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18・恋人たちの背中



 *




 アーナスとの打ち合わせは二時間ほどで滞りなく終了した。


 のちのシーラに言わせると、これはかつてない速さだそうだ。しかし最後まで残しておいた一着、舞踏会用のドレスの提案を終えたアーナスは、ひどく疲れた様子だった。


 結局、レティアの願いも虚しく、アーナスが待ち望んでいた婚約者の王太子が姿を見せることはなかった。


 ──アーナス様、あんなに落胆して大丈夫かしら……?


 苛立っていても華やいで見えたアーナスの表情は、傍目にもわかるほどにやつれ、侍女に伴われて退室していく背中はとても小さく見えた。


「レティア、ぼうっとしていないで片付けを手伝って!」


 アネットに叱られ、「はいっ」と慌てて床に落ちたビーズを拾い上げる。


「あれは、王太子殿下……?」


 ──え……っ


 誰かのつぶやきに顔をあげると。

 双扉の向こうの廊下の先で、立派な白い礼服の男性の背中が、アーナスの腰元に手を添えている。


 離れているので声までは聞こえないが、男性を見上げるアーナスの、ぱっと花が咲いたような笑顔の横顔がレティアには見えた。


「王太子殿下、今頃にいらして。間に合わなかったわね」

「アーナス様……いい気味よ」

「そんなふうに言わないの」

「だってシーラさんっ」

「愚痴も不満も後でたっぷり聞くから」


 ドレスを衣装箱に詰めながら、針子たちが小声で囁いている。 

 部屋の中にはもうアンブレイスの面々しか残っていない。


 過去の鬱憤が溜まっているのか、他の針子たちは顔を顰めていたけれど。

 レティアは暗がりから光の下に導かれたような気持ちだった。

 マテリアルを箱に仕舞いながら、自然と笑みが漏れる。


 ──意匠を決めるのには間に合わなかったけれど、王太子殿下はちゃんと来てくださった。アーナス様のために、この場所までわざわざ足を運んでくださった。アーナス様が笑顔になられて……良かった……!


 これで心置きなくができる……レティアは密やかに安堵した。

 心に堅いものを抱えたままだと、奏でる《音》にもそれが出てしまう。


 ──昨日の定休日はでたくさん練習させてもらった。お客様に変な演奏を聴かせたら、良くしてくださっているワームテールさんに申し訳ないもの。大丈夫、今夜の演奏も、きっとうまくいく──。




 * * *




 陽の光が町並みを照らす、穏やかな午後だ。

 王都の中心部に位置するストラウス広場はいつもと変わらぬ賑わいを見せる。


 広場の中心にある大きな噴水は王都の人々の憩いの場だ。

 石英の美しい女神像を守るように、二頭の獅子の彫像が気持ち良さそうに水飛沫を浴びている。その傍で子供たちが無邪気な歓声を上げながらふざけあっていた。


 王太子ラエルの隣で愛馬アレクサンドラが噴水の水面に首をもたげている。

 ラエルは時折、政務の合間を縫って城下に忍んでは、噴水の袂に腰かけて人々を眺めるのが好きだった。

 王都の民の笑顔を見ていると、身を粉にして政務に明け暮れている日々が報われるような気がするのだ。


 噴水を囲むようにして広場中に幾つもの露店が開かれ、新鮮な果物や、焼いた肉を挟んだバンズなんかが売られていて、片手に持って歩きながら食べ歩く者もいる。

 着飾ってきょろきょろと目を泳がせている若い婦人は、恋人との待ち合わせだろうか。


 「こんどはオレがカッコいいでおまえがだからなっ!」


 舌足らずの幼い子供たちが「うわーっ」と叫びながら目の前で追いかけっこを始めたのを見ると、ラエルの口元に自然と笑みが溢れた。


「そこの騎士様、ご苦労さま! 休憩中なら搾りたての野菜ジュースはいかが? あんた顔がいいから、うんと安くしておくよ」


 声をかけてきたのは手押し車をカラカラ押した細身の女性だ。


 城下に忍んで出向く時、予期せぬ非常事態に備える目的と一般人へのカムフラージュを兼ねて、ラエルは警吏騎士団の隊服を身に付けている。


 王都の治安を管轄する警吏騎士団の隊服は鮮やかな青色であるが、なるべく目ただぬようにと騎士団長が纏うのと同じ《黒い隊服》を選んだ。

 そのため、ラエルは表向き《警吏騎士団の副団長》であり、この事は現役の騎士たちにも周知されている。


 しかし、目立たぬように……と言っても近くで見れば騎士団の隊服だとわかってしまう。


「一杯、もらおうか」


 王都の民のほとんどが王太子の顔を知らない。

 それはラエルにとって都合のいい事。だからこそ、こうして素顔をさらして堂々としていられるのだ。


「七シックルだよ、さぁ飲んでみて。ほっぺたが落ちるよ!」


 女性はピッチャーに入った何やら怪しげな黒っぽい色の液体を、荷台に積み上げたゴブレットの一つを取り上げてなみなみと注いだ。


 手渡されたそれを豪快に飲み干して、ラエルは渋い顔をする。

 「ひどい味だ」


 馬と並んで歩きながら広場を横切り、通り沿いのパン屋に立ち寄った。

 手綱を引く愛馬アレクサンドラは銀色のタテガミを持つ美しい白馬で、彼女の大きな身体はただそれだけで目立ってしまう。

 幼な子が目を輝かせてアレクサンドラを指差した。頭の良い馬にはそれがわかるのか、「ヒン!」と得意げに鼻を鳴らすのだった。


 路地裏の暗がりに中年の女性とその子供らしい人影が肩を寄せ合っている。

 親子に歩み寄ると、屈託のない瞳でラエルを見上げる子供に先ほど買ったパンの袋を手渡した。

 そして懐から小さな布袋を取り出すと、戸惑う母親の手に握らせる。


「一時凌ぎにしかならないだろうが、何か滋養のあるものを買って子供に食べさせてあげなさい」


 ラエルは渋面を作り、ぐ、と奥歯を噛み締めた。


 ──じきに新たな予算が下りる。そうなれば、この者たちや火災の被害者を救えるかも知れない。いや、救わねば……!



 ラエルが去った路地裏で、人知れず親と子の歓声と涙が流されていた頃。

 アレクサンドラを厩に預けたラエルは、『ワームテイルズ・バール』という看板を掲げた店の前に立った。


 重厚な木製の一枚扉を開けると、店内の喧騒が一気に溢れ出す。

 こじんまりした佇まいにしては、店の中は広くて明るい。


 夕刻を迎えようとしているバール……つまり都会的な洒落た居酒屋である……は、昼間から飲んだくれる男たちで賑わっていた。


 フロアの奥には、年代物のグランドピアノが一台置かれている。


「いらっしゃい」




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