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35・むしり取られた薔薇の花


 * * *




 豪奢な彫刻が施された『薔薇の間』の重厚な双扉が二人の侍女の手によって開かれた。

 扉の向こう側に立っているのは、王太子の婚約者アーナス・ヴィクトロワ・デマレ王女だ。


 たっぷりと長い黒髪を幾重にも編み込んでハーフアップに纏め上げ、色鮮やかな真紅のドレスに身を包んだ彼女は、いつにも増して華やかに見える。心なしか今日は化粧も濃い。


「……ご機嫌、麗しく無いようね?」


 仕立屋アンブレイスの針子たちは、いつものように扉と垂直の一文字に並んでいる。

 レティアの耳元にこっそり言葉を寄せたのは、同僚のミオン。仕立屋アンブレイスの面々の中でも、レティアに好意を持ってくれている数少ない同僚の一人だ。


「……………」


 衣擦れの音を立てながら無言のアーナスが入室すれば、店長のシーラを筆頭に針子たちの背筋が伸びる。レティアも倣ってしゃんと胸を張った。


 アーナスがレティアの目の前に差し掛かった時だ。

 しっかりと前を見据えていたルビーレッドの鋭い眼差しが不意に伏された。そして正面を向いたまま立ち止まると、目だけを動かしてこちらを見遣る。


「あなた。そう……確か名はレティアと言ったわね」


 突然の呼びかけに驚いたレティアが動揺した顔になる。不機嫌そうな姫君は、身体を向けて顎を突き出すと、見下すような半眼を崩さぬまま言った。


「わたくしの専属にしてやると言ったのを覚えてる?」

「……勿論でございます、アーナス様」


 丁寧に一礼を取るレティアとアーナスの視線の高さはほぼ同じだ。


「そう。ならば今日から、あなたには、わたくしの専属に相応しい仕事をしてもらいます」


 専属に相応しい仕事とはどういう意味だろう。

 首を傾げていると、アーナスは身を翻し、部屋の奥へと進んで行く。

 三体並んだトルソーには、仕上がったばかりの壮麗なドレスが着せつけられており、それぞれがまるで「自分を見て欲しい」とばかりに堂々たる輝きを放っていた。


 アーナスはその中のひとつ──打ち合わせの際にレティアが提案した、薔薇の形に見立てたピンクのサテンリボンが幾つもあしらわれている──の前に立つ。


「提案通りね……素晴らしい出来映えだこと」


 そして、ふ、と小さく笑みを漏らせば、しゅるりと衣擦れの音をさせながら身を屈めた。

 繊細なリボンの薔薇に、アーナスの両手が伸びる。


「アーナス様、何を?!」


 声を上げたのはシーラだ。

 けれど気に留めるふうもなく、アーナスは薔薇のひとつを力いっぱい引きちぎった。


 ヒッ……どこからか小さな悲鳴が上がる。

 アーナスは構わず、続けざまに次々と薔薇の花をもぎ取っていく。


 上質な絹布を裂く残酷な音が部屋中に響いた。

 あでやかで美しい薔薇の花が無惨に地に堕とされていく光景を、周囲の者たちは成すすべもなく見守るしかない。

 その場には驚愕の吐息と、針子たちの悲痛とも言える落胆に満ちた空気が広がった。


「…………っ」


 驚いたのはレティアも同じだ。


 ──アネットさんたちが手塩にかけて仕上げた、リボンの薔薇が……!


 ベテランの針子アネットは勿論、場には彼女とともに薔薇の花を縫った針子たちが居る。レティアからは見えないが、彼女らの心中をおもんばかれば喉元が張り裂かれそうだった。


「お、畏れながら申し上げます! アーナス様……何故そのようなご無体を……?! 私どもの仕事がどこかお気に召さなかったのでしょうか?」


 これ以上黙っていられなかったのだろう、とうとうシーラが声を上げた。

 たかがドレス。されど仕立屋アンブレイスの針子たちにとっては、手間暇と愛情をかけて育てた我が子同然の一着である。


「いいえ、仕事は一流よ。それは認めるわ」

「ならば、なぜ……」

「だから言ったでしょう? わたくしの専属の針子レティアに、専属らしい仕事をさせたいの」


 意味が汲み取れず、シーラをはじめ周囲の者たちが思案げに目を泳がせる。そんななか、衣擦れと靴音を響かせて再びレティアの前に歩み寄ったアーナスが、今度は嘲笑するような視線をレティアに向けて放った。


「ねぇ……あなたはこのドレスを仕立てるのにどんな仕事をしたの? 薔薇を作ったのも、どうせ別の針子でしょう。だめよそんなの、わたくしの専属なんだから。人任せにしないでちゃんと仕上げなきゃ。わたくしが言ってること、何か間違ってる?」


