そんなことがあった翌日。ボクは朝から幼馴染のロイの家に向かっていた。
よくわからないけど、ボクに頼みたい仕事があるらしい。
いつものように水路を移動し、街の繁華街へ。
その外れに、三階建ての宿屋がある。ここがロイの家だ。
「ステラさん、おはようございまーす!」
「おや、ナギサちゃんじゃないかい。おはよう」
扉を開け放ち、ボクは建物に響き渡るような声で挨拶をする。
ややあって、カウンターの奥で作業をしていたステラさんが顔を覗かせた。
彼女はロイの母親で、この宿『歌うイルカ亭』を一人で切り盛りしている。
「ロイに呼ばれてきたんだけど、上がっていい?」
「もちろんさ。忙しいところごめんなさいねぇ」
「ううん! 今日は暇してたから大丈夫! ロイはいつもの書斎?」
「書斎だなんて大層なもんじゃないよ。ただの屋根裏部屋さ」
そう言って苦笑するステラさんに笑顔を返しつつ、ボクは階段を上がっていく。
三階まで到達したところで、廊下の隅に設置されたはしごを使って屋根裏部屋へと足を踏み入れる。
とたんに紙とインク、埃の匂いが鼻をついた。
「相変わらず、すごい場所で作業してるなぁ……」
床には無数の本や資料が散らばっていて、足の踏み場もない。
それらを踏まないように注意して歩いていると、今度は天井の梁に頭をぶつけそうになる。
それくらい、ここの天井は低かった。
慎重に歩みを進めていると、やがて部屋の奥で机に向かうロイを見つけた。
「あ、ロイー、言われたとおり来たよ!」
その背に向けて声を飛ばすも、集中しているのか反応はなかった。
「むー、また創作の世界に入り込んでるなぁ。ロイってば!」
「うわぁ!?」
その肩に手をやると、ロイはびくりと体を震わせた。ようやくボクの存在に気づいたらしい。
「な、なんだナギサかぁ……驚かさないでよ」
「別に驚かすつもりなんてなかったんだけど……それで、お仕事って何?」
「ああ、これを船に届けてほしいんだ」
ボクが尋ねると、ロイは手元の原稿用紙の束を指し示す。
「それって……ロイの書いてる小説?」
「そう。西の大陸に文学都市ユマってあるでしょ。僕、そこのコンクールに作品を出すつもりなんだ」
「ええっ、本気なの!?」
ボクは思わず叫ぶ。
文学都市ユマといえば、世界中の本が集まる世界図書館があり、あらゆる文学や芸術の中心として有名な街だ。
毎年様々なコンクールが開かれるのだけど、その中でも文学コンクールは長い歴史を誇っていて、最終候補に残るだけで作家としての成功は確約されたようなものらしい。
「小説書くの好きだって聞いてたけど……そこまで本気だったんだね」
「当たり前じゃないか。今回の作品だって、一年くらい前から書いてたんだから」
「そ、そうだったんだ……じゃあ、ボクの仕事っていうのは、まさか……」
「うん。ナギサには、完成した原稿を港の郵便船に届けてほしいんだ。責任重大だよ」
郵便船というのは、手紙や大きな荷物を別の大陸に届けるための大型の船のことだ。
「責任重大なのはいいけど……最近、北の海に海賊が出てるのは知ってる?」
「もちろん知ってるよ。郵便船の航路は島の南側だから、海賊に襲われる心配はないはずさ」
心配になって尋ねてみるも、そんな言葉が返ってきた。
「よーし! そういうことなら、ロイ先生の大事な原稿、ボクが責任持って船まで届けるよ!」
「あ、まだ完成してないから、もう少し待って」
意気込んで右手を差し出すも、原稿は引っ込められてしまう。
「えー、原稿が完成してないって、どういうことなの!?」
「郵便船の出港はお昼前なんだよ。まだ時間があるから、ギリギリまで
「まぁ……ここからなら余裕だと思うけど」
そう答えてから、ボクは港までのルートを思い浮かべてみる。
本来なら渡し船や橋を経由して一時間近くかかるけど、ボクなら水路と運河を駆け抜けて、ものの数分で港まで到着できると思う。
「料金二倍払うからさ、お願い」
その様子を見て渋っていると思ったのか、ロイが拝んできた。
「もちろんいいよ。原稿が完成するまで、ここで待っていればいい?」
「ありがとう。そこにソファがあるから、使っていいよ」
ロイはそう言うと、すぐに机に向かってしまった。
そうなると、ボクはとたんにやることがなくなる。
言われた通りにソファに腰を下ろし、ひたすら待つしかなかった。
