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34・失われた《記憶》



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「せっかくの食事の席に余計な邪魔が入ってしまったな」


 定食屋の店主への挨拶もそこそこに、ギャラリーに絡まれながらの騒がしい昼食を早々に切り上げ、レティアはカルロスと馬車に向かう路地を歩いていた。


 季節外れの木枯らしが口笛を鳴らす。

 カルロスの漆黒の長髪を靡かせた強い風が黄色い落ち葉をくるくると掬い上げ、レティアの足元にこれでもかとばら撒いた。


「……カルロス様」


 レティアが不意に立ち止まったので、後ろで一つに結えた黒髪を揺らしてカルロスが振り返る。


「アンブレイスを訪ねてくださったのは、私の事を思い出してくださったからでしょうか」


「他にどんな理由が?」

「アンブレイスで私を『恋人』だと仰ったのは……」

「君の恋人だとでも言わなければ、周囲が納得しないだろうと思ったが。迷惑だったろうか」


「迷惑だなんて。でも一応、職場ですし」

「なろほど。気が利かずにすまなかったね。人助けには自信があるが、には慣れてなくて。君の同僚には、八年ぶりに再会した昔馴染みの男が勝手に恋人宣言をしたとでも」


「いえ、違うんです。思い出してくださったのならすごく嬉しいのです。でも今と昔とは状況が違っています。父が亡くなって家が没落しましたし、その……。少なくとも今は、伯爵家にご招待いただけるような立場ではありません」


「なんだ、そんな事を気にしていたのか。ガロー伯爵の方が君に会いたいと言っているんだ。それに今の状況。俺が絶賛レティアを口説き中では、駄目だろうか?」


 あおい宝石の瞳がレティアを見下ろしている。


 ──カルロス様は、本当に私を口説いている……?


 自称レティアを熱烈に好いている(らしい)赤髪の男アルヴィットの、熱のこもった瞳を知っている。

 けれどカルロスのそれはどこか醒めていて。

 甘い恋心とは別の場所、あるいは──レティアの心の奥を見透かそうとするような鋭い輝きを帯びていた。


 そもそも、約束した当時はまだあどけなかった少女を、十八歳の青年が本気で口説いたりするだろうか。

 そんな疑問を今まで持たなかったと言えば嘘になる。

「大人になったら」なんて曖昧な口約束。

 けれど残酷に降りかかった家族への責任と貧しくままならない日々のなかで、小さな光を信じて待ち続けていたかった。それがレティアの生きる希望でもあったから。


 ──『迎えに行く』と言った手前、私に気を遣っているのかも知れない。そもそも八年前の私は十二歳で、カルロス様は十八歳。冷静になって考えれば、あれはただの社交辞令だったのかも知れないわね。


 そう言えば、とレティアは思い立つ。


 ── わからないのは、私とカルロス様がどんな風に知り合ったのか。


 覚えていない。

 これは今に始まった事ではないのだが、記憶の断片すらもなく。カルロスと出逢った経緯をレティアはまるで覚えていないのだ。

 思い出そうとしても、不思議なことに記憶に薄い膜がかかったように頭の中がぼやけてしまう。




「娘がお世話になっております」

 第一声でレティアの母アメリが、カルロスに放った言葉だった。


 遠慮するレティアを鷹揚になだめながら、巨大な花束を二つ、軽々と両腕に抱えたカルロスがレティアの家を訪れたとき。

 奥の寝室で横になっていた母は驚いて身体を起こした。


 弟のルカなどは《姉の恋人候補》を名乗る男の突然の襲来に度肝を抜かれ、母親のベッドの脇にくっついて身を固めていたが、明朗でウィットに富んだカルロスのにすっかり絆されてしまったようだ。


 花束を届けるという名目で訪れたカルロスはその言葉の通り、挨拶を済ませて花束を置いたあと、すぐにいとまを告げた。


「事前に知らせてくれていたら、もう少しマシなお迎えが出来たのに。」と、アメリが恨めしがる。

 そんな母の顔色は、少し前に比べると見違えるほど良くなっていた。


「母さまに聞きたいことがあって」


 言いながら、レティアは三つのバケツにたっぷりと水を注ぐ。家にあった一つと、隣から借りてきた二つだ。

 二百本の薔薇を生ける花瓶などあるはずもなく、バケツに分けて入れても薔薇の花がぎゅうぎゅう詰めになるのは、可哀想だけれど仕方がない。


「あらまぁ、どうしたの? あんな立派な恋人ひとに初めて会わせてくれたのに、浮かない顔をして」

「初めてって、母さまはカルロス様のこと……と言うか、ガロー伯爵様を知っているのでしょう?」


「ガロー……」

 母は少しだけ怪訝な顔をしたが、《伯爵》と聞いてぱっと表情を明るくした。


「彼は伯爵家のご子息なの? まぁまぁ、それは素敵なご縁だこと!」

「……っ、母さまはガロー伯爵の名前も知らないの?」


 今度はレティアがきょとんとした顔になる。


「てっきり亡くなったお父様の知り合いだと。ガロー伯爵がご子息を連れて、家にお父様を訪ねて来られたとか、無かった?」

「そうねぇ、覚えがないわ。お父様と交流があったのかも知れないけど、仕事関係のご友人は私もよく知らないから」


「少なくとも八年前、カルロス様と私には接点があったの。でも、どう言う経緯で、どうやって話したのか思い出せなくて」


 はて? と不思議顔の母を見て、レティアはいよいよわからなくなる。


「え〜っ、そんなのどうでもいいじゃんか。僕はあのお兄ちゃん好きだよ! 警吏騎士団長なんて超カッコいいし! それに今度、僕が読みたかった本とお菓子を持って来てくれるって!」


 一方で、弟のルカは無邪気に笑顔を輝かせる。


 ──お母様も知らないガロー伯爵の子息と私が、どうして話をする仲になったの。私たちはそもそも、どうやって知り合ったの?


 次に会う機会があるのなら、カルロスに尋ねてみなければ。

 カルロスはレティアの食べ物の好みまで知っていた。昔のことを覚えている彼なら、きっと納得のいく答えをくれるはずだ。


 明日は仕上がったドレスを王城に届けに行く。

 総括騎士団長のカルロスは、王城にも出入りするのだろうか。


 ──副団長のラエルも。


 気付けばラエルの事ばかりを考えてしまう。

 カルロスと一緒にいる時の《後ろめたさ》の正体を、レティアは自覚していた。


 ──封じなければならない想い。


 約束を信じて待ち続けたカルロスと再会を果たした。

 けれど、恋人だと言われても、口説いていると甘い言葉を囁かれても、少しも心が動かないのは。


 ──慕ってはいけない人を、好きなってしまったから。


 薔薇の花々の甘やかな香りに包まれながら、レティアは自嘲する。

 この気持ちは当然、『大切にしたい人がいる』と言ったラエルには届かない。


 そもそもラエルに想いを寄せること自体が、自分にとって罪深いのだ、と。





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