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21・強がりの本音(2)

 * * *




「ラエル様、お怪我は」


 耳元で問いかける美貌の青年は、ラエルと同じ漆黒の隊服を着こなす警吏騎士隊統括団長、カルロス・ガローだ。

 冷ややかに眇めたサファイアブルーの瞳をラエルに向けたその背中で、一つに束ねた長い黒髪が揺れる。


「たかが平民同士の喧嘩だ。統括団長の君が出向く事案でもないだろ、カルロス」  

「いや。漆黒の隊服を着た警吏が暴漢と対峙しているなんて聞けば、そんなのもう誰だか決まっているでしょう。あなただと知っていて、責任者の私が放置するわけにはいきませんからね」


 カルロスは飄々とした態度で切れ長の目をすがめるが、形良い口元は好意的な弧をえがく。

 目の前の王太子に媚びるどころか旧知の友人にでも話すような口ぶりだが、ラエルは気にしていないらしい。


 逃げた客の誰かが通報したのか、隊服を精悍に着こなした警吏騎士団の数名と連行用の馬車が到着するまで、さほど時間はかからなかった。


 ピアニストを殴ろうとした巨漢の男は、表向き警吏副団長という肩書きのラエルの体術にあっさりやられてしまったのだが──漆黒の騎士服の中身は王太子。

 ろくに警備もせず王太子に怪我でもさせようものなら、当然、カルロスはおろか警吏騎士団の面子は丸潰れである。


「私の心配は無用だ。君も嫌味を言う暇があったら、そこに転がっている男をさっさと片付けてくれ」

「言われなくてもそうしますよ」


 カルロスが目配せをすれば、青い隊服の警吏騎士たちが床に伸びた男を手際よく担架に乗せる。

 店の外に集まった野次馬の盛大な洗礼を受けながら、男の巨体は連行用の馬車へと運ばれた。


「それより、揉め事の発端は?」

「ああ。この店のピアニストだが──」


 ラエルが周囲を見渡せば、ピアノの奥に隠れるようにして立つ華奢な背中があった。


 ──……?


 よく見ると、空色のイブニングドレスの両肩が小刻みに震えている。


 ── 体調が優れないのだろうか。


 大きく見開かれた瞳。

 うつむいて口元を両手で覆うようにしながら、込み上げてくる嗚咽を必死で堪えている。押さえていた感情が堰を切って溢れ出したかのようだ。


 ──彼女はもしや。

 すごむ相手に負けるまいと、今まで耐えていたのか?

 客たちに弱いところを見せまいと、込み上げてくる恐怖心を抑えてあの巨漢に挑んでいたというのか……。


 演技じみた未遂行為であっても、一度は肌を重ねたことのある女だ。

 老婆心からの憶測でしかない。けれどラエルはそう理解した。


「あの娘ですね」

 カルロスが事情聴取に向かおうとするのを、肩を掴んで止める。


「彼女は、今は無理だ」

「なぜです?」

「いいから。騒動の一部始終は私とワームテールもそばで見ていた。あっちで話そう」


 いまいち状況が飲み込めていないカルロスは眉を顰めながら首を傾げている。


「は?」


 不審げにピアノの方向を振り返るカルロスの腕を、やや強引に引っ張っていく。

 ラエルの視線の先で、ワームテールはひっくり返ったテーブルを元に戻そうとしていた。


 ──ただの勇敢な娘じゃない。真の意味で《強い子》だ。


「彼女にも守られるべき尊厳がある。他人には知られたくない事もな」


 緩やかに口角を上げると、ラエルは独り言のように呟いた。



 *



 ラエル専用だという部屋は、二階の廊下の最奥、日当たりの良い角部屋であった。


 居酒屋の二階はワームテールの妻のマグノリアが運営する宿場である。

 飲みすぎて酔い潰れた客を路上で眠らせずに済むようにとの、夫婦の計らいもあった。こぢんまりとした佇まいながら、百年の歴史を刻む建築様式の建物が格式ある風情を醸している。 


 居酒屋の店内風景を描いた絵画が飾られた廊下を、レティアがラエルを先導しながら歩いた。


 丁寧に結えられた銀糸の髪の後頭部が立ち止まり、深々と頭を下げている。

 歓楽街の片隅で出会ったあの夜のレティアがラエルの眼前によぎった。


 泥で汚れた衣服を身につけ、おおよそ女性らしからぬ格好をしていた娘が、今はどうだ。


 纏っているのは王城の女が着るような豪華なドレスではない。

 けれどシンプルな意匠ながらも職人の繊細な手作業が施されたとわかるイブニングドレスは、彼女の形良い肩や背中のラインをより美しく魅せている。


「見違えたね」


 ラエルがじっと見つめてくるので恥ずかしくなって、レティアはおもむろに視線をそらせた。


「おっ、お部屋にご案内いたしますね。廊下は冷えますから」


 真鍮の錠前を開けたティアが扉を押すと、重厚そうな木製の双扉の片方が軋みもなく静かに開く。


 部屋の中から漏れる橙色とうしょくの夕陽はすでに落ちかけており、客間は夕暮れの水の中に沈んだような、とろりとした空気が満ちていた。


「明かりを点けますね」


 レティアが順に洋燈に手を伸ばす。

 薄暗かった部屋の隅々に次々と柔らかな光が灯った。


 重厚な西洋編みの絨毯が敷かれた部屋には、ゆったりとした大きさのカウチや書棚、文机、ベッドなどがセンス良く配置されている。


「シーツ……まだお陽様の匂いがしますよ。おかみさんが、今朝もお部屋に風を通したと仰っていましたから」


 ベッドメイキングのチェックを終えたレティアが振り向くと、ラエルの背中は書棚の方に向いていて、高い位置にある本を一冊抜き取ろうとしている。

 漆黒の騎士服の広い背中に、シャツを脱いだラエルの筋肉質な背中が重なって、レティアの胸がどきりと脈打った。


「こ……今夜は冷えるそうなので、暖炉に火を入れておきますね」


 抱かれそうになった記憶を頭から追い出さそうと、ラエルから目をそらして暖炉へと向かおうした──が。


「レディ……レティア・ヴァーレン」


 名前を呼ばれて振り返れば、書棚にいたはずのラエルが二脚のグラスを片手に首を傾げている。


「はっ、はい?!」


 呼ばれた事に驚いて、手に持ったままの洋燈を落としそうになってしまった。


「驚いたよ。巨漢を相手に物怖じしないとは。窓の外で見ていた野次馬たちも、君の勇姿を見て感心していた」


 ラエルが朗らかに声をかければ、レティアは思案げにまばたきを繰り返しながら俯いてしまう。


「あっ……有難う、ございます」


 薄く微笑む彼女だが、ならず者を相手にしても表に出すまいと、恐怖心をけなげに隠していたのをラエルは知っている。


「君と少し話がしたい。ワームテールには許可を取ってあるのだが、時間をくれる?」

「私は……構いませんが……」


「初めてなんだ、マグノリア以外の誰かとこの部屋にいるのは」

「そう、なのですか……?」


 二脚のグラスをローテーブルに置くと、カウチに腰を掛けたラエルが「こっちにおいで」と手招きをする。


 たった二度会っただけなのに少しも警戒心が湧かないのは、彼が治安部の役人であることと、の紳士的なふるまいを知っているからだろう。


 話がしたいと言うラエルの誘いに戸惑いながらも、レティアは微笑みを作って「はい」と頷いた。



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