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19・居酒屋のピアニスト



 カウンターの奥で、店主らしき白髪の老人が一心不乱にグラスを磨いている。

 ラエルは腰よりも少し高いそのカウンターに肩肘をついた。椅子のない、スタンドスタイルである。


「マスター、強めのを頼む。おもての野菜ジュースの口直しがしたい」 

「ああ、さてはコーネリアスのジュースだな、確かにあの味はひどい……」


 呟きながらグラスを磨く手を休め、老人は呑気に顔を上げた。

 そして眼前の青年を見たとたん、目をまんまるく見開いた。


「ラエル様!」


 老人が大きな声を出したので、周りにいた客たちが驚いて振り向いた。

 ラエルが「しっ」……人差し指を唇にあてる。老人は慌ててもふもふの顎髭の口元を手のひらで押さえた。

 そして周囲を気にしながら額を寄せると、満面の笑顔を口髭の中から覗かせる。


「お久しゅうございます……!」

「ああ、久しいな、ワームテール。元気にしていたか?」

「勿論! ご覧の通りでございますよ。ラエル様はその、相変わらずご多忙だったのでしょうな」


 ラエルがカウンター越しに右手を差し出せば、老齢の店主──ワームテールもそれに倣おうとする。

 しかし思い直し、まず新しい布巾を取り出して、自分の手のひらをしっかりと拭き上げてからラエルの手を両手で力一杯に握った。


 居酒屋の店主でマスターでもあるワームテールは、城下でラエルの正体を知る数少ない人物のひとりだ。


「ご婚約のお噂、このワームテールも耳にしておりますぞ。いや、まことにおめでたい!」


 ワームテールが満面の笑みを浮かべるが、ラエルはいささか顔をしかめた。


「なぜその事を?」

「町中の若い娘さんたちの噂の的でございますよ。お相手の姫君はたいそうお美しい方だとか。今日はこのワームテール特製! あま〜い恋の味……糖蜜入りのホイップ乗せシフォンケーキをサービスいたしましょう」


「……甘いのは苦手だ」


 出されたショットグラスを口に運びながら、ラエルは短く答える。しかし白髪のワームテールは口髭を揺らしながら陽気に微笑んでいた。


は、いつでもお使いいただけるようにマグノリアが掃除を欠かしません」

「そうか、有難い。その様子だとマグノリアも元気そうだな」

「勿論でございますよ。二階の番台で、今頃くしゃみをしているかも知れませんな」


 マグノリアとは、ワームテールの老齢の妻だ。彼女は二階の宿屋の経営一切を取り仕切っている。


「ちなみに今夜はお泊まりで?」


 忍んで城下に降りることはゲオルクに伝えてあるし、彼はラエルの滞在先も知っている。


「ああ、そうさせてもらうよ」


 カウンターの下の作業台で手際よく盛り付けられたシフォンケーキがラエルの目の前にどかんとお目見えした。

 顔の半分ほどある大きなケーキの上には、絞りたてのホイップクリームが溢れんばかりに盛られている。


「ワームテール。すまないが、スプーンをもらえるかな……」


 居酒屋の奥は隣の花屋とつながっている。

 二階はこぎれいな宿屋が併設してあり、店の奥の階段から上がることができた。このような居酒屋の造りは王都でも一般的である。


 客室のうちの一室はラエルのために用意されたようなものだ。

 ストレスを抱え込んで爆発寸前の王太子がいつ訪れても良いよう、部屋の隅々まで細やかな配慮がなされている。

 家具も寝具も照明も、その部屋にあるもの全てはラエル自らが選んで購入させたもの──プライベートゲストルーム、言わばラエルのタウンハウスだ。


「お部屋に入られる前に、もう少し酒場ここで休んで行かれますかな? あと半時間もすればカウンターに客が集まります。『ワームテイルズ・バール』自慢のピアノ演奏を、是非あなた様にお聞かせしたい」


 ほう……と、ラエルが目を細める。


「つい最近雇い入れたばかりの新入りですが、なかなか良い腕をしている。演奏目当ての常連客もついておる程です。お部屋でゆっくりなさるのは、そのあとでも遅くありますまい」


 店の最奥に置かれたグランドピアノをよく見れば、ピカピカに磨かれている。

 前に訪れた時は白い埃が遠目にも目立つほど、忘れられたように置かれたままだった。


 ショットグラスの酒で喉を湿らせ、ラエルは「それは楽しみだ」と微笑んだ。 




 *




 夕刻を迎えた居酒屋はすでに満席になっていて、いつの間にかスマートなウェイターがカウンターとテーブルをせわしなく行き来していた。


 ラエルはようやく半分ほどまで減ったクリームたっぷりのシフォンケーキと格闘中である。

 カウンターでワームテールと他愛のない話で盛り上がっていると、


「おい、店主!」


 突然大声がして、見ればやたら図体のでかい男がラエルの隣に立っている。


「彼女は?!」


 ぶっきらぼうに言い、シャツの胸元から覗く分厚い胸毛を指で掻きむしった。


「なんだ、またあんたか」


 ワームテールはカウンターの中でグラスを磨く手を休めず下を向いたまま、もうほとんど面倒くさそうに返事を返す。


「なんだとは、何だ! 俺は客だぞ? 客が聞くことにゃあ、素直に答えりゃいいんだ!」


 ラエルの見ている前でいきなりカウンターに身を乗り出したかと思えば、怒鳴った勢いをそのままにワームテールの胸ぐらをつかんだ。


「それともまた痛い目に遭わされてぇのか?!」

「わかった。わかったからもう、これ以上うちの店で騒ぎを起こさんでくれ、頼む」


 最初からそうくりゃいいんだ、と、男は乱暴に手を離す。


「生憎だが、うちの新入りはあんたの手には負えない。興味を持つのはピアノの演奏だけにしてくれ」


 ラエルは、何事も及ばぬと言いたげな顔でショットグラスを傾けている。


「なんだと!? おまえこの俺様に指図するつもりか!」


 男がワームテールの胸ぐらをまたつかみ上げ、カウンターに身を乗り出した……そのとき。


 ──ヒューヒュー!!


 口笛の音が飛び交い、店内が俄かに騒がしくなる。

 見れば、淡いブルーのカクテルドレスに身を包んだ一人の女性がピアノの前に立ち、深々とお辞儀をしている。


「ほら、始まるぞ……」


 ワームテールの囁きに男はちっ、と舌を打ち、仕方ないなという顔をしたあと、おとなしくなった。


 それまでの喧騒が嘘のような静けさだ。

 すっ、と顔を上げると、ピアノ奏者が丸椅子に腰を下ろす。


 華奢な手首が虚空を押して柔らく持ち上がり、最初の一音を奏でる準備をしている。

 皆が息を凝らして、彼女の演奏を待ちわびていた。



 ポロロン────…。



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