レティアはシーラの隣に茫然と立っているミアに顔を向けた。
あのメモには確かに『300』という数字が書かれていて、ミアの指示に従って注文しただけだ。
「……っ」
ミアはレティアの視線に気づくと、ふいっとそっぽを向いてしまう。まるで「私のせいじゃないから!」と言わんばかりに。
確かに注文をしたのはレティアだ、紙に書かれていた通りの数を。
──けどあの時、数が多すぎると思いながらシーラさんに確認しなかった。
「本数に違和感を感じたのに、確認を怠った私のミスです。本当に申し訳ありません……弁償しますから、多すぎたぶんは私のお給料から差し引いてください」
「レティア……。薔薇は一輪でも高価なのよ? 270本ぶんを払い終わるまでどれほどかかると思うの」
「それは……っ」
薔薇の弁償だけではない。ラエルに返済するぶんもある。
針子見習いの僅かな給料と居酒屋のバイトの賃金をあわせても、たいした額にはならない。肺病を患う母親の薬代は相変わらず高額で、学校に通い始めた弟の本や筆記具など何かと物入りだ。
──これ以上、毎月の出費を増やせない。
どうすればと思案するほどに頭が真っ白になる。あの時、確かに違和感を感じたのだ。なのに確認を怠ったことを心から悔やんだ。
──払いきれるのだろうか。
底なしの不安がどんどん膨らんで、レティアの華奢な肩が小刻みに震えだす。
「全額、俺が払います」
戸口のほうから突然に声がして振り返れば、細身のグレーのジャケットを紳士的に着こなした男が悠然と立っていて、花屋と向かい合い、懐から財布を取り出すところだった。
「幾らですか?」
「あなた様が、代金を肩代わりなさる……と?」
花屋の女性も目の前に現れた美丈夫に目を白黒させている。
工房の奥にいた針子たちも、何事かと戸口付近に集まってきた。
「頼みすぎたぶんを俺が買い取れば、彼女は薔薇の代金を弁償しなくて済むのですよね?」
「それは、そう……ですけれど」
「言い値で構いませんよ」
「い、言い値だなんて。たくさん買ってもらったので、値引きしてこの金額ですが……」
花屋がメモ書きを提示する。
青年は懐から出した小切手に余りあるほどの金額を書き入れ、目をまん丸くする花屋に手渡しながら伝えた。
「残りは手間賃だ。そこにある花束をふたつ、表の私の馬車に運んでくれ」
手間賃と聞いて、花屋の表情が輝きを帯びる。
そして遠慮することなく青年の手から小切手を受け取ると、卓上に置かれた巨大な薔薇の花束をひとつ抱えてそそくさと出ていく。しばらくして戻った彼女はもう一つを大事そうに抱え、青年に軽く頭を下げて場を去った。
「レティア」
よく通る青年のひと声で針子たちの
「レティア……この方は?」
シーラも困惑している様子だった。
すべての視線が今、自分に向けられている。あまりの驚きに唇と身体が硬直しているが、このまま黙り続けるわけにはいかないだろう。
「ぁ……の……っ」
無理からに声を絞り出したけれど、首を閉められた
「カルロス、様……いけません。私が失敗したのですから……自分で責任を取ります」
「まぁ、レティアのお知り合いでしたか。これで納得がいきますわ。無関係の方に肩代わりしていただくような金額じゃありませんもの」
青年の
「ただの知り合いじゃありませんよ。レティア・ヴァーレンは俺の恋人ですから」
周囲を取り巻く針子たちがにわかに騒めいた。
小切手を持ち歩くほどに裕福な美丈夫の、突然の恋人宣言である。レティアの戸惑いも増幅する一方だ。
──今、なんて……?
「仕立屋の工房にいると彼女に聞いて仕事ぶりを見に来たのだが、レティアの窮地に居合わせるとは俺も運が良かった」
「本当ですわ。こんなに頼もしい恋人がいたなんて、レティアは幸せ者ね。ところで……わたくしどもが受け取る花束の金額を支払わせてくださいませ。こちらに伝票があります。お待ちください、花束ひとつ分を計算いたしますから」
「いや、結構です。その代わりと言ってはなんだが、このままレティアを連れて帰っても? もっとも彼女の日雇いの金額が、薔薇100本分で足りればの話ですが」
シーラは伝票の金額とカルロスの顔を見比べながら首をぶんぶん縦に振る。
「も、勿論でございます」
レティアの一日の給料など、多く見積もっても薔薇10本ぶんほどだろう。
「ガロー伯爵家の御子息だわ」と、誰かが呟いた。
「待って、あの子ったら貴族と付き合ってるの?!」
失敗を繰り返す見習いの針子への失笑と憐れみとを孕んでいたものが一変して、羨望と嫉妬の入り混じった興味が、呆けたままのレティアに向けられている。
──私が、カルロス様の『恋人』……?
心が震え、
けれど聞き間違いではないはずだ。
──私の名を……あの日の約束を、思い出してくれたの……?
「ぁ……っ」
気道に異物が詰まったように胸が苦しくなって、薔薇の代金のお礼もカルロスと再会できた喜びも言葉にすることが出来ない。
一方で、カルロスは内心で笑みを喰む——ああ、俺は本当に運が良かった。レティア・ヴァーレンを連れ出す口実ができるとは。
娘には悪いが、こちらの思惑通りに事を進める。
『ガロー家に生を受けた瞬間から我等は常人ではない。』
伯爵の言葉が脳髄を掠めた。
── たとえ人の道を捨てても、彼女を俺のものにする。
カルロスはその精悍な
「今の話を聞いていたね? レティア、帰り支度をしておいで。外の馬車で待っているよ」