……少し時間が経つと、強烈な眠気が襲ってきた。
この部屋には小窓があるものの、そこからの光はロイのいる場所までしか届かない。
窓から離れたソファの周辺は薄暗く、その柔らかさも相まって、眠気を誘うには十分だった。
あー、このままじゃ、確実に寝ちゃう……。
――お兄様が……人……興味……なんて。
……あれ? 今、何か聞こえたような。
意識が飛びかけた時、どこからか謎の声が聞こえた。
「ロイ、何か言った?」
ボクは慌ててその身を起こし、ロイに問いかける。
けれどロイは集中しているのか、特に言葉は返ってこず。羽ペンを走らせる音だけが響いていた。
よくよく考えたら女の人の声だったし、ロイのはずがない。空耳だったのかな。
首を傾げながら立ち上がると、ボクは眠気覚ましを探す。
幸いなことに本はたくさんあるし、少し読ませてもらおうかな。
「あ、これなんかいいかも」
狭い室内を見渡していると、ひときわ目を引く本を見つけた。
その表紙には色とりどりの花が描かれていて、タイトルは『サラニーチェの初恋』とある。
あらすじを読んだ限り、孤児として拾われたサラニーチェという少女が王宮のメイドとして雇われ、そこの王子様と身分違いの恋をする……といった内容らしい。
「思いっきり女性目線の作品だけど、なんでロイがこんな本持ってるんだろう」
原稿に注力しているロイの背中を見ながら、そんなことを考えるも……さすがに邪魔しちゃうし、聞くわけにはいかない。
きっと、女性の感性を勉強するために読んでるんだろう。そういう作品も書いているのかもしれないし。
ボクは勝手にそう結論づけて、その本を手にソファに戻る。
面白そうな本だし、これで睡魔には負けないと思う。
カラーン。カラーン。
「……はっ」
お昼を知らせる鐘の音で、我に返る。読みふけってしまった。
「あ! 船の時間!」
「えっ!?」
続いてボクが叫ぶと、ロイが弾かれたように顔を上げた。どうやら今の今まで、原稿を書き続けていたらしい。
それからロイは小窓を覗き込むように大時計の針を確認する。その直後から、その顔がみるみる青ざめていく。
「うわあ、まずい! もう郵便船出発しちゃったよ! せっかく頑張って書いたのに!」
直後に頭を抱えたロイは、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「ロイ、落ち着いて!」
「で、でも、もう船が……!」
「ボクが必ず船に届けるから! 原稿はこれで完成!?」
「う、うん。あとは必要書類と一緒に封筒に入れるだけだよ」
「だったら早く入れて!」
ボクが急かすと、ロイはわたわたと封筒を用意し、原稿を入れて封をする。
「それじゃ、届けてくるね!」
「ナギサ、頼んだよ!」
ロイの悲痛な声を背に受けて、ボクは屋根裏部屋をあとにする。
そこから階段を駆け下りて宿屋の外に出ると、水路に飛び降りて全速力で港へと向かった。
大切な原稿が濡れてしまわないように注意しつつ、最短ルートで港へと到着する。そこに船の姿はなかった。
「おじさん! 郵便船はどこ!?」
「え? ああ、あそこだよ」
波止場で作業をしていた船乗りの男性に尋ねると、彼は海の彼方を指差す。
その先には真っ白い帆を広げた帆船があって、今まさに海の向こうへと消えていくところだった。
「送りたい手紙でもあったのかい? 残念だったねぇ」
「あれくらいの距離なら追いつけるよ! 全速前進!」
「え、追いつく?」
困惑顔のおじさんを無視すると、ボクは再び速度を上げて、郵便船を追いかけていく。
「そこの船! ちょっと待ったー!」
やがて船尾に近づくと、ボクは足元に波のジャンプ台を生み出して大跳躍する。
その甲板に華麗に着地してみせると、甲板で作業をしていた船員たちからどよめきが上がった。
「お、お嬢ちゃん、今どこから……?」
「えへへー、ナギサの届け屋です! 荷物、お届けにあがりました!」
誇らしげな気分になりつつ、ボクは原稿の入った封筒を船員さんに手渡す。彼は戸惑いながらも、それを受け取ってくれた。
……うん。これで一安心だ。
そう考えた時、なにやら船の周囲が騒がしくなった。
不思議に思いながら海を見ると、船の前方から無数の小型船が近づいてくるのが見えた。
「イグロース海賊団だぁ!」
その直後、絶望的な声で誰かが叫んだ。