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13・レティア・ヴァーレン 〜 夕星の転生(2)


「失礼、わたしはこういう者だ。王都で幾つか酒場を経営していてね。もしも仕事を探しているなら、是非わたしの店に来てもらいたい。君なら、他のどの店にも負けない看板娘になる筈だ」


 少しばかり興奮した様子の紳士は、とある酒場の名前を書いたメモをレティアに差し出した。


「……ええ、存じ上げておりますわ。デュークストリートの、メンデル子爵様」

「驚いたな。初対面なのにどうしてわたしの名前を?」

「いつもブロッツさんの書店で本を注文してくださっていたわ」


 紳士が窺い知れない顔をするのを楽しむように、レティアはにっこり微笑んだ。

 もちろん店の名前を書いたメモなど受け取りはしない。元は大商人の令嬢だったレティアは、極上の挨拶カーテシーのしかたを心得ていた。


「時間がありませんので……失礼いたします」


 その紳士が経営する店の幾つかに、かつて何度も足を運んだ。


 ──どんな小さな事でもいいんです、掃除でも、食器洗いでも荷物運びでも、何でもやります。どうかここで働かせてください……!


 惨めにすがればすがるほどひどく怒鳴られ、戸口に舞い込んだゴミを払うように足で蹴られた。


 ──このドブネズミが! さっさと失せろ。


 あれほどに悲しく屈辱的な言葉をレティアは知らない。


 紳士と別れて街の中心にあるストラウス広場に向かうと、レティアは朝市の一角で野菜を並べている人の良さそうな中年女性の前に立った。


「お久しぶりです、ロドリゲスさん!」


 女性が顔を上げれば、美しい娘が微笑みかけている。


「いらっしゃい……あら、前にも会ったかねぇ? ごめんよ、こんなキレイなお嬢さんなら、忘れることはないと思うんだけど」


 野菜売りの女性は照れたように、ふくよかな頬を緩ませた。

 本屋の仕事の前に、時々ここで野菜売りの店主ロドリゲスの手伝いをしていた。気さくで優しいロドリゲスは、レティアの手伝いのお礼だと言っていつも手に余るほどの野菜を分けてくれていた。


「わかりませんか? 私です……って言っても、最後にお会いした時は『僕』でしたけれど」


 レティアはキャップを被る真似をして見せる。


「その髪、それに瞳の色も……あんたまさか、レティー?!」


 うなずいたレティアに、まあっ、と女性が歓声をあげて抱きついたので、周囲の人々が驚いて視線を向けた。


「綺麗な顔の子だとは思っていたけど、女の子だったなんて。なんで今まで男のフリなんかしてたのさ?! でっかい帽子なんか被って半分顔を隠してたから、気付かなかったよ……」


