ボクは猛スピードで運河を駆け抜け、狭い水路に飛び込む。
太陽の光を受けて輝く水面を右へ左へと走り、前方に小さな橋を確認したところでスピードを緩め、その上へと跳び上がった。
そこからは徒歩で目的地へと向かう。
「おばあちゃーん! いるー!?」
声を上げながら、『ブレンダのパン屋』と書かれた看板をくぐる。
お店に足を踏み入れると、慣れ親しんだパンの香りが鼻をついた。
「おや、ナギサかい。最近は忙しいと聞いていたけど、今日は休みなのかい?」
ボクの声に反応して、店の奥からおばあちゃんが顔を覗かせる。
「おばあちゃん! ボクと一緒に来て、フォカッチャを作って欲しいんだ!」
「話が見えないよ。もっとわかるように説明しておくれ」
すぐそばまで駆けていって、興奮気味に告げるも……おばあちゃんは
ボクは一旦深呼吸をしてから、これまでの経緯をおばあちゃんに話して聞かせる。
「……なるほど。知り合いの貴族様に、料理の配達をねぇ」
「うん。お祭りも近いし、最初はそれこそ変わった料理を探していたんだよ。でも、ルィンヴェル……友達からの助言でピンときたんだ。島の伝統の味といえば、おばあちゃんのフォカッチャだって!」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、私の作るパンは貴族様にお出しできるようなものじゃないよ。ただ、この島で長く作り続けていると言うだけさ」
「長く作り続けているからこそ、皆の記憶に残る、思い出の味になってると思うんだ! 少なくとも、ボクにとっては!」
ボクは両手を広げて、必死にそう訴える。
おばあちゃんは最初、目を見開いていたけど……やがて小さく頷いてくれた。
「……わかったよ。ナギサがそこまで言うのなら」
「ありがとう! それじゃ、ボクと一緒に来て!」
「ちょいとお待ち」
安堵したボクがその手を掴むも、おばあちゃんはそれを制する。
「向こうでパンを作るってことは、キッチンをお借りすることになるだろ。相手の都合も考えなきゃ」
「あ、そっか……じゃあ、ひとっ走りお屋敷まで行って、話をつけてくる!」
なるべく失礼のないようにね……というおばあちゃんの声を背に受けながら、ボクは一路シンシアのお屋敷へと向かったのだった。
◇
突然お屋敷にやってきたボクにシンシアは驚いていたけど、理 由を話すと快くキッチンを貸してくれることになった。
庶民に施すのも、高貴たるものの義務ですわ……とかなんとかシンシアは言っていた。
よくわからないけど、ボクにとってはありがたい話だった。
……そしてその翌日。ボクはおばあちゃんと一緒に、朝からお屋敷のキッチンにいた。
ここは本来、使用人さんたちが自分たちの食事を作るために使う場所らしく、かなり狭い。
けれど、おばあちゃんいわく、これくらい狭いほうがキッチンは使いやすい……とのことだった。
「それじゃ、作るとするかね。ナギサ、手伝っておくれよ」
「うん!」
ボクは三角巾とエプロンを身につけて、おばあちゃんの隣に立つ。
腕まくりをしてやる気満々のおばあちゃんの前には、家から運んできた『北の小麦』のほか、様々な材料が並んでいた。
「まずは粉を量って混ぜるんだ。悪いけど、この割合はまだ教えられないよ」
おばあちゃんはそう言うと、いくつかの袋から粉を取り出し、ボウルに入れて混ぜていく。
やがて粉っぽさがなくなってきたら、そこにオリーブオイルを加える。
生地がまとまったら、乾燥防止のオリーブオイルを塗ったあと、布巾で覆ってしばらく発酵させる。
「ほら、この間に焼き窯を温めておくんだよ」
「う、うん!」
おばあちゃんに言われるがまま、ボクはオーブンの温度調節をしていく。
その作業に四苦八苦しているうちに時間が経ち、生地は倍ほどの大きさになっていた。
「あまりやりすぎると過発酵になっちまうから、今の季節だとこんなもんだね」
それを確認したおばあちゃんは、慣れた手つきでガス抜きをしていく。
「あんなに大きくなるのですね……」
ちなみにボクたちの背後にはシンシアが立っていて、興味深そうに調理工程を見ていた。
「……シンシア様、せっかくですし、フォカッチャ作りを体験してみてはいかがですか」
それに気づいたおばあちゃんは、そう言って彼女を誘う。
「え? そ、そうですわね。せっかくですし、これも社会勉強ですわ」
シンシアは一瞬
「まずは手を洗われてください。料理をする前の作法ですので」
「え、ええ……」
続いて水の入った桶を渡され、シンシアはぎこちない動きで手を洗う。
「手を洗いましたら、エプロンと三角巾を身に着けませんと。せっかくのお召し物が粉で汚れてしまいますよ」
おばあちゃんは続けて言い、余っていたエプロンを手渡すも……シンシアは腰紐の部分を持ったまま、おろおろするだけだった。
たぶん、エプロンなんてつけたことないんじゃないかな。
「シンシア、こうだよ。結んであげるから、貸して」
いつもと全く印象の違う彼女に違和感を覚えながらも、ボクはエプロンと三角巾をつけてあげる。シンシアは髪が長いから、まとめるのが大変だ。
「準備ができましたら、この生地を小さく丸めて伸ばしてください。大きさはこれくらいです」
「わ、わかりましたわ」
えらく気合を入れて、シンシアは生地を丸めはじめる。
その光景を隣で見ながら、ボクも生地を作っていく。
「なんだか、小さい頃の粘土遊びを思い出すねぇ」
言ってから、シンシアが粘土遊びなんてするはずないと、心の中で失笑する。だって、お嬢様なんだし。
そうこうしている間に生地の成形が終わると、再び発酵させる。
それが済んだら表面に指でへこみをつけ、オリーブオイルを塗って、塩とローズマリーを散らす。
これで準備完了。あとは焼くだけとなった。
「……ようやく見慣れた形になりましたわ。フォカッチャ一つ焼くのも、大変な苦労があるのですね」
オーブンの向こうで耐熱皿に並べられたフォカッチャたちを見ながら、シンシアは満ち足りた表情をしていた。