「ああっ……それにしても厩にいたあの白馬、立派だったな〜。誰の馬だか知らんが、俺のアンドリュースも負けてないぞ。なにしろコンテストで一位を取ったんだからな!」
忘れようとしていても、決して忘れる事など出来ない苦い経験が、レティアにはあった。
「大丈夫よ、アル……もう二年も前のことだもの。そんなにナーバスにならなくても」
家まで送ると言ったアルヴィットの厚意を断り、一人きりで自宅に帰ろうとした二年前の夜、レティアは暴漢に襲われた。
虫の知らせでアルヴィットが駆けつけていなければ、間違いなくレティアは純潔を失っていただろう。
この幼馴染は、だからとても過保護だ。
「本当に平気だから、こんなことはもうやめて? 私、一人でも帰れるわ」
「ティアは今、男の格好をしてない。誰が見ても可憐でふわふわしてて、抱きしめたくなるような女の子に戻ってる。いつまたヤバい奴らに目をつけられるか知れない。放っておけないよ」
「でも、二年前の世間知らずな私じゃない。危険な場所も心得ているわ。だからもう心配しないで? アルにはアルの、やるべきことをして欲しいの」
アルヴィットの本職は聖騎士だ。
本来ならこの時間も大司教の御許で護衛を務めているはずなのだ。なのにレティアを気遣って、任務時間を短縮している。
「ティア……俺はね。もちろん職務も大事だが、それ以上にティアが大事なんだよ」
屈託のないアルヴィットの笑顔には、レティアもこれまで幾度となく助けられた。
けれど──。
「アルの気持ちは嬉しいわ。でも私……困っているの」
数日前のこと。アルヴィットの実父であり、王都の筆頭商人であるサイモン・ワイズがレティアの家を訪れ、戸惑うレティアに怒りをぶつけた。
──息子にもう近づくな。
かの男の言い分はこうだ。
職務怠慢により、息子アルヴィットは失職しかけた。
その怠慢の要因はレティアにある、と。
「困ってるって。それ、どういうこと?」
アルヴィットが不安げに瞳を揺らしている。
「えっと、その……っ。アルはいい人よ、本当にいいお友達。アルのこと、私も大切なの。だからアルには仕事にいい加減な人でいてほしくないの」
レティアのせいで職務を疎かにしている。
図星を刺されて言葉に詰まるアルヴィットを、レティアは意思のある眼差しで見つめた。
「……わかった。ティアの言い分は尤もだ。これからはできるだけ仕事に専念する。だがこれだけは頼む、夜道を歩く時は必ずローブを着てほしい。刺されたって跳ね返すような頑丈なローブを俺が用意するから」
「ふふっ、アルったら、そんなローブこの世にある? きっと魔導士でも持ってないわよ」
上背のある大きな肩をすくめて、叱られた子どもみたいにしゅんと肩を落とすアルヴィットを、レティアは可愛いとさえ思ってしまう。
「それでこそ私の自慢の幼馴染、アルヴィット・ワイズ。大司教様をお守りする役目を賜った聖騎士様が、こんなところで油を売ってちゃいけないわ?」
いつものようにおやすみなさいと手を振って、ドアの向こうに消えるレティアの笑顔を見送ったアルヴィットは、やはり肩をすくめてしまう。
どれほど恋焦がれ、追い続けても、美しい天使はどこ吹く風だ。
「ティア……俺は君を諦めない」
真剣な面差しで小さく呟いて、額に落ちた燃えるような赤髪を掻き上げる。そして名残惜しそうに一度振り返ると、アルヴィットは彼の愛馬に跨った。
* * *
「ちょっと!」
呼ばれて振り向けば、シーラの一番弟子のベテラン針子アネットが苦虫を噛み潰したような顔をしている。
手には先ほど渡したばかりの
「これ、あなたが仕上げたのよね」
「はいっ、どこか……おかしなところがあったでしょうか」
おかしいもなにも、と呟いたアネットが呆れたように小さく首を振る。そそくさと歩み寄れば、これみよがしに掴んだ布地をレティアに「ふん」と差し出した。
「仕事をなめてもらっちゃ困るの。ほらここ、糸が出てる!」
見ればビジューの粒から白い糸の切れ端がほんの少しだけ、顔を覗かせていた。
じっと見なければ気付かぬほどのものだが、王室に衣服を献上する仕立屋ともなればどんな小さなミスや手抜きは許されない。
「申し訳ありません。すぐにやり直します!」
ふん、とあからさまに不機嫌な顔を向けると、アネットは背中を向けて再び着座する。アネットの眼前にある横長のテーブルには、馬一頭を包めそうなほど大きな生地が広げられていた。
ドレスのスカート部分ひとつを取っても、女性の足元に優雅さを纏わせるドレープを誂えるには膨大な量の生地が必要だが、単純に生地にギャザーを寄せれば良いというものではない。
高級な生地ほど一枚が分厚く扱いにくい。まずスカート部分の型紙を数枚に分断して一度生地を裁断し、それらを再び繋ぎ合わせるという大掛かりな作業が必要だ。
「ったく、しっかりして頂戴。シーラさんにちょっと可愛がられてるからって、いい気にならないで!」
レティアが王室御用達の仕立屋『アンブレイス』で接客係兼、針子見習いとして働き初めてから約一ヶ月。
なにせ王室の御用聞きだけでなく各方面の貴族たちからも依頼を受ける人気店だ。二十数名の針子たちは一日中働きずくめのうえ、細かい手作業にも気を抜けずにピリピリしている。
──アネットさんを
レティアが叱られた仔犬さながらしゅんとするのにも理由がある。
昨日も縫い付けるビジューの色を間違えてしまい叱られた。接客業務には慣れてきたものの、数日前にはオーダーを受けたドレスのサイズの記載を次のお客と間違えてしまい、さすがにこれはシーラにも咎められてしまった。
おかげでレティアは望みもしない『不注意な新人』の二つ名を授かりつつある。
──しっかりしなきゃ。
よしっ! と拳を胸に気合を入れ直し、作業台に着いたところで通りがかった針子のミアが声をかけてくる。
肉付きのいいミアの両腕にはロール状の生地が抱えられていて、太っちょな指先でつまむようにして持っていた小さな紙切れを差し出してきた。
「レティアさん、作業中に悪いんだけど……これ」
手渡されたメモには『300』という数字と『日時』。殴り書きされたような乱れた字体で記されていた。
「納品時にドレスと一緒にピンクの薔薇の花束をお渡ししたいって、シーラさんが。先代からのお得意様で、お嬢様の結婚祝いのドレスですって」
「そう……ですか。それで、私は何を?」
ミアは「そのくらい察しろよ」と言わんばかりにむすっと眉を顰める。
「だから! そこに書いてある数の薔薇をメンデル通りの花屋に注文してきて欲しいの。お店が閉まる前に急いで行ってね。メモに日付と時間も書いてある。薔薇はお店に運んでもらって代金と引き換え。今日はもういい時間だし、お遣いが終わったらそのまま上がっていいから」
矢継ぎ早に言うと、ミアはレティアの返事も聞かずにそそくさと裁断部屋の奥へと姿を消した。
「……承知しました」
渡されたメモを改めて見てみる。
それにしても、という小さな違和感がぷくりと湧いた。
──ピンクの薔薇の花束を、三百本ぶんも?
いくら大切なお得意様への祝いのギフトとはいえ、サービスでお渡しする数にしては多すぎやしないか……と。