 レティアは周囲を見ながら「シッ」と指を口元にあてて声をひそめた。


「このこと、周りの人には内緒にしておいて欲しいのです」

「……どんな事情だか知らないけど、あんたはそっちの方が似合ってるよ」


 ありがとうと、レティアは微笑んだ。


「私、本屋をクビになってしまって。だからもう市場に本を売りに来ることは無いし……お手伝いもできないの。おばさんは一人で大変でしょうから、心配なのだけど」

「何言ってんの、あたしはまだまだ元気だよ! 見てごらんなさい、この腕っぷし。それよりレティー……」


 女性は中腰になり、レティアにそっと顔を寄せる。


「昨日、久しぶりにを見かけたのさ。ほら、前にあんたが怖がってた……あの二人組の男たち」


 途端にレティアの顔色が変わる。


「だから気を付けなよ? ああ、レティーったら、平気かい?!」


 青ざめた顔を心配したロドリゲスに「パン!」と背中を叩かれるまで、レティアは身体を硬直させていた。


「大丈夫さ! あんたには、あの男前の聖騎士様がついてるんだから。あれだけ親密なあんたたち二人のことだから、彼も事情を知ってるんだろう?」


 ロドリゲスは幼馴染のアルヴィットのことを話しているのだろう。


「はい……でも、親密だなんて」

「聖騎士様はサイモン・ワイズのご子息だ。しょっちゅう訪ねて来るから、てっきりあんたを弟みたいに思ってるのかと。でも、あたしの読みはちょっと違ってたみたいね?」


 ロドリゲスは意味ありげにウインクして見せる。


「おばさん、私とアルはそんなんじゃっ」

「ふふ、まぁ何だっていいじゃないか。また顔を見せておくれ。あんたのこと息子みたいに思っていたから……ああ、息子じゃなくてだったね?」


 朗らかな微笑みに励まされ、レティアも硬くなった頬を緩ませる。

 身近にあった梨とリンゴ、それからオレンジ、レモン……それらを袋に詰めたものを、ガサッと渡された。


「ロドリゲスさん、これ」

「気にすることないよ。少しだけど今まで手伝ってくれていたお礼だ。またおいで! とっておきのを用意しとくから」


「ありがとう、ございます……!」


 ──今までどうして気づかなかったんだろう。

 自分ひとりが辛いと卑屈になって。もうだめだと諦めて。

 私を見てくれている人たちがいたのに、見ようとしていなかったのかも知れない。

 こんなに親切な《友人》がすぐそばにいてくれたのに。


 幼馴染のアルヴィットだってそうだ。事あるごとにレティアを助けてくれていたではないか。


「あたたかい……」


 建物の合間に顔を覗かせた太陽が伏せたまぶたに眩しかった。

 ストラウス広場は今朝も賑わっている。

 レティアは渡された袋を大事そうに抱え、広場の真ん中にある噴水へと向かった。


 大きな時計台を兼ねた女神の彫刻の手元から豊かな水が流れ落ち、女神の足元に広がる水面みおもがきらきら輝いている。

 耳に心地よい水音を聴きながら、レティアは噴水の袂に立ち、広場を囲む街並みをぐるりと見渡した。


「大丈夫、今度こそちゃんとした仕事を見つけてみせる。の厚意を無駄にしないためにも……!」


 ──私の妻になってもらえませんか。


 信じていれば、いつかきっと。


 ──大人になった君を迎えに行く。


 その言葉が『ほんとう』になる日が来る。

 顔を上げたレティアにはもう、以前のおどおどした様子はなかった。


 そして彼女はそこから新しい人生を踏み出した。

 少年のレティーではなく、レティア・ヴァーレンとして生きる道の新たな一歩を──まだ彼女の知らない、真綿と、荊棘いばらとで編まれた道を。




 * * *




「あの、私っ。今日からお世話になるレティア・ヴァーレンと申します!」


 正直、出したこともないような大声だった。

 けれどそうでもしなければ、このの中ではレティアの細い声など掻き消されてしまっただろう。


 ──えっと…………。


 目の前で、大勢の女性たちが目まぐるしく右往左往している。

 大きな四角いテーブルの上で生地を断つ者、パターンを引く者。

 レティアの目には珍しい《ミシン》を扱う者。

 奥の部屋の扉は解放されていて、トルソーに着せつけた色とりどりの豪奢なドレスが何着も飾られている。


 誰一人としてレティアの方を振り向く者もいなければ、張り上げた声に反応する者もいないので、さてどうしたものかと戸惑ってしまう。

 途方に暮れたレティアがハンドバッグを握りしめて立ち尽くしていると、


「あら、あなた。今日からだっけ?」


 背後から明朗な声がして、筒状に巻かれた生地を何本も抱えた女性がレティアの顔を覗き込んだ。


「はい、レティア・ヴァーレンと申します。アルヴィット・ワイズ様にご紹介いただいて参りました」

「アルったら! 私は来週からって頼んでたんだけど? まぁいいわ、とりあえずこっちに来て。みんな忙しいから、仕事が終わってから紹介する!」


 両手が塞がっているので、それだけ言うと女性は「こっちよ」とばかりに顎で示した先に向かってさっさと歩いていく。


 レティアも慌てて彼女の後を追いかけたのだが……これが王室御用達の衣装サロン『アンブレイス』の店主、シーラとの出会いだった。


「店主のシーラ・ブライトンよ。シーラって呼んでね」


「はい、シーラさん」

「だからシーラでいいってば。まぁ、あなたとそう歳は変わらないでしょう」


 レティアよりも一回りほど年嵩に見える彼女は屈託なくニヤッと笑う。


「ごめんね〜バタバタしてて。週末に王室に上がるのよ、アーナス様のドレスの仕上がりの確認で……そうだ、アーナス様。あなた知ってる?」

「いえ、存じ上げません」

「そりゃあ知ってるわけないか。私たちだってまだ数えるほどしかお会いしたことないんだけどさ……ああ、レティアだっけ? あなたも覚悟しといた方がいいわよ」


 後頭部で一つに括られた赤茶色の髪が、馬のしっぽみたいに元気よく跳ねている。目まぐるしく立ち回る者たちを器用に避けながら、シーラは工房の奥へと進んだ。


「覚悟、ですか?」

「ええそうよ。あの王太子妃候補……アーナス様は、そりゃあもうなんだから!」


 恨みでも込めるように、シーラが眉間に皺を寄せながら言う。それを言うために、わざわざレティアを振り返ったほどだ。


「たい、へん……」


 何がどうなのだろうと、レティアは首を傾げたが──。

 週末に訪れる王城で、シーラの言葉と眉間の皺の意味をレティアも身をもって知ることになる。




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