ラエルは絶句した。
「アーナス、とにかく落ち着いて話をしよう」
後頭部は激痛の余韻がまだ続いている。
ずくりずくりと襲ってくる痛みを逃すように目を閉じて浅い呼吸を繰り返し、両手を広げてひらひらと上下させた……落ち着いていないのは明らかにラエルの方だ。
そんな彼の動揺をアーナスは見逃さない。
「まさか、覚えていないなんて仰らないでしょう? 昨日の夜のこと……」
幸せの絶頂とも言える笑顔がぱっと消え、いつもの怒った子猫の表情に変わる。「記憶に無い」なんて言えば、彼女はまた癇癪を起こすのだろうか。
「……」ラエルは言葉を失った。
アーナスは
ずくりと再び後頭部の血管が脈打ち、痛みに顔を顰めた。相変わらず頭の中が朦朧としている。
「お願いがあるの」
ラエルの広い胸に収まったまま、呟くようにアーナスが言った。
「ン……」
頭痛を逃そうと、軽く頭を振って言葉に意識を集中させる。
アーナスが胸に頬を押し付けて来るので、諦めに似た息を吐き、華奢な彼女の腰元を手持ち無沙汰な片腕で包んだ。
「……何だ?」
「今朝は、どうしてもっ。殿下と二人だけで朝食を摂りたいのです。お部屋に食事を運ばせますから、わたくしが支度をして戻るまで待っていて欲しいの。どこへも、行かないで欲しいの……!」
ラエルの腕の中を離れて寝台から足を下ろし、アーナスは裸足のままレースの夜着の裾を揺らして寝室の扉に向かって歩いた。
そして振り返ると、満面の笑顔を向けてしなやかにお辞儀をする。
「今度こそ……約束よ?」
天井まである巨大な硝子窓から、神々しい光が寝室一杯に差し込んでいた。
呑気な小鳥たちの囀りがかしましい。
後頭部の脈打つような痛みはおさまらず、一定の周期でやって来る。アーナスが退室してからも、ラエルはしばらく立ち上がれないでいた。
ふと目を遣ると、寝台脇に置かれたサイドテーブルに、ボトルに半分ほど残った葡萄酒とクリスタルのグラスが二脚置いてあるのが見えた。
──私とした事が、酒の勢いに呑まれたか。
まさかと居直る。
どれほど飲んでも滅多に後には引かないラエルだ。たかが葡萄酒を半分空けたくらいで。
その時、壁際の柱時計が唐突に九時の時報を打った。
重厚で艶のある鐘の音が執拗に打ち響いて、ラエルをせき立てるように鼓膜とぼやけた脳髄を振動させる。
「ッ、まずい……!」
ゲオルクと議会の打ち合わせをする約束だ。
『アーナスを抱いたのか』なんて事を、とやかく考えている暇はなかった。
重い身体を無理からに持ち上げて寝台を降りる。
先ほど交わしたアーナスとの会話も、酷い頭痛と朦朧とする意識の中に沈んでいった。
*
急いで着替えを済ませ、執務室に続く廊下を小走りに急ぐ。
回廊の途中で花を生けていた侍女が三人、ラエルの姿を認めると慌てて立ち上がって頭を下げた。
「おはようございます、王太子殿下」
「おはようございます」
おはようと目配せをするが、一歩踏み出すごとに生き物のように痛みが走り、都度、眉を顰めてしまう。
侍女たちはラエルの後ろ姿を見送りながら「はぁっ」と甘ったるい息を吐く。
「今朝のアーナス様を見た? 頬が薔薇色に輝いてらしたわ」
「お目覚めは殿下のご寝室だったそうよ」
「やだ、妄想が膨らむじゃない……!」
執務室の前にゲオルクが待ち構えていて、ラエルの姿を認めるなり眉根を吊り上げる。いつもの如く懐中時計と睨めっこをしていたらしい。
「7分42秒の遅刻でございます、殿下。国家の
