* * *
月が綺麗な夜だ。
すぐ隣には、針子仲間の──とはいえレティアよりもずっと経験豊かなミアが、時折いびきを交えた(控えめに言っても静かではない)寝息を立てている。
貴婦人の侍女に尋ねて縫い糸を調達したレティアは、ミアとともに遅い時間まで破れたドレスの修復に努めた。
食事も当然のようにこの部屋で摂り、息つく間もなく針仕事に追われ……就寝の時間が来た時には、レティアもミアも重い肩を背負い、疲労で霞んだ目を瞬かせていた。
ベッドに倒れ込むなりミアはすぐに眠ってしまったが、レティアはむしろ目が冴えて、この半時間ほど寝具の中で身を捩らせたり、体の向きを頻繁に変えたりしていた。
──落ち着かないのは、久しぶりに柔らかいベッドで眠ったからかも知れない。
レティアは我が家のベッドの紙のように薄っぺらな寝具を懐かしんでいた。
なにしろ、ここは王城内の一室である。
豪華なベッドは見るからに上質で、分厚いマットレスは程よい弾力で身体を受け止めてくれたし、枕は頭が沈み込むほどふかふかだ。
眠れなくて当然、とばかりにレティアはふぅ、と息を吐く。
仕方なく寝台から降りて、思い切り伸びをした。
部屋に備え付けのパントリーへと足を運ぶ。就寝前にメイドが運んできたピッチャーを持ち上げてグラスに水を注ぐと、乾いた喉をゆっくりと湿らせた。
そうだ、と思い出したようにクローゼットへと向かう。
両開きの扉を開けると、広々とした空間の中に麻糸で編まれたポシェットが申し訳なさそうにぽつんと置かれていた。
ポシェットに手を伸ばすと、白い布に包まれた小さなオルゴールをそっと取りだす。金の土台にあしらわれた幾つもの宝石が、薄暗い寝室の明かりの下できらりと煌めく。
肌身離さず持ち歩いているそれは、レティアが心から敬愛している父親の形見であった。
──ねぇ、お父様。たまには一緒に月を見ない……?
ミアはとてもよく眠っている。
底ネジを巻いておもむろに蓋を開ければ、控えめだけれど澄んだ音が滑らかに流れ始めた。
──この音、懐かしいでしょう……。錆びた鍵盤を磨いて、アルヴィットがまた鳴るようにしてくれたのよ。
「アルは手先が繊細そうに見えて、実は不器用だから」
体躯の大きな赤髪の聖騎士が小さなオルゴールを相手に格闘している姿を思い浮かべると、くすっと笑みが漏れる。
ふと外気が恋しくなって、オルゴールの音色を聴きながら窓辺に立った。
ここは一階にある部屋で、窓の外には手入れの行き届いたバラ園が整然とどこまでも続いているように見える。夜中でも街灯が灯されているので中庭全体がぼんやりと明るかった。
足元から天井まである格子状の大きな硝子窓は、鍵を外すと簡単に開けることができた。このまま、庭とひと続きになっているテラスにだって出られそうだ。
──夜のバラ園を散歩するのには、お誂え向きね。
澄んだオルゴールの音色が、涼やかな風をはらんだ外気の中に溶けていく。
──お
眠れないとはいえ、慣れない王城の夜の庭に出るのは流石に躊躇われた。
けれどひんやりとした外の空気に触れてしまったからか、すっかり目が冴えている。このままではとても眠れそうになかった。
「……もう少しだけ頑張っちゃおうかな」
居間のカウチの上には、ほつれ縫いの途中のリボンがそのまま置かれている。
レティアはオルゴールをもとの場所に慎重にしまうと、クローゼットに用意されていたナイトガウンを寝衣の上に羽織る。
再び手仕事を始めようと、洋燈の明かりを手に、居間へと向かいかけたその時だ。
寝室の足元まである格子状の窓の外で、動物のような何かの黒い影が動いたような気がした。
驚いて、ハッと息を飲む。
──今の、何……?!
窓の外に目を凝らすが動くものは見当たらない。
ミアが眠る寝室には、ぐー、すー、ぴーと相変わらずいびき混じりの呑気な寝息が聞こえるばかりだ。
おそるおそる、窓の外を見やる。
すぐそばの低木の茂みの中に、二つの動物の
思わず両手で口元を抑え「きゃ」と声を上げてしまったが、目を凝らしてよく見てみると、二つの光る
両手でひょいと抱え上げられるほどの、丸っこくてふわふわの白い犬が、低木の影からレティアをじっと見つめているのだった。
「迷子の子猫ちゃん……じゃなくて、迷子の子犬ちゃん?」
子犬の
吠えるでもなく尻尾を振るでもなく──静かに何かを見透かそうとするかのような子犬の眼差し。
レティアは窓辺へと急ぐと、格子状の硝子戸を押し開けた。
キュッと軽い音を立てて戸が開けば、ひんやりとした外気が部屋の中に流れ込んでくる。
ふわふわの白い子犬は、すぐ目の前で身じろぎもせずにレティアを見上げている。いきなり牙を剥いて噛みついてきそうな凶暴な感じもしない。むしろ白い毛玉のようなこんもりした見た目は抱きしめたくなるほどに可愛らしい。
「どうしてこんなところにいるの?」
子犬から少しの距離を取り、しゃがんで子犬の目線に近づこうとした。
「どうしてお部屋の中を……私を見ていたの?」
もちろん、答えは来ない。
けれど逃げもせず、子犬はただレティアをじっと見つめたままだ。
もふもふの白い被毛に包まれた丸っこい体つきといい、つぶらな瞳といい……その愛らしさは犬好きのレティアの心を鷲掴みにするのにじゅうぶんだった。
「あなた、とっても可愛いわね……!」
たまらなくなって手を伸ばし、子犬を抱き上げた。
噛まれるかも知れないなんて気にしなかった。あまりの愛らしさに我慢できなくなり、小さな身体を胸元にぎゅうっと抱きしめて、もふもふの頭に頬ずりをする。
今度は子犬が「ひっ」と叫ぶ番……いや、叫ばずとも驚きのあまり被毛を逆立てて、必死で抵抗を試みる。
短い手足をやみくもに動かせば、驚いたレティアが慌てて子犬を地面に置いた。
とたん、子犬はくるっと踵を返し、うさぎのように跳ねながらバラ園の奥に逃げ去ってしまった。
「いきなり抱っこして、びっくりさせちゃったかな……?」
迷子の子犬は首輪をつけていなかった。もしかすると、野犬が王城の敷地内に迷い混んだのかも知れない。
──でも、嫌な匂いはしなかったし、野犬じゃないのかも。
子犬の真っ白な被毛は、嫌な匂いどころか人間の香水を纏わせたような
けれどもここ最近、あれほどの愛らしい子犬に遭遇した記憶はない。
レティアは首を傾げる。
──