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33・愛されるためならば


「それでも、わたくしは殿下をお慕いしております……たとえあなたが相手にしてくださらなくとも」


 ラエルの腕にアーナスが身体を寄せれば、彼女の想いが重みとなって伝わってくる。


「ラエル殿下を、昔からずっとお慕いしていたわ。そう……十四歳のデビュタントの日よ…… 。あなたは覚えていらっしゃらないでしょうけれど」


 アーナスの表情からはすでに怒りが消えており、何かを慈しむようなその瞳はどこか遠くを見つめていた。


「自分では精一杯のお洒落をして出かけたはずだった。なのに……他の姫君や大人の令嬢たちの輝きに、すっかり自信をなくしてしまったの。壁際から離れられなかったわたくしに、殿下は声をかけてくださった。お優しい手を差し伸べてくださった。わたくしを馬鹿にした姫たちの憧れの的、ラエル王太子殿下……そのあなたが、わたくしを最初のダンスのお相手に選んでくださったのよ? それがどういう事か、わかっていて? 田舎者だと笑われて、惨めさと寂しさに身を潜める《壁の花》だった、このわたくしに……!」


 緋色の瞳から再び溢れ出した涙が、ラエルの礼服の胸を濡らす。


「嬉しかった……。自分を磨いて、もっともっと輝いて。いつかきっとラエル殿下に認めてもらえる女性になる。あの日にそう誓ったの」


 ラエルは憂いを含ませた表情のまま眼差しを伏す。

 濡れた礼服を掴み、甘えるように額を寄せてくる彼の婚約者をやむなく両腕で抱いた。ラエルの広い礼服の胸に小柄なアーナスの身体はすっぽりと収まってしまう。


「妻になって、あなたに愛されたい。そのためになら、どんな事だってする……! だって殿下の事が大好きなんだもの」


 木蓮の花弁がまた一枚、剥がれた。

 乳白色の肉厚な花弁はボソリと音を立て、重力のまま地に堕ちる。


 アーナスを腕に抱きながら、ラエルは空を見上げていた。

 青く澄んだ底無しの空には雲ひとつ見当たらなくて。ただ白い鳥が一羽、視界をふたつに切るように飛んで行く。


 ──結婚。


 それは王太子の戴冠を迎えたその日から、十八歳になったばかりのラエルについて回った言葉だった。

 愛のない結婚に疑問の抱き、苦節八年。身を固めることを拒み続けた歳月が遂に終焉を迎えようとしている。


「……アーナス」


 これが自分に敷かれた道だ。

 脇道の無い、命が尽きるまで続く一本道。


「認められたいと言うのなら、私はすでに君を婚約者として認めている。立場上、君の望みの全てに応える事は出来ない。だが夫となるからには、君を幸せにしたいと思っている」


 頭上から降ってきた思いがけない言葉の羅列に驚いて、アーナスが顔を上げる。


「誓って欲しい」

「ぇ……?」


 ラエルの眼前に、事切れる前に喉元を掻き切ろうとしたかのような──白皙はくせきの首に幾筋も残る、鮮血を滲ませた紅い痕跡がよぎった。

 両目を裂けるほどに見開き、苦渋に顔貌を歪ませた若い女性の禍々しいづらが鮮明に蘇る。


 眼裏に焼きついたその戦慄の光景が、自分を見上げるアーナスの面輪おもわと重なった。


「もう二度と、はするな」

「あんな……って」


「昨夜だ。私に黙っている事があるだろう、話してごらん」


 ぐ、と口を噤んでしまったふたりの間に、静けさが流れて行く。

 花壇の手入れをする侍女たちの笑い声が、木蓮の花の香混じりの風に乗って微かに届いた。



「昨日の夜は、一緒にお酒を飲んだだけなの」


 ようやく口火を切ったアーナスの、子猫のような丸い瞳が雲ひとつ無い青空を仰ぐ。

 並んだふたりは木蓮の大木にゆったりと背中を預けている。腕を組むラエルは険しい表情かおでアーナスに視線を送りながらも、急かす事なく次の言葉を待った。


「あなたが先に眠ってしまったから、わたくしも隣で眠った……ただ、それだけです」


 一言一句を噛み砕くように、ゆっくりと言葉が放たれる。


「卓上にあった葡萄酒は、君が?」

「お酒はわたくしが侍女に用意させました」


 ラエルの形良い唇から、ふぅと呆れたような吐息が漏れる。


「君のような素人がを扱って、もしも量を誤れば」

「ごめん……なさい」


 アーナスは今にも泣き出しそうな頼りない声を漏らす。

 嘘をついていたのが後ろめたいのか。しおれた花が首をもたげるように下を向いて、ラエルに背を向ける。


「どうしても、あなたと一緒に居たかったの……ラエル殿下はわたくしのものだと思いたかった。だから……っ」


「だから、酒にと?」


 途端、ルビーレッドの瞳が揺らいだ──のだと。


 アーナスの肩がくるりと回され、互いにの視線が重なり合う。

 あろうことか王太子に虚言を吐き、服薬させたのだ。激昂しているだろうと案じたラエルの蒼い眼差しは存外に穏やかで、けれど深い哀しみに満ちていた。


「私が死んでも良かったのか……?」

「そんな、嫌よ、嫌! そんなこと絶対に嫌っ」


 怒鳴るでも責めるでもなく、失望を孕みながら落とされた、ラエルの低い声。


「決して人に害を成すような強いものじゃないのです。ほんの少し、眠くなるだけ。だから……どうか、許して……お願いですから」


 潤んだルビーレッドの瞳が見開いて、懇願するように、縋るようにラエルを見上げている。


「どんな薬でも、量を謝れば毒と化すのだ」


 現にその影響だと思われる酷い頭痛は未だ癒えていない。



 ────薬。

 ラエルの脳裏に再び闇の記憶が蘇る。

 悶え苦しみながら死に際を迎えたの、哀れな断末魔の形相が。


 アーナスを迎える前、ラエルには別の婚約者がいた。


 社交界の面々に婚約者を披露した夜会──そこで起こった『悲劇』。

 ラエルが彼の婚約者から目を離した、束の間の出来事だった。



 ──彼女のも『薬』、つまりは『毒』だった。あれはやはり……。



 ラエルの胸中を再び侵食してくる暗雲のような《疑惑》。 

 しかしアーナスもあの場に居合わせたとは言え、まだ表情にあどけなさを残す少女だ。毒を盛って人を殺めるなど有り得るだろうか。

 それに、少なくともアーナスを婚約者として迎え「幸せにしてやりたい」と願った今は、翳りの無い心のままでいたかった。


「……私、死にます。死んでお詫びをいたします。殿下に嫌われるくらいなら、死んだ方がましだわ!」


 あの凄惨な夜の真相は、手掛かりの無い闇の中。

《王太子の婚約者・変死事件》の真実を覆い隠した黒い霧が、この先も晴れる事は無いだろう。



『妻になって愛されたい。そのためにならする。』



 アーナスはいよいよ叱られた子供のように泣きじゃくる。

 落胆と疑念に苛まれながらも、ラエルは脳裏に連呼するアーナスの言葉の残滓を強引に打ち消すのだった。





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