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30・『正しい情報』


 *



 困惑から醒めないままレティアが大通りに出れば、立派な三頭立ての馬車が待ち構えていた。

 馬車の傍ではカルロスが御者と笑顔を交えながら立ち話をしている。アンブレイスで見せた精悍な面差しはそのままに、長い足を休めて腕を組み、御者に気を許しているように見えた。


 ──私、本当にカルロス様と再会したのだわ。


 夢にまで見た蒼い瞳の青年が目の前にいる。

 それは確かにレティアが長い間想い続けたカルロスで……。


 ──再会できたのはとても嬉しい。私を思い出してくれたことも。でも、何だろう……このひどく後ろめたい気持ちは……。


 アンブレイスの入り口で立ち止まったまま動けずにいるレティアに気付くと、彼は頬を緩めて手招きをした。

 大通り沿いの歩道はそれなりに幅があり、人々の往来がある。ぶつからないように横切るが。

 走って来た子供に気付かず、カルロスに腕を引かれてしまった。


「危ないよ。大丈夫?」

「すみません……っ」


 恐縮して下を向いてしまうレティアを見下ろせば、カルロスは目を細めて、ふ、と短く笑う。


「そういう危なっかしいところ。昔と変わらないな?」


 昔と変わらない。

 カルロスはレティアの「昔」を知るあの青年なのだと思えば、再会の実感がじわりと湧いてくる。


「あの、先ほどは有り難うございました。立て替えていただいた薔薇の代金のことですが……すぐにはお返しすることができそうになくて」

「気にしなくていいよ。堅苦しいのは抜きだ、私と君の間柄だろう」

「でも、あんな大金」

「薔薇は君へのギフトだ。再会の記念に何か贈りたかったから、ちょうど良かった」


 上質な生地のオーバーコートを纏った御者がうらうやしく扉を開けると、車室に閉じ込められていた薔薇の香りが甘やかに鼻腔に届く。


「おっ?」


 レティアを先にと促すカルロスだが、短い声を漏らして馬車の室内を眺める。

 そして肩越しに振り返るとレティアに微笑みかけた。


「車内が狭まってしまったが、なかなかのものだよ」


 見れば、開いた扉から覗く馬車の座席の半分を埋めるように薔薇の花束が鎮座している。びっしり詰まった二百本の薔薇はやはり圧巻だった。


「そんな、困ります……!」

「困られても困るのだが」

「少しずつですが、お返ししますっ」

「俺に借金をするの? 悪いが利子は高いよ、いわゆる高利貸しだ。そうだな、半月で一割といったところだろうか」


 レティアが目を丸くするのを楽しむように、カルロスは不敵な笑みを浮かべている。


「それでも支払うと言うのなら借用書を用意するが……どうする?」


 借用書と聞いて怖気づいたのか、レティアが、ぐ、と言葉を飲み込んだ。


 ──不本意だけれど、今の私に薔薇のお金を返す力はとてもない。ここはカルロス様のご厚意に甘えるしか……。


 そんなレティアの葛藤を、カルロスは爽やかに笑い飛ばしてしまう。


「はっ、冗談だよ。君が何と言おうと薔薇は君への贈り物だ。さあ馬車に乗って? この話はもうお終い!」

「有り難う、ございます……。お言葉に甘えさせていただきます」


 心からの感謝を込めて軽くカーテシーを取る。

 カルロスはそんなレティアに内心で感心していた。


 ──家名は死すとも、ヴァーレン卿の令嬢の品格と矜持は健在のようだ。


 窮地を救ってもらったとはいえ、カルロスの現在いまをレティアは知らない。

 かろうじて知ったのは彼が『伯爵家の子息』だということだけ。安易に馬車に乗り込んでも良いものかと、躊躇ためらいが胸を掠めた。


「馬車で、どこに……?」

「行きつけの店で食事をと思ったが、数年ぶりに会った男の馬車にいきなり乗れと言うのは不躾だったな。近い店にしよう」


 ──お世話になっておきながら、食事を断ったらそれこそ失礼よね……?


 自分に都合の良い言い訳かも知れない。

 けれど待ち続けた青年との再会だ。甘んじて食事の誘いを受け、彼と話をしたいと思うのは自然な流れであった。




 空腹を感じてしまったのは昼時という時間のせいだろうか、それとも鼻腔をくすぐる美味うまそうな匂いのせいなのか。


「君は何にする? 遠慮はいらない、好きなものを……と言っても大した料理はないんだが、味は保証する」


 メニューというほどのものはなく、厨房に近い場所に幾つか料理名が書かれている紙が貼られているだけ。 

 伯爵家の子息が「よく使う店」だと言った場所に気後れしそうになっていたけれど、連れてこられたのは想像していたような高級店ではなく、いわゆる定食屋だった。


 昼時という事もあって店内は多くの客で賑わい、騒がしい。それに──・・・


 ──さっきから、店員さんたちの視線がやたら刺さるのだけど?


 高級店ではなかった事にほっとしたのも束の間。

 給仕の女性は通りかがりにチラチラ見てくるし、店の奥のカウンター周辺にしている女性店員たちも、まるでレティアを値踏みするような視線を投げてくる。


「カルロス様、このお店って」

「仕事仲間とよく来るんだ。他の店でも良かったんだが、長年世話になってる店主に君を紹介したくてね」


 笑顔を貼り付けた若い女性店員がやってきて、空のグラスを二脚テーブルの上に置くと「今日は何になさいます?」元気いっぱいに問うた。


「そうだな。レティアは菜食主義だったね? それに濃い味付けが苦手だ」

「え……ぁっ、はい」


 遠慮がちにすぐ俯いてしまうレティアを、カルロスがチラと見遣る。

 事故で失くしてしまった過去の記憶はもう戻らない。怪しまれないためにも『記憶として正しいレティア・ヴァーレンの情報』がカルロスには必要だった。  


 ──王族の密偵としても名高い調査団に依頼した甲斐があった。元ヴァーレン家に雇われていたメイドから得た情報は確かなようだな。




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