクはラルゴの背に向かって声を飛ばす。
「お、おう……それではお嬢様、お手をどうぞ」
一足先に船へと乗り込んだラルゴが、まずはシンシアを席へと誘う。どう見ても表情が硬い。
「……ラルゴ、肩の力抜いてよ? 大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
ものすごく不安になるけど、乗客は船に乗る際、漕ぎ手にエスコートしてもらうのが決まりだ。ボクが手を出すわけにもいかなかった。
「……だいぶ揺れますのね。それに、傾いているような」
シンシアはおずおずといった様子で座席に腰を下ろす。その直後、船がわずかに傾斜した。
「一時的なものですので、ご安心を」
ラルゴはそう言ったあと、ボクをシンシアの隣に座らせる。
それによってバランスが整ったのか、ゴンドラは安定した。
「ラルゴ、安全運転でね」
「気をつけて」
「わかってるよ。それじゃ、行ってくる」
祈るような表情で見送ってくれるロイとイソラにそう言葉を返し、ゴンドラはゆっくりと岸を離れていく。
いよいよ島観光のスタートだった。
◇
貴族街の水路をゆっくりと抜け、中央運河に出る。
すると、運河の水の流れを横から受けた船が小さく揺れた。
「……きゃ」
それに驚いたのか、シンシアがボクに抱きついていた。とっさに抱きとめると、どこかでかいだことのある花の香りがした。
「……失礼。広い場所に出るとこうなるのです」
ラルゴは真剣な表情でそう説明すると、すぐに船を安定させる。
今日の運河はいつもより波がある気がしたけど、以前ルィンヴェルを船で案内した時の経験が生きているようだ。
「右に見えますのが、島一番の繁華街でございます。バーやカフェを中心に数百の店舗が軒を連ね、島で唯一、夜のない場所とも呼ばれております」
無数の船に追い越されながら、運河を進んでいると、ラルゴが岸辺を指し示しながらそう口上を述べる。観光案内ということで、ラルゴも勉強してきたのだろう。
「あそこにはお父様が経営するお店も多くありますわ。足を運んだことは一度もないのですけど」
船から少しだけ身を乗り出しながら、シンシアは自慢顔で言う。
島で一番治安が悪い場所とも言われているし、お嬢様のシンシアが近づく場所じゃないと思う。ボクも昼間にお酒を配達するくらいで、夜は絶対近づかないようにしているし。
「左に見えますのが、メーヴェ通りになります。運河にせり出すように並んだ色とりどりの住宅は他所では見られず、島の観光名所となっています」
続いてラルゴは左方向を指し示す。ここは住宅が密集するエリアで、そのカラフルな外壁が目を引く場所だ。
「素敵な場所ですけど、どうしてわざわざ色を付けているのです?」
「船が主な移動手段であるこの島で、春先の霧の中でも自分の家をきちんと見つけられるように色分けしたのが始まりと言われています」
シンシアからの問いかけに、ラルゴは淀みなく答えていた。きちんと勉強もしているみたいで、ボクは感心しきりだった。
「景観は素晴らしいのですが……このあたり、水が汚れていませんか?」
そんなことを考えていた矢先、シンシアが水面を見ながら顔をしかめる。
「住宅が集まっているということは、生活排水も多く出ますので」
ラルゴはどこか言いにくそうにそう続ける。
おもむろに水面を見てみると、今日はいつもより汚れている気がした。
うーん、どうして今日に限って……。
「そうですわ。船頭さん、気晴らしに歌でも歌っていただけません?」
「え、歌ですか?」
その時、シンシアが妙案とばかりにそう口にする。彼女の言葉を受けたラルゴは、見てわかるくらいに動揺していた。
ゴンドラと歌――セレナーデはセットになることが多いのだけど、ああいうのは専属の歌い手が同乗する。
漕ぎ手が歌い手を兼ねることも稀にあるらしいけど、ラルゴの場合は……。
「ねぇラルゴ、シンシアはああ言ってるけど、歌えるの?」
「いや、俺がオンチなの知ってるだろ……」
ボクはラルゴに耳打ちするも、そんな言葉が返ってきた。どうするんだろう。
「……かしこまりました。歌は歌い手であるナギサ・グランデが担当いたします」
「えええぇっ!?」
ラルゴの口から飛び出したまさかのセリフに、ボクは船が揺れるほどの大声を上げた。
「まぁ、ナギサさんは歌が得意だったのですね。意外な才能ですわ」
「ちょ、ちょっと待ってよラルゴ。ボクだって歌は苦手だよっ」
「俺よりかは上手いだろ。頼む」
「そ、そんなこと言われても……運河の真ん中だし、皆に聴こえちゃうし……」
行き交う周囲の船を見渡したあと、隣のシンシアを見る。彼女は期待に満ちた目をボクに向けていた。
うぅ……こうなったら、当たって砕けてやる!
半ばヤケになったボクはその場で立ち上がると、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。