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第26話『島の伝統の味 後編』


 それからしばらく時間が経ち、嗅ぎ慣れたフォカッチャの匂いがキッチンに溢れる。


「よしよし。焼き上がったようだね」


 そろそろ頃合いと、おばあちゃんはオーブンを開ける。


「……いつもより、少し色味が強いかね」


「そうかなぁ。ボクにはいつもと同じに見えるけど」


 香りが一層濃くなる中、おばあちゃんは慣れた手つきで、きつね色のフォカッチャをバスケットへと入れていく。


「完成です。シンシア様、どうぞ」


 おばあちゃんがバスケットの中からフォカッチャを差し出すと、シンシアは目を泳がせる。どうやら食器を探しているみたいだ。


「シンシア、こういうのはそのまま手で食べるんだよ」


 ボクはそう伝え、バスケットに入っていたフォカッチャを手に取る。当然のように温かかった。


「そ、そうなのですか……? それは、はしたないような」


「今は誰も見てないよ! ほら、焼きたてのおいしさは、どんどん逃げちゃうよ!」


 そう説明しながら、焼きたてのフォカッチャにかじりつく。ほのかな塩気に続いて、オリーブオイルとローズマリーの香りが鼻に抜ける。さすがのおいしさだった。


「そ、それでは……はむっ」


 シンシアはフォカッチャを両手で持つと、意を決したようにかじりついた。


「……おいしいですわ」


 その直後、口元を隠しつつも表情をほころばせる。


「そうでしょー。このままでもおいしいけど、チーズとかブルーベリージャムを挟むと最高だよ」


「ええ、ローストビーフを挟むのも良さそうですわ」


 うぐ……そんな高級食材、再臨祭の時くらいしか食べたことがないよ。


 思わぬところで庶民と貴族の食生活の違いを痛感し、ボクは若干ヘコむ。


「そ、それで……今回の依頼なんだけど。このフォカッチャで、合格ってことにしてもらえる?」


「もちろんですわ。こんな美味しいもの、初めて食べましたもの」


 言いながら、シンシアは早くも二枚目のフォカッチャに手を伸ばしていた。本当に気に入ってもらえたみたいで、ボクは安堵する。


「……それにしても、すごい量ですわね。せっかく作っていただきましたが、わたくしとお父様だけでは食べきれません」


 まだまだたくさんのフォカッチャが入ったバスケットを見ながら、シンシアが言う。


「せっかくですし、お屋敷の皆様にも振る舞ってはいかがですか」


「それは良い考えですわ。マリアーナ、ちょっと来ていただけません?」


「はい。こちらに」


 シンシアがキッチンの入口に声を掛けると、どこからともなく一人のメイドさんが現れた。


「こちら、屋敷の皆さんに振舞ってもらえませんか。わたくしも手伝いましたのよ」


「見事な焼き具合でございますね。かしこまりました」


 お父さんに渡す分だろうか、シンシアは数枚のフォカッチャを抜き取ると、残りをバスケットごとメイドさんに手渡した。

一礼してどこかへと消えていくメイドさんを見送るシンシアは、すごく嬉しそうだった。


 ……シンシア、あんな顔もするんだ。


 もしかして、おばあちゃんはボクやシンシアと一緒に作ることも想定してフォカッチャ作りを引き受けてくれたのかな。


「ナギサさんのおばあ様、本日は貴重な体験をありがとうございました」


 そんなことを考えていると、シンシアはおばあちゃんに対し、深々と頭を下げた。


「それで、これはお願いなのですが……フォカッチャを作りに、定期的にお屋敷へ来てはいただけないでしょうか」


「……ありがたいお話ですが、それは無理ですねぇ。わざわざキッチンをお借りするのも申し訳ないですし」


 そんなシンシアの申し出を、おばあちゃんは一蹴する。


「そ、そうですか……」


「ただ、私のフォカッチャが食べたければ、いつでもお店に買いに来てくださいな」


 そして、明らかに落胆するシンシアに、柔らかい笑みを浮かべてそう続けた。


「おばあちゃんのフォカッチャは人気だからねー。焼きたてを食べたかったら、朝一番に並ぶしかないよー」


「そ、そこまで人気だとは……なら、マリアーナに並んでもらって……」


「ふふ、仮に馬車を飛ばしても、お店からお屋敷に帰る途中に冷めてしまいますよ」


「そ、そんな……そうなると……ナギサさんに頼むしか……?」


 シンシアは口元に手を当て、真剣な表情で悩む。やがてそんな結論に達した。


「いくらボクでも無理だよー。あ、下手したら途中で食べちゃうかも」


「そ、それは困ります……って、ナギサさん! 届け屋さんが荷物に手を出すとは何事ですか!」


 悪戯っぽく言うと、シンシアは一瞬遅れて憤慨した。


 思わず笑ってしまうも、なんとかして焼きたてを食べたいという彼女の気持ちも、十分にわかる気がした。


 そしてボクの中に、もしかしてシンシアと仲良くできるのではないか……そんな気持ちが生まれつつあった。


 ◇


 ……そんな出来事があった翌日。


 もしやと思い、早朝におばあちゃんのお店へ立ち寄ってみると……そこには島民たちに混ざり、列に並ぶシンシアの姿があった。


 つばの大きな帽子を目深く被って顔を隠していたけど、独特の貴族オーラのようなものは隠しきれていなかった。


 ボクはすごく嬉しい気持ちになった一方で、貴族様がお忍びで買いに来るフォカッチャ……なんて名前にしたら、より一層売れるのでは……なんて考えたのだった。


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