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37・ノア


 廊下の向こうの白っぽい影は見る間に大きくなる。 

 近づいて来るのは十歳前後くらいの男児で、あろうことか廊下を疾走しているようだ。


 彼は俯きがちに、はっ、はっ……と息を切らせながら、まだ伸びきらない手足を必死で動かしている。


 レティアが呆気に取られていると、少年がすれ違いざまにチラと見上げた。走るのに必死でレティアが正面から歩いて来る事に気付かなかったようだ。

 勢い余ったのか、声を上げる間も無く彼の手がレティアにぶつかった。とたん、握りしめていたものが、はらりと床に舞い落ちる。


「廊下で走っちゃ危ないわ。気をつけて?」


 唖然とする彼を横目に、そっと手を伸ばした。

 床に落ちたのは長方形の一枚の紙。子供のものらしく、たどたどしい文字が並んでいる。


 拾い上げると、まるで奪うようにして取り返す。男児の頬がたちまち赤くなり、さっと後ろ手に両手を回して紙を背中に隠した。


「みっ、見た……?!」

「ん? なにも見てないよ」

「ウソだ! おまえ絶対、いま見ただろっ!!」


 ──年上の女性をいきなり《おまえ》呼ばわりとは。子供ながらにこの子は、高貴な身分だったりするのかも……?


 彼は王族が着るようなしっかりとしたフロックコートの下に、一丁前に上質そうなウエストコートまで着用している。

 この格好は間違いなく貴族か、もしくは王族……粗相があっては大変だと瞬時に悟った。

 彼の容姿は、ふわふわと柔らかそうな巻毛の金髪にエメラルドの瞳。幼いながらも面差しは凛としていて、大人の男性に成長すれば周囲の女性たちを傅かせそうな美男子だ。


「ごめんね。本当は、ちょっとだけ見えちゃった」


 笑顔を返せば、「ええっ!」と頓狂な声をあげる。

 彼は貴族かも知れないが、弟のルカとどこか似ている。年齢も背格好も同じくらいだろう。そう思うと妙な親近感が湧いた。


「やっぱり見たんじゃないか! 僕に嘘をつくなんて。おまえなんか、僕の一言でいつでも牢屋にぶちこめるんだぞっ!」


 キッと見上げてくる彼の言葉尻は激しいが、怖くはない。


 ──ルカが癇癪を起こしてる時より、よほど可愛いわ。


 弟のルカとゆっくり話をする時間も持てていないので、同い年くらいの男児を見ると、つい話しかけたくなってしまう。


「それ、人に見られてはまずいものなの? もしも見られたら、叱られるような内容とか? それとも、うっかり見てしまったが牢屋にぶち込まれてしまうような秘密の文書……とか?」