ゲオルクがこちゃこちゃ言っているのを、務めて明るく受け流す。
「以後、気を付けるよ」
「同じ言葉を何度頂戴したことか」
お小言がまた始まって、ラエルはやれやれと肩をすくめた。
議題は『弱小貴族の権力と領内統治をいかに維持するか』というものだった。相変わらず脈打つ不快な頭痛に顔をしかめながらも、ラエルは議員たちの答弁を熱心に聞いていた。
「──では次。レジーナ州代理、エスカルダ議員」
威厳ただよう初老の精鋭達が真剣な面持ちでいるなか、新たな議題を読み上げようと議長が立ち上がり、コホンと咳払いをしたその時だ。
唐突に広間の扉が開いて、アーナスが血相を変えた数名の侍女とともになだれ込んできた。
「アーナス様っ、どうかお気をお鎮めくださいませ!」
「アーナス様っ、ご冷静にっっ」
一瞬にして厳粛な空気が破られ、議員らは驚き、何事かと騒めき始めた。
次女たちが必死でなだめようとするのを気にも留めずに、アーナスの怒りと悲しみに満ちた視線が主席に着座する王太子を捉える。
そして足早に歩み寄ると王太子ラエルの眼前に立ちすくみ、大きく息を吸い込んだ。
ラエルは──驚いてはいたが、言葉を発する事なく冷静にアーナスを見上げる。
「殿下は……っ」
しばしの沈黙のあと、とうとうアーナスが口を開いた。
議員らの騒めきが瞬時におさまり、今度は静寂が場を仕切る。ゲオルクをはじめその場にいた者たちは、これから何が始まるのだろうと興味深げに息を殺した。
「殿下は……わたくしと議会と、一体どちらが大切なのですか」
アーナスの発言に議員たちは眉根を寄せて騒めき立ち、互いにヒソヒソと話しはじめた。ゲオルクなどは唇を一文字に引き結び、なぜこの場に及んでそのような事を口にするのだと失望に顔を紅潮させている。
もしも彼女が王太子の婚約者という立場でもなければ、即座に捕えられ、処刑されてもおかしくない事態だ。
そんなアーナスの剣幕に動じず、ラエルは黙ったまま彼女を見つめている。
目の前の王太子を睨んでいたルビーレッドの瞳が弱々しく潤んだと思えば、大粒の涙が頬にぽろぽろこぼれ落ちた。
「……民衆の願いは何よりも大切になさるというのに。わたくしの願い事なんて、何ひとつ聞き入れてはくださらないじゃない」
再び訪れた静寂のなかで、王太子の婚約者がしゃくり上げる声だけが響いていた。
場に緊張が走るなか、ラエルがすっと立ち上がりアーナスの腕をつかむ。そして固唾を飲んで沈黙する議員らの間を抜け、議会の間の扉に向かって歩いた。
すぐに戻る──と、ゲオルクに囁きを残して。
「皆の者! 今より暫しの休息に入る、静粛に!」
ゲオルクが声を張り上げる。
議員たちの視線を一斉に浴びるなか、ラエルに手を引かれたアーナスは嗚咽を漏らしながら終始泣きじゃくっていた。
「手が痛いわ、離して!」
手入れの行き届いた裏庭には、色鮮やかな季節の花々が爛々と咲き乱れ、可憐な香りを漂わせていた。
満開に花開く白木蓮の大木を背にしてアーナスを立たせると、ラエルも隣に立って腕を組み、泣きじゃくるアーナスの嗚咽が落ち着くまで見守った。
木蓮の白い花弁が一枚、はらりと落ちる。
「あなたにとってわたくしなど、本当はどうでもいい存在なのでしょう?!」
「…………」
「そうよ、わたくしは国王陛下に選んでいただいた身だわ。あなたの意思や望みとは、何の関係もないところで」
アーナスの嗚咽は止まらず、ラエルを見上げるエメラルドの瞳は涙で濡れそぼっている。