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42・忍び寄る影




 * * *




 ──ボーン……。


 重々しい鐘の音が一つ、響いた。

 作業部屋に設えのある柱時計が、午前八時三十分の時報を告げたのだ。


 窓の外の曇り始めた空を、レティアは放心したようにぼんやりと見上げていた。

 膝の上に広げた色鮮やかな桃色の生地に、針を刺したままで。


 ついさっきまで突き抜けるような青空が広がっていたというのに、あれよあれよという間に湿気を含んだ灰色の雲が広がって、今にも雨粒が落ちてきそうだ。


「ぼんやりしてないで、しっかり手を動かして! さっさと終わらせてメイド長様のところに行ってよね?!」


 メイド長には、アーナスからの新たなドレスの注文書を受け取りに来るよう言われていた……レティアの指名付きで。

 事あるごとに呼び出されるのは、ミアではなくレティアだ。


『みんな、あんたが針子として不十分だって知ってる。ソワイエールの私には当然仕事を、レティアには雑用を任せればいいって。でも悪く思わないでよ? 効率重視の役割分担なんだから』


 ──ミアさんが言ったのは本当にその通り。お使いは私の役割……。


 至極当然だと思うものの、周囲から「使えない」宣言を浴びせられているようで、そんな自分が情けなく思えた。


 ──もっと経験を積んで、私も一人前のお針子として認められたい。


 凛とした想いが込み上げる。

 ようやくハッとして、膝の上で針を持つ指先に力を込めた。


 ──今は仕事……! ラエル、様の……事を、考えている場合じゃない。


 動かす手は早く、けれど注意深く丁寧に。

 縫製を終えると「行ってきます」とミアに声を掛け、仕事部屋を出た。


 雨が降り始めていた。

 重々しく立ち込めた黒雲が、このまま本降りになるぞと地上に脅しをかけている。


 雨音で満たされた廊下には、今朝も人の気配は無い。

 そもそも夜会や宮廷行事の際に訪れた来賓が滞在するための場所だと言うから、賑やかなはずもなく。

 明るい日差しが心地よかった昨日とは打って変わり、だだっ広い廊下は薄暗く不気味で、作業部屋に帰り着くまでに雷でも落ちようものならと思うと心細い。


 結局、誰一人として遭遇することのないまま、迷いながらも本館にあるメイド長の執務室に辿り着いたのだった。


 お使いを終え、執務室を出て扉を閉じると、レティアは「ふうっ」と大きく息を吐く……胸元に抱えた薔薇の花束が甘い芳香を放ち、こわばった心を優しくほぐしてくれる。


「注文書を受け取りに来ただけなのに、なんだか緊張しちゃった」


 メイド長は王城に従事する数百名のメイドたちの頂点に立って牛耳る女性だ。

 髪が短ければ男性ともみまごうような壮年のかんばせを少しも緩めず、彼女は言葉少なくレティアに一通の封筒──リラの花の蝋留めで封をされている──を手渡した。

 そしてにこりともせずに大きな花束を差し出しながら、よく通るテノールで言葉を紡いだ。


『朝採りの薔薇です。はないろどりも無い場所ではソワイエールの感性も働かないでしょう』


 ──厳しそうな人に見えたけれど、ソワイエールの事を気遣ってこんな立派な花束をくださるなんて。怖いのは見かけだけで、心根は優しい人なのかも知れない。


 色鮮やかな真紅の花びらが腕の中で揺れている。

 踵を返した廊下は薄暗さが増していて、雨音は強まるばかりだ。


 ザァァァァ……。


「うんと……こっちだと思ったけど、違ったかな」


 不安が口を突いて出てしまう。

 王城の本館はとても広く、幾度となく往来を繰り返しながら、来客用の別館にまでようやく辿り着いた。


 正しい道を探すのに必死なレティアは、気付いていなかった。

 背後からそっと忍び寄る、黒い人影に。


 ザァァァァ……。


 雨足はいっそう酷くなり、物音を消し去ってしまう。レティア自身の足音さえも。


 ひた、ひたと、ゆっくりとそして確実に、黒い影はレティアとの距離を縮めていく。影はその両手に金属製の栓で蓋をしたガラス瓶を大切そうに抱えていた。


 チリリ、と小さな音がして、レティアが振り返る。

 影は慌てたように物陰に身を寄せた。


「鈴の音が聞こえた気がしたけれど……気の、せい?」


 ザァァァァ……。


 この雨音の中だ。

 もしも近くに小さな鈴を鳴らす可能性のある生き物──たとえば首に鈴を付けた猫のような──がいたとしても、足音や鈴の音は掻き消されてしまう。

 けれどそれらの気配や微かな物音でさえ、薄暗い廊下を辿るレティアの不安と恐怖心を否応なく煽った。


 ──早く戻りたい。ミアさんがいる仕事部屋に……!


 ぐらぐらと心が揺すぶられる。

 心臓が何かに掴まれたようにぎゅっと縮んで息苦しい。


 黒いローブを頭から被った人影が床を滑るように動いた。


 ザァァァァ……。


 人影は一瞬にしてレティアに駆け寄り背後から正面に回り込んだ。

 手に持っていた瓶の栓が外され、投げ捨てられた蓋が床に転がっていく。


 ────!?


 一瞬の出来事だった。

 何かの液体が撒かれたのに気付いた時、レティアの眼前に飛び込んできたものは。

 恐ろしい形相をした女の爛々と光る二つの。大きく開けられた唇の奥には黒々とした洞穴のような闇が覗いている。


 ジュッという厭な音を立てて大理石の床に何かが溶け落ちた。

 灼けるような鋭い痛みが指先に走り、レティアが悲鳴を上げる。


 「あ”あ”あ”────!!」


 しかしその悲鳴よりも大きく響いたのは、液体を撒いた女の叫び声だった。

 女は瓶を持ったその手首を強い力で掴み挙げられ、声を殺して腕の痛みに耐えている。

 何が起こったのかを悟るよりも先に、ジュウジュウ音を立てながら薔薇の花束が溶けていった。


「それを早く離すんだ!」


 言われるがままに慌てて放り出せば、床の上に赤黒いどろどろが落ちて広がり、黒い煙と異臭を放った。


「ひっ……」


 恐ろしく信じがたい光景に、指先の痛みさえも忘れ両手で口元を覆う。

 が女の手を掴んでくれたのが少しでも遅れていたら──想像するとゾッとして吐き気とともに胃液が喉元に込み上げた。


 ザァァァァ……。


 女の手首を掴んでいた手が離れても、女は石化したように動かない。

 すぐそばで短い詠唱が唱えられると、黒いローブを頭からすっぽり被った女の身体は見えない拘束具で縛り上げられ、糸が切れた操り人形のようにぐったりと床にくずおれた。


「傷は浅いようだ。すぐにポーションを持って来させよう」


 低い声の主がすっと手を伸ばして、痛む指先を確かめている。

 視点が定まらず、ひどい悪寒にがくがくと身体が揺れる。


「レティア」


 震える肩を、漆黒の騎士服の腕が抱き寄せた。


「……カルロス……様」

「怖かったな。もう大丈夫だ」


 どうして、とか。

 なぜ、とか。


 疑問符の全てが意識の遠くに離れてしまうほどに、カルロスの腕の中はあたたかかった。





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