目次
ブックマーク
応援する
10
コメント
シェア
通報
24・ロスフォールの魔物


 ラエルとは出会って間もない。

 けれど穏やかで明朗な彼は、今はどこにも居なかった。


「ラエル様……?」


 手を伸ばして、微かに震えるラエルの広い肩に触れようとした。

 だが指先が触れる寸前で手を引いた。何者も侵せない強い気迫のようなものを感じたからだ。


 ——透明な壁。

 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、まるで結界でも貼られてしまったように、ラエルとレティアの間は隔たれていた。


 窓の外はすでに暗く、濃い紫色の星空が広がっている。

 暖炉の火がぱちぱちと軽快な音を立てながら薪の上を渡り、次第に大きな炎へと変わっていく。

 ほんの数分間が、随分と長い時間に感じられた。


「レティア」と小さく呟いて、ラエルがゆっくりとレティアを見下ろす。炎の揺らぎを映す蒼い瞳はいつの間にか穏やかな光を取り戻していた。


「は、はいっ」

「お礼と言うのなら、君のピアノをまた聞かせてもらえないかな。今日はいいところで邪魔が入ってしまったからね」


 すっと立ち上がり、目の覚めるような美丈夫が柔らかく微笑む。


「ええ……勿論です。私の拙い演奏で良ければ、いつでもっ」

「それから。私の名だが、ラエルでいいよ。堅苦しいのは苦手なんだ」


 ──ラエル。


 心の中で、その名を呼んでみる。


 ──ラエル、ラエル……!


 ぎゅうっと締め付けられるような胸の痛み。

 レティアは、この痛みがを知っている。


「遅くなってしまったな。心配性のワームテールが、階下したで首を長くして君を待ち構えているだろう」

「こちらこそ、長居をしてしまって」


 立ち上がってクローゼットから部屋着用のガウンを取り出すと、ラエルにそっと手渡した。


「明日のお幸せを」

「有難う。君と話せて良かった」


 予期せず向かいあわせになった瞳と瞳が重なりあう。オレンジ色の光の中で穏やかに微笑むこの青年を、レティアは改めて綺麗だと思った。


「おやすみなさい……ラエル」

「おやすみ、レティア」


 静かに、部屋の扉を閉める。

 そして扉に背中をくっつけると、ほうっと大きな息をひとつ吐いた。


「ラエル……さま」


 初めて出会った夜、力強い腕に抱かれた暖かさ、熱い吐息。

 高貴なムスクの香り、不意に見せた悲しげな横顔。


 ──私、まだドキドキしてる。


 レティアは背にした扉から離れられずにいた。壁を一枚隔てた向こう側に、『彼』がいる。そう思うと、この扉すらも特別なものに思えてくる。


 堪えていた感情が抑えきれずに溢れて、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。

 今度は途方もなく悲しいやりかたで。


 ──だめよ。

 私はラエル様に抱けるような立場ではない……。


 レティアは嫌がる背中を引きはがし、階段に続く廊下を歩き始めるのだった。




 *




「特別、か」


 薪の上の炎はぱちぱちと小気味良い音を立てているが、レティアが去った部屋はしんとして、まるで突然、陽の光を失ったように暗かった。

 とろりとした琥珀色の液体が入ったグラスを傾けながら、ラエルはボソリと呟く。


「城下に降りてさえも、私は《ロスフォールの魔物》から逃れられないのか……?」


 白亜の城の正式名称『ロスフォール城』には、魔物が棲んでいるのだ。

 布に落ちた黒いインクの染みが広がるように、王族として生を受けた者たちの精神をじわじわと蝕んでいく恐ろしい魔物が。


 時折、魔物がラエルの耳元で静かに囁く──

『おまえは生まれながらの王太子、他者とは違うなのだ』


「……うるさい、黙れ……!」


 ──僅かばかりの時間、王太子が王太子でなくなったとしても……それが何だというのだ。


 こうして城下に降りることを無意味な行為だと思うこともある。特別な存在、つまりは王太子という宿世からはどう足掻こうと逃れられない事も知っている。

 けれどこんなふうに時々自分を解放することでしか、ラエルには己を平静に保つすべが見当たらない。


「……もうこんな時間か」


 ふと目をやれば、柱時計は午後六時を指そうとしている。

 レティアを家まで送るべきだったと思いながら、窓辺に立った。三日月が薄い霧のような雲間に見え隠れしている。


 ヒヒン、と馬のいななきが聞こえた気がして階下に目をやれば、厩の前に二つの人影が浮かび上がる。

 曇った硝子窓の向こうに、夜会巻きの後頭部が見えた。


「……レティア?」


 目を凝らせば、隣に白っぽいローブを纏った体格の良い男の人影が並んでいる。

 看板ピアニストのレティアだ、店を出た途端に待ち構えている輩がいてもおかしくはない。日を落とした夜道に彼女一人を帰した事が悔やまれた。


 けれど妄想は杞憂だったとすぐにわかる。

 ラエルが案じたような非常事態ではないらしく、レティアと男は見つめ合い、親しげに会話を交わしているようだった。


 そうするうちに赤髪の背高い男はレティアの肩を抱き寄せ、馬に乗せた。


「恋人の迎え、か」


 ── 時間をただ共有することではないの。一度きりの人生を、愛する人とともに生きられること。これが本当の幸せじゃないかな。


 少し前までこの部屋にいたレティアの、花のような笑顔と鈴鳴りの声が聴こえる。


 本当の、幸せ。

 たった一つの人生。

 そして……愛するひと。


 ラエルはくすりと笑って自嘲する。


「私には無いものばかりだ」


 たった一つの人生すら国に捧げてしまった。

 幸せが何なのかさえも今はわからない。

 ただ与えられた責務をまっとうする事だけに費やす日々。


 ──あのふたりは、幸せなんだろう。


 恋人同士を乗せて遠ざかる馬の影を、ラエルは見えなくなるまで見つめていた。

 曇り硝子は鏡となって、魔物に憑かれた悩める王太子を映している。

 その顔は醜く、青白く歪んでいた。


「…………」


 握りしめた拳を硝子に押し当て、項垂れる。

 今夜もまた眠らねばならない。

 永遠に目覚めることのない朝が来るまで、いったいあと幾千の夜をやり過ごすのだろう。




 *




「さて……と。今夜はよく眠れそうだよ! 大事なティアを無事に送り届けたからね」


 レティアの幼馴染アルヴィット・ワイズは彼の想いびと、レティア・ヴァーレンの華奢な身体を抱えて馬から下ろすと、「うーん」と伸びをして満点の星空を仰いだ。


「アル……いつも有難う。でも前から言っているけれど、あなたに迷惑がかかるわ。家まで歩いて十五分ほどだもの、一人でも平気よ」


「平気じゃないだろ? 君がそう言ったから、俺はも……ッ」


 言いかけたアルヴィットだが、不意に口をつぐむと慌てて話題を変えようとする。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?