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27・レティアの『秘密』(1)



「本当に……何も覚えていないのですか……?」

「申し訳ないが、人違いでは?」

「人、違い──…」


 カルロスは唖然と見つめるレティアを立たせると、近くにいた騎士隊員に目くばせをする。すぐさまカルロスの馬を連れた別の騎士が駆けつけた。


「私っ、昼間はストラウス広場沿いの仕立屋で働いています。もしも……何かを思い出すことがあったら……どうか『アンブレイス』という仕立屋をお訪ねください……!」


 ひどく取り乱したレティアの様子に、カルロスは困ったように眉根を下げる。


「逃げた奴等がまだこの辺りを彷徨うろついているかも知れません。我々も巡回を続けますが、あなたも気を付けて」


 カルロスを筆頭にした騎馬隊が警戒を露わに路地裏に散って行くのを、レティアは見えなくなるまで見つめていた。


 ──人違いだなんて。

 私があのひとを見まごう筈がない。

 けれどあのひとは、私の事……


 伸ばした漆黒の髪、それにあの不思議な瞳を忘れるはずがない。

 光を背負えば綺麗な空色が影を纏い、深海のような蒼色あおいろに変わる。今でもレティアの記憶の中に鮮明に息づいているのだから。


「……覚えていなかった」


 辛いことがあっても心の糧として待ち続けた《大切な人》との『再会』が、こんな形になってしまうなんて想像もしていなかった。いや、したくもなかった。


 レティアの頬を照らす日の光はオレンジ色を帯び始めている。

 夕刻に差し掛かった太陽は、《夜の仕事》の始まりの合図でもあった。


 ──いけない。ぼうっとしていたら居酒屋の開店時間に遅れてしまう。


 蒼白になった心を奮い立たせる。

 カルロス・ガロー……──曖昧だった面輪おもわの記憶は、今、鮮明にレティアの目に焼き付いた。


 最後に会ったのは十年も前のこと。

 レティアの容姿だって十年も経てば成長によって大きく変わる。


 ──私もあの頃はまだ子供だったもの。思い出せないのも無理ないわよね?


 どうかカルロス様が私の名を思い出してくださいますように。

 そして『アンブレイス』を訪ねてくださいますように。


 心の中で懸命に祈りながら下を向きそうになる額を押し上げ、レティアは夕陽に染まる歩道を急いだ。




 * * *




 ガチャリ──ギギギギ——…


 漆黒の騎士服を纏った青年が短い詠唱を唱えた。

 人間が直接手を触れなくとも、漆黒の鍛鉄アイアンで編まれた重厚な門がひらかれる。


 黒髪の青年は、光を孕んだ片手のひらをスッと降ろした。


 青年を乗せた黒馬が従順に静かに屋敷の庭の石畳を征く。

 白薔薇と黒薔薇が匂い立つ手入れの行き届いた庭園を横切って、屋敷の前に差し掛かれば、美貌の家主──まるでカルロスの帰還を知っていたように、音もなく扉が開いた。


「お帰りなさいませ、若様。応接室で伯爵がお待ちです」


 壮年の家令に先導され、広々とした廊下を靴音を響かせながら急ぐ。白金プラチナの燭台には順々に、メイドたちによって灯りが点されはじめていた。


「遅かったではないか、待ち侘びたぞ?」


 いったい何事ですか。息子のそんな言葉を待たずに、ガロー伯爵──黒魔道一族当主の異名を持つ──は、言葉をく。


「息子よ、これを見よ……!」


 壁一面に掲げられた巨大な絵画を示せば、地形が描かれたそれには、点々と赤い印が付けられていた。


「苦節十五年——。我が一族の兵が第三ベルツにまで到達し、制圧を果たした。残すは第四ベルツのみ、奪われた我等の《聖地》奪還が、いよいよ目前となったのだ……!」


 頬を紅潮させた伯爵が、言葉を放ちながら体を震わせている。


「しかし父上、第四ベルツ奪還には……」


 現段階では不可能だと、アランは眉を顰める。

 ──我が一族の宝剣、『覇聖剣エクラ』が失われたままなのだから。


「そなたの言いたい事はわかっている。この十五年、わしとて策を練らず手を小招いていた訳ではない、そなたが認知している通りだ」


「しかし覇聖剣エクラは、もう」

「いや、望みはまだある。国王が『あの娘』の捜索を続けている限りはな」


 流れる長い沈黙は、事態の重大さを示していた。


「……どういう事です?」

「ヴァーレン卿亡きあと、残された三人の家族はのたれ死んだと言う噂がまことしやかに語られた。だが王命を受けた近衛騎士らが卿の娘をいまだ追い続けている。が生存していると言う、これぞ確たる証拠だとは思わぬか?」


 カウチに腰を下ろし傲慢さながら足を組んだ伯爵のしたり顔を横目に、カルロスは思案げに眉を寄せた。


「娘と言えば……。先ほど巡回の途中で、自分を覚えていないのかと必死に訴える若い令嬢に会いました」


「そなたには隠れファンがおるからな」

「いえ。彼女は名を告げましたが、その家名が確か『ヴァーレン』と」


「なんだと、会ったのか?! ヴァーレン卿の娘に……!」


 『ヴァーレン』の家名が出るまで顎髭を撫でながら半分うわの空で聞いていた伯爵の変容に、カルロスの方が驚いてしまう。


「娘から名を明かしてきたのか!? しかもこのタイミングで……! 奇跡だ、まさに願ってもなかった奇跡ではないか。やはり娘は生きていたのだ、あれほど探しても手がかりさえ皆無だったヴァーレン卿の令嬢が!」


 伯爵は込み上げる興奮を堪えきれずに身体を震わせている。


「ですが……あの娘が当人とは限りません。ヴァーレンなんて家名は珍しくもない」

「そなたに声をかけてきたのだろう?」

「はい。しかしその娘、王都で一度見かけただけで、私には皆目……」


「覚えがないのは当然だ」


 ガロー伯爵が被せるように言う。


「宝剣の在処を探るために、わしがヴァーレン卿の娘にそなたを接近させたのは十年前──そなたが前だからな」




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