 レティアが首を傾げると、


「ち、違う! そんなんじゃない! だって、これはただの……」

「ただの?」

「……お手紙だもん」


 手紙、と言ったとたん、俄かに彼の表情が曇る。

 そして後ろ手に持っていたその紙をおずおずと腹の前に持ってくると、両手でぎゅ、と握り直した。


「大事なお手紙をそんなふうにっ。誰かに渡すものなんでしょう?」

「…………」


 彼は黙ったまま、手に持った手紙をじっと睨みつけている。


 ──あんなに元気が良かったのに、急にどうしたのかな。 


「いいんだ、こんなもの」


 握りしめた手紙を見つめながら、つぶやくように彼が言う。そして手のひらで紙をぐしゃっと丸めたかと思うと、無造作にそれを放り投げた。


 あっ、とレティアがすぐに拾い上げる。そして丸まった紙の皺を丁寧に伸ばして、「はい」と手渡した。

 けれど彼は受け取ろうとしない。拗ねるように唇を一文字に引き結び、ずっと下を向いたままだ。


「……見てもいいよ。どうせ捨てるやつだし」


 口ごもりながら、ボソボソと言う。

 閲覧の許可が下りたと、レティアはおもむろに紙に書かれた文字を目で追った。


「えっと……」


 手紙には、ふにゃふにゃとした頼りない文字が並んでいる。ところどころ読めない文字もあり、レティアは文脈からどうにか内容を解読しようと努めた。


「……読めないって、言えばいいのに」

「ぇ?」

「僕の字が下手だから、読めないんだろ?」


 言うと彼は、レティアの手から紙を奪い取る。そのまま破こうとしたので、慌てて止めた。


「ちゃんと読めたよ? お母様への、とっても素敵なお手紙だった」

「ウソだ! 僕にまたウソをついた。おまえは誰だっ?! 牢屋にぶちこんでやるから名を名乗れ……!」


 いやいやいや。

 投牢されては困る! と、レティアは嘆息する。


「どうしてウソだと? 本当に、素敵なお手紙だと思ったのよ? だから破って捨てるなんて言わないで。お母様にお渡しして、読ませてあげて欲しいな」


「読んでもらったんだよ……! でも母上は……喜んでくれなかった。だから僕はくやしくて、ひとりで部屋を飛び出して」


 なるほど、そういう経緯があったのか。

 レティアは大理石の床に膝を着くと、彼と視線の高さを同じにした。弟のルカが癇癪を起こした時はいつも、きちんと目と目を合わせて話すようにしているからだ。


「これを読んだとき、お母様は、なんて?」

「……もっときれいに書けるといいわね、って」

「その一言だけを言われたの?」


 彼はふるりと首を振る。


「嬉しいって、言ってた。でも母上はあんまり喜んでなかった。だからそんな手紙、もういらない。母上を喜ばせられなかった下手くそな手紙なんて……捨てちゃえばいいんだ……」


 またたいた彼の瞳から、ポロポロと涙が溢れ、頬を伝った。

 あらあらと、レティアは弟にするように、彼のまだ小さくて頼りない身体をそっと抱きしめる。


「あなたはお母様のことが大好きなのね。大好きなお母様に読んでもらいたくて、その気持ちを伝えたくて、お手紙を書く練習ををすっごく頑張ったのよね。私にはちゃんと伝わったよ? 心を込めて書いた文字の一つ一つが、ちゃんと私に伝えてくれた。あなたのお母様もきっと、同じだったはず」


「……母上は泣いてた。でもあの涙は、僕の字があんまり下手だから、字が汚いから、泣いたんだ……!」


 母になったことのないレティアに母心はわからない。

 けれど幼い我が子が懸命に伝えた愛情に、心を動かされない母親などいるものか。


「あのね。涙は悲しい時だけじゃなくて、嬉くて出る涙もあるの」

「え……?」


 ──この子のお母様の涙は、きっと。


「……ノア……っ!」


 その時だった。

 廊下の向こうから声がして、数人の侍女を連れた美しい女性が、ドレスの裾をたくしあげてこちらに駆け寄ってくる。


「母、上……」


 レティアの腕を離れた彼の、綺麗な二つの瞳が、まるで待ち侘びていたものを捉えたような輝きを見せた。

 彼と同じ白金の髪を後頭部に一纏めに結え、豪奢なケンプル(普段用のドレス)を凛と着こなしたその女性は、駆け寄るなり彼を腕の中にしっかりと抱き留めた。


「ああ……ノア……! ごめんなさいね。お母様が悪かったわ。あなたが初めてくれた手紙が嬉しくて、嬉くて。それなのに……言葉を間違えてしまったの……! ごめんなさい、ノア……お母様、本当に嬉しかったのよ……っ」


 泣きそぼる母親を、彼はじっと見つめている。


「そんなに僕の字、下手だった? もっときれいに書けるようになったら、笑ってくれる……?」


 えっ、と女性が顔を上げる。

 そしてくしゃっと頬を緩めると、泣き笑いになる。「ノア」と呼ばれた彼の手から手紙を受け取ると、大切そうに胸にあてた。


「このお手紙は私の宝物……。文字のきれいさなんて関係ない。あなたが心をこめたお手紙をくれて、お母様は今、すごく嬉しいの……」


「もしかして、『嬉くて出る涙』?」


 きょとんと見上げる我が子を、女性はもう一度ぎゅうっと抱きしめる。


「ええ……そうよノア。わたくしの愛しいノア……。これは嬉しくて出る涙。よく知っているわね……!」


 とたん、ふわりと彼の顔に笑みが浮かんだ。

 その顔を見たレティアも、心からの安堵とあたたかな気持ちに包まれていた。


「嬉しくて出る涙があるって、この人が僕に教えてくれたんだ」


 彼の一言に女性は立ち上がると、そばで見守っていたレティアに軽く頭を下げた。

 そのまま、すっと手を伸ばしてノアの手を取る。


「……さぁ、ノア。お茶が冷めないうちに戻りましょう」


 振り返りざまに、ノアはレティアに向かってにっこり微笑んだ。

 そして繋いでいない方の手を上げて、そっと振る。


「またね、レティア」


 え、と声を漏らしてしまう。ノアにはまだ名前を教えていないはずだった。けれどすぐにその種明かしに気付く。

 レティアは胸元に──《レティア・ヴァーレン》と刺繍で綴った名札を付けていたから。


 ──彼は、文字を『読む』ほうも頑張っているのね。


 胸の奥がジワリと熱くなる。

 美しい女性とルカの背中が遠ざかっていくのを見つめていた……のだが。


「しまった…………!」


 悦に浸っていたレティアだが、うっかり寝過ごして飛び起きたような顔になる。

 慌てて、ノアの母親の後ろを歩く侍女らしき女性に駆け寄って声をかけた。


「あの……。私、アーナス様お抱えの針子なのですがっ。仕立て糸は、どこに行けば借りられるのでしょうか」




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