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20・強がりの本音(1)



 一音の透明な余韻が、静けさに包まれた空間に響いた。

 続いて、驚くほど軽妙なタッチで鍵盤が叩かれる。柔らかな音が一転し、華奢な指先が八十八の鍵盤の上を滑る──聴覚をくすぐり躍動する音が耳に心地よい。


 客たちはみなグラスを傾ける手を休め、息を凝らすようにうっとりと彼女が奏でる旋律に聴き惚れている。

 ショットグラスから目を離したラエルも例外ではなかった。


「どうです? なかなかのものでしょう」


 ワームテールが小声で囁く声はどこか満足げだ。

 客たちは酒に酔う前に、一曲目の心地好い残響に酔いしれていた。


 溢れんばかりの歓声と拍手のなか、奏者が立ち上がって一礼する。二曲目の演奏を始める合図だ。


「演奏の腕もさることながら、あの器量。彼女はもはや、この店の看板ですよ」


 鳴りやまぬ口笛と拍手とともに、再び席に着いた彼女の腕がゆるりと持ち上がる。かぼそい手首のしなやかで優雅な動きは、ただそれだけで客たちを魅了した。


「今度は『ロコット』か……選曲も素晴らしい!」


 ラエルの後ろの席に座っていた紳士が感嘆の声を漏らした。

 軽快で愉快な楽曲は、戦果を上げた兵士たちが踊りながら乾杯の音頭を取るときに歌われる戦勝歌だ。


 そして静かだった居酒屋の空気は一転し、賑やかな酒の席に戻った。これから先がピアノ・バールの真骨頂である。

 控えめで軽快な演奏をつまみに客たちのお喋りと酒とが進む。そんななか、ただひとり落ち着かない客がいた──ワームテールの胸ぐらを掴んだ、胸毛の大男だ。


「彼女を俺様のものにしてやる。何が『手に負えない』だ、ふざけるんじゃねぇ。この俺様を受け入れない女なんかいるわけねぇんだ!」


 叫ぶように独言ひとりごちると、男はカウンターを離れ太ももをふるわせながら店のフロアを横切っていく。

 そして演奏を続けるピアノ奏者の隣に立ちはだかった。


「レティア……ッ」


 男の行動を案じたワームテールがカウンターを出ようとするのを、ラエルが「ちょっと待て」と手のひらを翳して遮った。


「ラエル様?!」


 慌てたワームテールが見やれば、ラエルのあおい双眸はピアノの方向を向いている。

 突然に演奏がやみ、客たちのざわめきが湧き立つように広がった。


「何をなさるのです、やめてくださいっ」


 男が汚れた手で奏者の腕を掴んでいる。

 その手から逃れようと女性が抵抗しているらしかった。


「話があるって言ってるんだ。なぁ……俺の女にならねぇか? 金ならある。こんな店で働かなくたって、贅沢させてやっからよ」


 卑猥な微笑を浮かべながら、男は彼女の顔に間伸びしきった顔を近づけた。


「演奏の途中です、お話なら演奏のあとで……」

「だから、俺様と付き合えって言ってんだよ!」


 彼女の細い声は、ガタン、という大きな音に遮られ、先ほどまで座っていた丸椅子がひっくりかえる。


「なんだよ酒が不味くならぁ……」

「マスター、悪いが帰るぜ? もちろん金なんか取らないよな!」


 どさくさに紛れて、客たちがばらばらと席を立ち始めた。

 そばで怯えたように静観していたウエイターがトレイを投げ出して、ようやく男を宥めにかかる。


「うちの看板なんです、どうか手出しはっ」

「手出しぃ?! おまえ、この俺様が彼女になんかするってでも言いてぇのか!」




 ウエイターが宙に飛んで、二つのテーブルがひっくり返る。

 卓上のグラスや酒瓶が割れて飛び散り、そばにいた者たちが血相を変えて飛び退いた。


「いつまで待たせる気だ! もう我慢ならねぇ。俺様は一度決めたモンは必ず手に入れるタチなんだ」


 事態の一部始終を眺めていたラエルがワームテールに目配せした。口角を上げた秀麗な面輪は微笑んでいるようにも見える。


「ラ……ラエル様、何を……」

「何もしないさ。あいつの暴走を止めるだけだ」


「おやめください! この辺りでも札付きの危険な奴だ。あなた様を傷つけるようなことがあったら……」


 客たちが逃げるようにして店を出ていくなか、男が毛むくじゃらの腕で彼女の肩をつかんだ──その時だった。


 ──パシッ


 瞬時に何が起こったのかがわからず、その場に居た者たちが音のした方に目を向ける。

 片手を上げた女性の隣には、豆鉄砲を喰らったかのように目をまんまるくした巨漢の男が突っ立っていた。


「いい加減にしてください」


 見れば、男の左側の頬が真っ赤に膨れあがっている。


「あなたの身勝手な行動が、ここにいるみんなを嫌な気持ちにさせたのです。あなたに少しでも良心があるのなら……っ」


 放たれた言葉と彼女の美麗なかんばせには、強い意志と決意が滲んでいた。


「素直に音楽とお酒を楽しめないのなら、もう二度とここには来ないで……!」


 彼女にすっかりされてしまった男は──。

 放心したようにぽかんとしていたが、そのうち正気に戻ったのか、瞬時に顔をこわばらせる。


「俺様を、ぶっ、ぶったな〜〜〜!? このアマ、優しくしてやりゃあつけあがりやがって!」


 男の剣幕に怯むそぶりも見せず、彼女は強い眼差しのままで男を凝視し続けていた──冷たい汗を額に滲ませながら。


「俺様をナメるのもいい加減にしねぇと、そのキレイな顔がふた目と見られねぇようになるぜ?」


 毛むくじゃらの手を組むと、男はこれみよがしにボキボキと指を鳴らす。


「ほんとうに力のある人は、その力をそんなふうに見せつけたりしないわ」

「なんだとお〜〜〜?!」


「レティア、もういいから逃げてくれ……」


 ワームテールは震えながら頭を抱えている。


「あ、謝るって言うなら今だぜ。俺様だって一度惚れた女に手をあげるのは性分じゃねえからな」


「謝らないわ」

「見かけによらず強情な女だ……!」


 拳を振りかざす男に、彼女は身を縮めてぎゅっと目を閉じた……これから来る衝撃に備えるように。




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