 理屈としては間違っていない。

 けれどレティアは、まだ『営業担当』から抜け出せないほぼ新人の針子見習いだ。そのことはアーナスも先の採寸の際に知った筈なのに。


 ──《嫌がらせ》だ……。

 完全なる新米いびりだと、誰もが思ったのは明白であった。


「あら? 随分と浮かない顔ね。王都で名高い仕立屋アンブレイスの針子たちは、皆が揃って一流なのでしょう? 中でもレティアは王太子妃となるわたくしの専属なんだから、突き抜けたポテンシャルを見せてもらわないと。ねっレティア、できるわよね? リボンで花を作るなんて簡単でしょう?」


 簡単な筈がなかろう。

 一見リボンを重ねただけのように見える薔薇一つ取っても、花びらの一枚一枚を丹精込めて縫い付けていく手作業は百どころでは済まない。花びらを縫い付けるまでにも採寸や裁断など幾つもの工程を経ているのだ。


「今日は仕上がったドレスを届けに来ただけよね? だったら他の者はさっさとお帰りなさい。レティアには薔薇が仕上がるまでここに居てもらいます」


「しかしながらアーナス様っ、レティアは針子としてはまだ未熟でございます。一人で仕上げるなど到底、技術が及びません。それに糸を抜いても穴は残ります。痛んでしまった生地はもう使えません。作り直すにせよ、新しい生地を用意しなければ……」


 無惨に薔薇がちぎり取られたスカート部分の生地も裂けてしまっているが、これは縫い合わせればどうにかなる。けれど繊細な光沢を持つリボンで誂えた薔薇は全て形が崩れてしまっている。


 アーナスは拗ねるように、むぐ、と口を噤んだ。


「生地……そうね。じゃあこうしましょう。薔薇の数が減ってもかまわないわ。今あるものを使って頂戴? 無駄のない再利用よ」


「再、利用……」

「ええ。今ある生地で縫い直せばいいでしょ? 針穴の部分は取り除くことができるでしょうし」


 アーナスは事も無げに言う。

 無茶苦茶だと、シーラはため息混じりで睫毛を伏せた。

 縫ってあるものをほどく作業ほど手間と時間がかかる作業は無い。いくら嫌がらせであっても、こんな無茶は針と糸に触れた経験がある者なら言えない筈だった。


「材料を持ち帰り、工房でレティアに作業をさせてはいけませんか?」

「あなた……馬鹿なの。野放しにしてしまったら皆でズルして手伝うでしょう?」


 野放し、とは。まるで罪人扱いのような発言をする。


「ですが……レティアの慣れない手作業では、何日掛かるかわかりませんし」

「心配は無用よ。清潔な寝る場所と着替え、食事もちゃんと用意させますわ。ああ、わたくしったらなんて寛大なの……!」


 きちんと仕上がるまでは帰さない。

 そんな意地悪い意図が明白であり、レティアの諸事情や都合を完全に無視した身勝手な命令だった。


「せめて、レティアの他に指導する者をもう一人置かせてくださいませ。レティアだけでは縫い方すらままなりません。幾らアーナス様のお言い付けであっても、新人ひとりに作業をさせて満足のいく仕上がりにならなければ、私共の矜持にも関わります」


 シーラの訴えに、アーナスは少し考える風の素ぶりを見せたが、不承不承と言った具合にうなずく。


「……いいわ。じゃあ、そこのあなた」


 指差された先に居たのは針子のミア。

 えっ、私?! と見開いた目を白黒させている。


「わたくしの名において、レティアと共に留まることを許可します。ですが、あくまでもあなたは指導係。過分な手伝いは許しませんわ!」


 計らいに感謝します、と、シーラが頭を下げる。

 針子たちは一様に心を騒つかせながら成り行きを見守るしかなかった。 


 ──大変な事になってしまった。


 無論、誰よりも戸惑っているのはレティアだ。

 薔薇の花を仕立ててドレスに縫い付ける作業を終えない限り、この城からは出られない。二人だけの気の遠くなる作業、いったいどれ程の時間を要するのか検討もつかなかった。


 当然、外部に事態を知らせる術もない。

 居酒屋でピアノが弾けないどころかワームテール夫妻を心配させるだろうし、戻らないレティアを案じる母親と弟が何よりも心配だ。


 ──ミアさんにも、大変な迷惑を掛けてしまうわね……?


 針子のミアと言えば、先日、薔薇30本を300本と書き違えてレティアに濡れ衣を着せた張本人だ。


 そっと視線を向ければ、まるで自分の葬式のような顔をしている。

 たった一人のパートナーが、よりによって、ミア。

 レティアは不安を隠せない。


 けれどこの不測の事態が、に繋がって行く未来を、レティアはまだ知らなかった。




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